八つ銕線紋
柏原家初代・新兵衛は家禄弐百石、二代目新左衛門は忠利代十七歳で児小姓で召し出され千石、光尚・綱利代「寵臣」と云われ三千五百石、その子要人は別禄千石で召し出され父・新左衛門隠居に際してその知行三千石を加えられて四千五百石となり、大々身に出頭した。「肥後先哲偉蹟」の編者・武藤巌男は隠すことなく「寵臣」と断じている。綱利代家老松井興長は綱利や生母に対して痛烈な諫言をしている。その中で「側に寵臣を置き」と批判しているが、さて柏原氏はどうであったのか、武藤氏の言を借りるとその一人と考えられたのか・・? 家老職を勤めるなどの名家である。
要人の弟・弥九郎家も五百石で共に明治に至った。
柏原家初代・新兵衛は家禄弐百石、二代目新左衛門は忠利代十七歳で児小姓で召し出され千石、光尚・綱利代「寵臣」と云われ三千五百石、その子要人は別禄千石で召し出され父・新左衛門隠居に際してその知行三千石を加えられて四千五百石となり、大々身に出頭した。「肥後先哲偉蹟」の編者・武藤巌男は隠すことなく「寵臣」と断じている。綱利代家老松井興長は綱利や生母に対して痛烈な諫言をしている。その中で「側に寵臣を置き」と批判しているが、さて柏原氏はどうであったのか、武藤氏の言を借りるとその一人と考えられたのか・・? 家老職を勤めるなどの名家である。
要人の弟・弥九郎家も五百石で共に明治に至った。