津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

雑兵物語

2010-01-24 18:26:22 | 書籍・読書
 國學院大学デジタルライブラリー「兵法・武道関係」を御覧いただくと、古文書「雑兵物語」を見ることができる。口絵が美しく楽しい。
           http://k-aiser.kokugakuin.ac.jp/digital/menus/index14.html

 天草嶋原一揆に於いて幕府軍の指揮をとった、松平信綱の第五子・信興(高崎城主)の筆と伝えられるが、当時の書としては大変めずらしく口語文で書かれている。その口語文を紹介している「口語法別記」という著作が松平信興の作である事から、「雑兵物語」も信興の作であろうとされているらしい。「口語法別記」も、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見ることができる。
           http://kindai.ndl.go.jp/

 天草嶋原一揆以後戦いのない平和な時代が訪れた。しかし本当の戦の有り様を後世に伝えようと書き残されたものとされる。どの地方の言葉なのか窺い知る事も出来ないが、雑兵達の話し言葉での記述が、臨場感に溢れて生き生きと伝わってくる。

 私は「かもよしひさ氏」の著作本を所蔵しているが、イラストレターでもある氏の楽しいイラストがあって抜群である。先のブログで黒鍬衆に触れたが、いざ戦となっても即出陣とは行かないの様々な仕事が存在する。雑兵達の実にこまやかな配慮がないと、とても勝ち戦につながらない事がよく分かる。
この本を座右に置いて、國學院大学デジタルライブラリーで古文書の雰囲気に触れている。
コメント (2)
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風説秘話 ・・ 1

2010-01-24 17:00:42 | 歴史
一、中西格助若年之時高橋に在宅せしか是ハ父極て壮健ニて
   毎朝七比より格助を起して熊本二鎗之稽古ニ出さしむ餘時
   刻早き故格助ハいつも祇園山の北邊に高夜を明し出たると
   なり又或時格助高瀬に行帰りに留降暗夜故烑灯を借て来
   し候者父甚タ気ニ不入汝ハ烑灯を借りて来りしや乍骨折
   一寸返て来るへしとて九ッ比より押返て又高瀬ニ遣したるとそ

一、寛政中岩越佐十郎山崎天神丁ニ屋敷を求め普請シ
   たる時嫡子何某如何儀趣意にや佐十郎か若黨ニ切懸シ
   を佐十郎留故討損し若黨ハ正光寺江迯込而立願に至り
   佐十郎彼寺江行向 此時嫡子ハ家ニ止不行届子細不分明 坊主ニ断討捨んとしたれと
   坊主寺法の候間此所を御用捨被下門前ニて御勝手次第可被成
   と云佐十郎不聞入是非仏前近所ニて打捨けり坊主殊
   之外噴り段々理屈を連て寺法立候様にと云かといかゝ成候ん
   不詳

一、寛政年中寺本順次母僕ニ用事云付レニ如何成訳候僕大ニ悪口
   す順次一間より聞付立出て叱し候ハ猶順次ニ對し悪口を言募ル
   程に直ニ斬付ぬ其所臺所なりしか立上り戸の外迄迯行を
   追詰二ノ太刀ニ首打落シ留を刺たる也

一、上月八右衛門養子俊五不行跡ニ付御暇願在中へ引込居し候
   猶ニ行跡不宣謡乱■■せし候ハゝ八右衛門手打したり此時人の
   云たるそ御目見相済たるものハ子弟といへとも容易ニ手討ハ
   成間敷然共俊五者御暇被下たる者故此論にあらず
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黒鍬衆

2010-01-24 10:46:26 | 歴史
 細川藩江戸中屋敷「白銀邸」の近くに、黒鍬衆が住まいした一画があったらしい。
「港区江戸古地図めぐり」というサイトによると、「 魚籃坂下交差点を桜田通りに左折すると右手一帯」とあった。本当かどうかは知らないが、後には隠密仕事をしたとか言うが、本来は戦場で「工兵隊」の役目を果たした人たちだ。その魁は細川家にある。綿考輯録を読むと、天正十八年松井康之が、「荊棘が生い茂り、堀溝多く、石高くして難儀なりしに」、鍬を数多持ち込んで云々とある。そして、「此時より陳具に多くの鍬を持せられ候後ニ家康公も御感にて畝鍬之衆を御定被成候由」とある。ウィキペヂア等を読んでも、ここまで触れられては居ない。「熊本城下の地名」の「黒鍬町」を読んでも出てこない。後のことはさることながら、本来の黒鍬は松井家が発祥である。
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ケ輪

2010-01-24 09:44:47 | 徒然
 熊本における藩主の居館「花畑御屋敷」図を眺めていたら、あることに気付いた。
「縁側」を「縁ヶ輪」と表記している。また敷地の周囲の長さの表記にも、東ヶ輪(東側)
○○間とある。はじめて見る表記でちょっと驚いている。
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