高瀬氏は加藤家臣であったが加藤家没落に伴い浪人、初代善平が忠利公肥後入国に際して召し出された。五代目に文平なるひとがあり、能吏として知られる。
高瀬遊山 名は勝正、通称文平、晩に遊山と称す。藩に仕へ食禄百石、御付目付、郡代、
御側取次組脇、用人等を勤む。頗る才気ありて一世に秀でたる人なりしが、後
譴を蒙りて禄を褫はる。天保五年正月没す。享年八十七。墓は本妙寺中龍淵院。
不破新右衛門昌命の二子、生母は松野七蔵(重賢公代監察)の妹、四代楯之助に請われて養子となった。重賢・治年・齊茲三代に仕え後年中着座・用人等勤め役高を含め千石を領したが譴を蒙りその禄を召し上げられた。宝暦の改革以降、大奉行・堀平太左衛門亡き後の力関係が、譴言で能吏の失脚を狙うという不愉快な事件となって現れている。嫡男・寛太郎も優秀な人物であったらしいが禄を放たれ、文平の跡は二男・丹次郎が家督した。
【御知行被召上候 寛政十二年十二月廿二日 高百石 高瀬文平・丹次郎】
ここに記されている丹次郎の書き込みは、寛太郎の間違いであろう。
文平は「肥藩落穂集」を著し、高瀬武昭が「銀台拾遺」を表した。
高瀬遊山 名は勝正、通称文平、晩に遊山と称す。藩に仕へ食禄百石、御付目付、郡代、
御側取次組脇、用人等を勤む。頗る才気ありて一世に秀でたる人なりしが、後
譴を蒙りて禄を褫はる。天保五年正月没す。享年八十七。墓は本妙寺中龍淵院。
不破新右衛門昌命の二子、生母は松野七蔵(重賢公代監察)の妹、四代楯之助に請われて養子となった。重賢・治年・齊茲三代に仕え後年中着座・用人等勤め役高を含め千石を領したが譴を蒙りその禄を召し上げられた。宝暦の改革以降、大奉行・堀平太左衛門亡き後の力関係が、譴言で能吏の失脚を狙うという不愉快な事件となって現れている。嫡男・寛太郎も優秀な人物であったらしいが禄を放たれ、文平の跡は二男・丹次郎が家督した。
【御知行被召上候 寛政十二年十二月廿二日 高百石 高瀬文平・丹次郎】
ここに記されている丹次郎の書き込みは、寛太郎の間違いであろう。
文平は「肥藩落穂集」を著し、高瀬武昭が「銀台拾遺」を表した。