津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・中根氏

2010-01-29 11:07:25 | 歴史
 中根氏といえば平清盛の伯父・忠正を祖とする戸沢・中根・服部氏があり、後年徳川家光の側衆を勤めた正盛が著名である。その家紋は「抱き茗荷」だとされる。

 細川家家臣中根氏の家紋も「抱き茗荷」である。一族であることは間違いないところであろう。
初代市左衛門(御鉄炮頭衆 千石)以来、御番頭を輩出する家柄で、明治に至たった。
三代次兵衛・正春(御物奉行-小兵衛組・千石 御侍帳・元禄五年比カ)の室が、奥田権左衛門(初代)女・きちであるため「転切支丹奥田権左衛門・系図」に中根氏も名を連ねている。

 又、分家・市十郎家(500石)があり、その資料「中根家文書」が熊本市立図書館に収蔵されている。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本秀煌氏の論考

2010-01-29 08:24:27 | 歴史
 ガラシャ夫人の最後については、有名な「霜女覚書」とともに「小須賀覚書」なるものが存在することが知られている。(芥川龍之介の「糸女覚書」を引用している、歴史家があるが言語道断の話である)その小須賀覚書は当サイトでもご紹介しているが、出典は山本秀煌氏の「細川公爵家の先祖忠興夫人の信仰美談」である。(昭和5年1月20日山田聖天堂発行)この山本秀煌氏の肩書きを見ると、「日本基督教会宣教師」とある。なるほどと納得させられるが「小須賀覚書」が何所から出てきたものかが、はきとしない。またこの本を手に入れたいと長年チャレンジしているが、これは絶望に近い。

 さて、ガラシャ夫人の生涯のさい、介錯役を勤めた小笠原少斎の三男が、切支丹殉教者として列福(平成19年)された小笠原玄也である。家族や奉公人ら15人と共に1636年殉教し、共に列福された。いろいろ調べている内に、山本秀煌氏の著書に「西教史談」(大正15年)があり、ここに「加賀山隼人正と其の一族の殉教」という項があることを知った。55ページに及ぶ膨大な論考である。加賀山隼人正は細川家家臣6,000石、小笠原玄也の岳父(妻・みやの実父)であるが、こちらは細川家の手により誅伐された。いとこの加賀山半左衛門、その息子も日出藩木下家によって命を絶たれた。共に列福された。

 山本秀煌氏のこの論考は、出典資料も確かなものでこれら関係者を知る上で、一等の資料といえよう。(国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で御覧いただける)いろいろな論文に引用されていることが窺える。キリスト教史として捉えられているが、細川家の歴史を考える上で大変すばらしい業績といえる。               
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

齊護卿遺事 ・・ 1

2010-01-29 08:12:05 | 歴史
一、齊護卿の寛洪大度におはし、徳量のほどをたとへ奉らんは、いともかしこかれと、所謂
   洋々たる大江の濁すとも、にごらず、澄せずも、すまずよいふべき有様になんおはしま
   しける、まづ、近うつかへ奉る男女にかぎらず、殊遇特愛の目ざましかる事もあらざれ
   ば、又不慮に職を遞かれ遂に身の品貶されて、冤苦に沈めるものも聞えざりけり、近侍
   のみしかあるにあらず、大臣をして用ひざるに、恨ましめずといへる聖旨にも叶はせ
   給へる事どもぞ、おはしましける、君の徳量のかくあらせられしかば、當時の諸大名に
   して信じ慕はせ給ひしかたがたも多かりけらし、近頃京都守衛として、諸大名及び諸
   藩士上洛せるに、我藩士の内、伊豫の宇和島侯の見参に入りし者のありけるに、侯の曰く、
   そこが先君と吾と才の程較べたらむに、さまで劣るべうは覺えねど、徳量におきては、
   梯たてゝも及びがたかりける君にておはしけるよと、かへすがへすのたまひしとぞ、此
   侯は諸大名の中にても、殊に豪邁の聞えありけるに、かくしものたまへるは、實に信服
   せられし事どものおはしましたるにこそあめれ、凡そ寛洪簡重の徳を以て、三十年餘

   の平治を得させられしが故に、ことさらに称挙し奉るべき蹟とては多く見えさせ給
   はず、その跡なきぞ、中々に盛徳の至りたるきはみなるべき
一、御在勤三十年餘の間、江戸登城謁見の式等、つひに塵ばかりの失あらせざりしな
   ど、いともありがたかりける御事なりきと、年久しく御城使つかまえまつりし老人の涙
   たれて物語をりき、恭謙を第一とせられければ、公務いさゝか怠り給ふ事おはしまさ
   ざりきとぞ覚えし
一、御襲封の初より、御規式の事ども、有司/\よりしらべ奉れるを御覧じては、御先代に
   かはれる事どもなきやと仰られて、聊も先格を違はせ給ふ事おはしまさず、殊に霊感
   院君の御跡をふませ給はんの御心ふかくおはしましぬ、奥ざまの御事にても、年ふり
   たる女房どもに、先代の御おきて見きゝ傳へたらむをば聞しめす事、いとも懇なりし
   御事なりきとぞ
一、常に御勤孝をむねとし給へば、
   諦了院老君(齊茲) 蓮性院大夫人(齊樹室) に事へさせ給へる事のうへにもけやけく挙称へ奉らん
   は中々にて、ただ數十年の間の御孝養一日の如くかはらせざりしこそ、最もめで
   たかりし御事なれ、されば五節句朔望の登城の御歸るさには、必ず白金の館に参り
   たまひぬるに、寒暑のいみじきをり、風雨のいたくあれぬる時には、かの御方より今日

   はな入らせ給ひそとの御便ありき、これさもおはしまさねば、御厭ひなく参り給ふが
   故の御心づかひなるべし
一、弘化二年の春、江戸青山より火出て延焼に及び、白金邸第も焦土となりぬ、大夫人には
   先づ假に目白臺なる新邸に移らせ給ひ、白金邸館を造らせ給ふほど、君いたく御心を
   盡させ給へり、いかで速につくり出してよ、大夫人には、ことに雷をきらはせ給へるに、
   目白館はかりそめなる所にて、御心もやすからじと思召せば、かねては倹約をむねと
   守らせ給へども、此度の事は、資用を増してだに、早く作り出してよと、おきてし給へり
   しほどに、初め工匠等が積り申しゝは、秋も半に至らずば落成せじといひしに、思ひの
   外速に成就しぬるは、ひとへに君の御眞實によれるなりとぞ申あへりける、君の萬に
   御心もちひたまへる御有様を、一橋家の御内にて、年老いたる女房達伺ひ奉りて申し
   しには、あはれ蓮性院君には、いみじき御果報こそおはしましけれけれ、守殿のかほどまで
   御奉行ならむには、實の母子も及ばじ、やむごとなきかたがたは、うはべの親しみこそ
   あれ、かたみに打とけさせたがたかめるを、此殿の御中らひには、さる御有様つゆほども
   見えさぬ給はぬなりと感じあへりきとなん
一、君宇土にいましゝ時より、専ら文武を學び給ひて、鳥獣草木の類、其外の玩弄の物を近
   づけ給はず、宗家御相續になりては、宿儒辛島才蔵が致仕し居けるを、優に微して、再勤

   せしめ給ひ、葉室直次郎、侍續につかへ奉るなどをはじめとして、經傳軍理の講義を聞
   しめす事等、終身廃し給はざりき、書を能し給ひ、馬術に長じ給へる事等は、ことさらに
   たゝへ奉るに及ばず、君はやく父君にわかれ給ひしに、御母君栄昌院夫人の、うち/\
   の御さとし厳にまし/\しに順がはせ給ひし志るしおはしまして、政事のうへにも
   めでたき御事どものあらせられしなるべしと、久しく咫尺し奉りし、大槻弾蔵などは、
   現に伺ひ知り奉りし事もありきとなん、されば常に容體温良、威厳を兼させ給ひ、奥殿
   燕居の時にも、袴を脱がせられざりきしを、有吉市郎兵衛此時御用人間を得て申上げけるは、
   前々の殿にも、かゝる御時には袴を脱ぎ給へりし、君にもさあらせられんこそよろし
   からめとありしに、いはけなき時よりのならはしにて、却てこゝろよきはとのたまひ
   し、これ等全く厳母君の御教訓の及ばせ給ひしにこそ
     栄昌院夫人の御事を■に伺ひまつるに、御本性貞正におはして、常にからやまとの
     古き正しき書を見そなはし、御座所には志かるべき書籍のみありて、玩弄の物なく、
     男子の室の如くなりきとぞ、世に賢夫人と稱し奉りしもうべなり、前世子慶前君永田
     町支邸より、本部に移らせ給へりしは、年僅に八つの御時にて、ひわづなる御身なり
     しに、はや時經をよく讀み給ひしとぞ、是れ厳祖母君栄昌院夫人の御さとしならず
     ば、いかでかくおはしまさむと、傳奉りし清成八十郎など申あへりし、君の末だ
     幼くおはしまし、時御側につかふまつれる少年に、蕃椒を喫せ給へりしを、御母夫
     人聞しめして、上下共に人にかはる事はなきとて、君にも蕃椒を甞させ給ひし
     とぞ、これにても、夫人の厳訓はかり知り奉るべし(編者云、夫人の事蹟は「谷の忍ぶ」という書に委し)
一、宇土にいましゝ時は、散樂の舞ならひ給ふ事なかりしを、諦了院老君の御心なぐさめ
   に近侍に能の舞をならはしめ、君にも勸めまゐらせらる、初め好まれざる事ながら、喜
   多に就て學び給ひしに、不日に驚くばかりによくしえ給ひしとぞ、それより後は御心
   やりのひとつとはなし給へり
一、また宇土にいましゝ時、江戸にて森越中守殿の許に、かたがた集はせらるゝ事ありし
   に、主人宴興を添へられんとて、鳥銃の伎をなす者をして、角的をうたしめらる、一座の
   中には、放發の機関しらぬ人もありて、ひゞきに驚くばかりの人も少からず、君には西
   國におひ立ち給ひ、必ず狩などにもなれ給ふらむ、いかで一發をと、主賓共に乞ひ申さ
   れしに、初はいなみ給へども、強て乞はれければ、さらばとて、はじめ放發しぬる者に習
   はせ給ふ躰にもてなし給ひ、三度はなち給へりしに、三つながら正鵠をはづさせ給は
   ず、満座嘆賞しあひしとぞ、こは宇土御内人有井一馬が物語なり
一、君尤も鳥銃の伎に長じ給ひしかば、常に御猟の幸多かり、野にあされる雁をあゆみよ
   らせ給ながら、ねらひ發ち給ふ、其機の迅速なること、人の及ぶきはにあらざりき
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする