津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

有吉家御家傳略 - 8 (嶋原一揆 ・ 1)

2010-01-09 10:55:22 | 歴史
一、肥前国嶋原の城主松倉長門守重次同國唐津の城主寺沢兵庫頭忠高ともニ政道正しか
   らすして四民大に困窮す今年寛永十四年十月より肥後宇土前領主小西攝津守行長浪
   人益田甚兵衛好次と云者切支丹宗門を修し其子天草四郎大夫時貞を伴乱を起す嶋原
   之城を攻城主は在府にて留守居防事を不得して隣国ニ加勢を乞申候寺沢領分肥後天
   草ハ益田甚兵衛浪居之地にして各是に語ふ者多し此由熊本より府内御目附牧野傳蔵
   殿林丹後守殿え忠利公光利公御在府ニ付き御三老より被仰達候忠利公光利公江も早
   打を以被仰上候事
一、御目附衆両人高瀬江御越ニ而長岡佐渡殿英貴君を被召呼候ニ付御両人高瀬江御越
   被成候処委細嶋原の様子御尋御時分之下知も難及江戸江御伺ひ御下知次第と有之
   先他國の加勢被制旨ニ付其意を御受被成御引取被成候若又江戸之趣ニ依て加兵被
   差出趣有之時之ため兼て御定之趣を以長岡佐渡殿 英貴君 長岡監物殿被仰合候得
   而御内用意御座候内賊徒夥敷蜂起し寺沢老臣天草富岡城代三宅藤兵衛重利と所々
   にて戦ひ本渡廣瀬ニおゐて終に三宅を討取申候然るに上使板倉内膳正殿御下向にて
   鍋島信濃守寺沢兵庫頭を以嶋原の賊を罰せん事を命す然所肥後天草ニも一揆有るを
   以上熊本人数是を罰せよとの旨ニ依て拾弐月三日英貴君御手兵七百四十人隊下之士
   卒合弐千六百餘人被召達天草表江御越被成候処早速引拂申候彼地は相納り申候二
   付御引取被成候事
一、上使として松平伊豆守殿 信綱 戸田左門殿 氏綱 を被差下九州の兵を以鎮征すべき旨
   被命同十五年正月元願(ママ)ニ城を攻て利なし此時上使板倉内膳正殿 正重 鉄炮ニ中
   り被卒候同二日光利公川尻より御出船ニ而嶋原江押渡り給ふ同廿六日忠利公も嶋原
   江御着被成候ニ付佐渡殿英貴君其外隊下を被卒御迎ニ御出被成候ニ付直ニ御陳営江
   御入被成候事
一、同年二月廿八日惣攻ニ相極居候処同廿七日英貴君御時分仕寄場江有合者共拾四人
   被召三ノ丸よりニノ丸江御乗入被成候小屋江居申候士卒追々聞付て馳付申候英貴君
   御家士三ノ丸江早々乗入候者ニは戸田十之丞・菅五太夫・原田三大夫・荻野兵助・石
   田櫓右衛門 御鉄炮頭ニハ岡部上田形右衛門組之鉄炮弐拾挺真先ニ進ミ押並三ノ丸よ
   り打出申候敵方之鉄炮ニ指向ひ能矢板を打せ二ノ丸之堀二着城中絵乗入らんとする時
   城中より鉄炮ニ而股を打ぬかれ申候ニ付き引取申候様御弓頭篠原角左衛門申候ニ付
   組を角左衛門江渡し其場引取申候形右衛門嫡子岡部多門一同ニ居申候処敵之横矢の
   鉄炮ニ中り即座に死申候鉄炮頭斎木 菅沼 半左衛門組之鉄炮弐拾挺を左右に備へ三
   ノ丸江乗込二ノ丸ニ向て鉄炮を散々に打合二ノ丸ニ乗込申候此時嫡子斎木三左衛門を
   以添頭として一所ニ有りて相働しが三左衛門鉄炮手を負引取申候御鉄炮頭長坂五郎
   兵衛仕寄場ニ手鉄炮手を負組支配不叶故に嫡子長坂右兵衛ニ直ニ組を渡し申候ニ付き
   右兵衛組之者共を立並て三ノ丸よりニノ丸江乗込本丸の大手口へ着申候処大手口より
   秱敷鉄炮を打出申候ニ付指向ひ組を働しめ鉄炮を打せ勢り合申候内ニ敵突て出る故ニ
   鑓鑓付て首を壱ツ従者ニ取せ申候御鉄炮頭名は善左衛門も組之者を卒て■りへて敵之
   城門を打志■ます御弓頭木部清大夫組之弓之者を卒三之丸より二ノ丸江乗入申候時
   須戸口ニ而敵防けるを得物之鉄炮ニ而敵壱人打倒し申候此時英貴君ニノ丸江御乗入被
   成候御馬験奉行井上 内藤 左門其外仕寄場江有合申候者共乗込申候御小屋ニ而聞付
   馳付る御馬乗ニハ山田五左衛門ニノ丸江乗込一揆壱人討取英貴君江追付申候渡邊傳
   左衛門もニノ丸江乗込須戸口ニ而戸こしニ鑓を突申候得而一揆壱人突伏申候武藤十左
   衛門御持鑓奉行して本丸下ニ付御側長柄を持て突入れ二ノ丸ニ而一揆壱人討取申候
   中松傳助も二ノ丸江乗込敵壱人討取本丸下ニ着申候御家司葛西惣右衛門嫡子同伊織
   岡沢岡崎兵左衛門一同ニ二ノ丸江乗込本丸下ニ着申候本間縫傳殿二ノ丸江乗入須戸口
   せり合之時分鑓を合敵突伏申候大山三十郎・斎木喜太郎御持筒頭中山半左衛門組之
   鉄炮を卒ニノ丸江乗入申候処城中より鉄炮ニ而服を打れ組支配不叶して井上左門ニ組
   を渡し引取申候岡田作左衛門も中山半左衛門一同ニ馳付本丸大手之升形ニ而一揆壱
   人突伏申候御長柄頭生地貞右衛門立川四郎兵衛組之御長柄を押来申候松田赤尾嘉右
   衛門御旛を引廻して英貴君御脇ニ備へ申候御家司有吉次太夫嫡子菅弾助御馬乗ニ
   者吉田五左衛門・西尾吉左衛門・戸田吉十郎・門司喜左衛門追々二ノ丸江乗込本丸下
   二着申候佐渡殿英貴君ニノ丸江御入二手火を放焼拂給ふ其後忠利公より上使の旨に
   任せ■引二軍可揚と被命故に英貴君より御家司井上左門・中山羽右衛門組之持弓之
   者共を卒先手ニ進て本丸堀の手に付居候者共を引取しむ葛西惣右衛門・同伊織・中松
   傳助・團六左衛門・荻野兵助・本間縫殿・斎木喜太郎・木部清大夫・生地貞右衛門抔は
   最初より先手ニ進て堀岸ニ月居候を引揚候得と井上左門・中山羽右衛門より示遣候得
   共其時松井式部殿 寄之 手より本丸江乗込候様子を見請申候ニ付如何すべきと仕候処
   に本丸内ニ火之手見へ申候ニ付取て返し本丸に乗込申候御家司葛西惣右衛門・同伊
   織御家士團六左衛門一所に而鑓を入れ惣右衛門一騎弐人討取鑓而を負ひ申候伊織も
   弐人討取申候六左衛門壱人討取本丸江一同ニ乗込申候其外御鉄炮頭斎木半右衛門・
   篠原角左衛門・長坂右兵衛・木部清太夫御長柄頭生地貞右衛門・立川四郎兵衛御家司
   有吉次大夫・嫡子菅弾助其外御馬乗前後左右ニ乗入り一騎討取申候 上使松平伊豆守
   殿 忠利公・光利公も本丸江入給ひ大将四郎がいえ燃残たるを火矢を付かけさせ是を焼
   立給ふ大将四郎が首を陳佐左衛門討取申候 上使松平伊豆守殿・戸田左門殿より有馬
   原之城落去致候ニ付諸将御帰陳可有旨被仰渡候ニ付三月朔日光利公御帰陳被成候同
   二日ニ忠利公御帰陳被成候ニ付佐渡殿 英貴君は被残置陳拂之上御帰陳可被成との
   旨ニ御座候事
  
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八昼八夜

2010-01-09 08:42:23 | 歴史
12/28「血脈断絶の危機」を書いたら、久しぶりに悪友がメールを寄越した。
「お前、熊本から江戸まで 八昼八夜 は無いだろう・・嘘はいかんぞ」という。
メールが酔っ払っているように・・・くどい。「これこれこうした文書に書いてある」と説明しても通用しない。我が奥方と同様で、私は「講釈師見てきたような嘘をいい」扱いである。「ものの本に書いてあるからと言って信用できるか・・」とうるさい。

事は肥後細川家の血脈が継承されるかどうかの話だから、嘘じゃーあるまいと思うのだが・・
(実は私とて ほんまかいな と、思ってはいるのだ)

 その人は杉浦仁一郎である。大役を自ら買って出て不眠不休八泊八日で江戸へ着いたというのである。白文であるが「杉浦仁一郎行状略」と云うものがあるのでご紹介する。

          諦観公薨于江戸邸、不有適嗣、當路之臣、有養幕府庶子為嗣而營
          利者、中川唯之允、時為留守居、相通謀議居多、唯之允欲聞事于
          諦了公、急發江戸而歸藩、當是時、満城之士、一心憤激、皆洞視唯
          之進之姦慝、有狙撃之機、唯之允疾赴ニ丸之臺而請旨、利口便侫、
          公允焉、又直退、遵白河至大江碩而津浦、始達城北之本道、於是政
          府議論紛紜、君時為奉行、亦大概之曰、宇土公族可為嗣也、議家老
          而自赴江戸、然唯之允行太急、至小倉不及焉、君命船人曰、今急奉
          公命而赴江戸、行遅則事不可成、乃晝夜兼行、手出所貯之金、以四
          十両爲一堆、又以三十両爲一堆、又以二十五両爲一堆、曰、某日某
          時而達、則餘四十両、某日某時、三十両、某日棒時二十五両、且曰、
          若怠惰爲遅潦、則有吾刀而已、是以船人相競且畏、不少休輟、四晝
          夜達大阪、時唯之允亦已達焉、是夕舟遡淀、而載夢行、君警機、即
          不僦舟、直命與丁行堤上、與速而舟太後、君四鼓至于伏見、於是始
          先焉、至箱根、山路太憸、夕稍至關、佯報曰、肥之行人中川某、急
          奉命而赴江戸、吏直開門、唯之允後至、通名刺、吏詰曰、■者有肥
          之中川某而過、豈有同人而再過乎、唯之允辨前人之詐名、然事不
          易名、以故滞留二日、是以太後焉、君至龍邸、與同志津田某等相談
          ■宇土侯在焉、幕府之子不可養之議、乗志忠正、成論剴切、拝姦黨
          之儀、唯之允至、志氣沮喪、請幕府以先公爲嗣、故五十五萬石之提
          封、忝得戴勝公以来正統之明公、眞君之力爲大矣、境野藕船之赴大
          阪、問船人曰、汝業舟楫、當數嬰風魚之難、船人曰、僕業航海、犯
          風■其常也、未足以爲懽矣、奉行杉浦君之赴江戸也、僕御其船、杉
          浦君公事之急、嚴期日時、晝夜屹然手刀、如僕輩不戒、則将身首異
          所、威容之可懽、今思之不寒而粟矣、君平日善讀平準書、終身以之
          爲學、松崎慊堂以思國之切、欲一謁公、君周旋竭力、與詰大夫議、
          始得成禮、君免職之後、構小室於水前寺、終身不濟白川、憤慨之節
          可想而已                 田中司撰

             (文中の境野以降は杉浦の行動には直接は関係ない。)

 すっかり悪者扱いニされている中川唯之允は、江戸留守居である。幕府の意向を伝える為に帰国して報告を終えると、すぐさま取って返している。宇土公を藩主に推すことを藩の意向と決すると、奉行・杉浦仁一郎が江戸へと出立する。大金を費やして早舟を雇い、四昼夜で大坂に着き、其の後は陸路を早駕籠で走る。馬であったのかも知れない。箱根までくると先に出た中川唯之允を追い抜き、関所では虚言をもってすり抜け八日目にして江戸龍口邸に駆け込んでいる。以下先のブログで書いた通りだが、これが八昼八夜の詳細である。藩主の死は一ヶ月ほど秘匿され、その間関係者が江戸-熊本間を上下し、重要な決定や難しい幕府とのやり取りを経て、無事九代藩主齊護の誕生を見たのである。
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