津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・柏原氏

2010-01-18 20:29:25 | 歴史
                             八つ銕線紋

 柏原家初代・新兵衛は家禄弐百石、二代目新左衛門は忠利代十七歳で児小姓で召し出され千石、光尚・綱利代「寵臣」と云われ三千五百石、その子要人は別禄千石で召し出され父・新左衛門隠居に際してその知行三千石を加えられて四千五百石となり、大々身に出頭した。「肥後先哲偉蹟」の編者・武藤巌男は隠すことなく「寵臣」と断じている。綱利代家老松井興長は綱利や生母に対して痛烈な諫言をしている。その中で「側に寵臣を置き」と批判しているが、さて柏原氏はどうであったのか、武藤氏の言を借りるとその一人と考えられたのか・・? 家老職を勤めるなどの名家である。

 要人の弟・弥九郎家も五百石で共に明治に至った。
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24,838

2010-01-18 11:40:44 | 徒然
 あまり数に執着している訳ではないので、サイトのカウンターははずしてしまったが、ブログの方はご丁寧にいろいろデーターを報告してくれる。思い出したように眺めるのだが、ブログ設置から今日まで2,004日(8年6月余)経っていた。第一回の書き込みは2004/7/24日である。サイト自体の立ち上げは2003/8/22日で11ヶ月ほどの差があるのだが、この時期のブログはHDの不具合で「過去ログ」として整備できないままデーターを失ってしまった。その他にも途中でいろいろトラブルがあり、貴重なデーターを失った。サイト立ち上げから9年5ヶ月経過しようとしている。今年の夏には密かにサイト開設10周年の「自祝」をしようと思っている。永い事が良いというわけではないが、単なる歴史狂い爺がおこがましくもここまで来れたのは、まさしく皆様のお陰だとただただ感謝である。時折心臓が悲鳴を上げると、いつまで続けられるのかと不安もよぎるが、所詮は道楽で「気楽に行こう」とB型発想に成る。明日は我が誕生日で御年68歳になる。24,834日生きてきたが、あと幾つ数字を重ねられるのか・・・

              http://thyme.ir.isas.ac.jp/mak/profile/birthday.html

 ブログが途切れた時悪友が「生きとるか・・?」と連絡してきた。そうなるとブログは私の命の証明にも成りそうでいささか心臓に悪い。或る日突然ポッコリ逝きたいと思っているのだが・・・。
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延元様玄也公御一代之御儀覚書 - 7 (了)

2010-01-18 08:27:36 | 歴史
一、寛永元年 忠利様御代二番目之大坂御普請御座候此時より延元様少々被成御煩なり然とも
   為御養生御登り被成御栄■も能御座候よし御普請を御勤可被成との儀にて大坂へ被成御登
   候されとも御栄■■と無御座候に付御上京被成相國寺之脇寺を御借被成御養生被成候通仙
   院炉庵御■被差上其後大醫衆被成御■用候延元様も従公義被近御咹御上京被成様々御療
   治に御座候得とも終に御快気無御座同年八月十三日に御遠行被成候御年五十三相國寺門
   前にて御葬り被成候相國寺之■長老引導奉号永源院殿道号ハ鉄山玄也大居士相國寺守家
   林光院に御願御石塔に今有之
      林光院者御先祖より之御寺にて玄也様御一門
      中様も御住持被成候儀も御座候由申候左様之故に御座
      候哉林光院住持替り申候時もの延元様御代に
      成候而も被伺之後住定申候肥後へ御越被遊候以後
      之儀も■申し候由ニ御座候
一、孝子  延元様高野山普賢院にも御位牌安置に罷成月々之御茶湯怠慢無御座様子御追善被
   成候真光寺御位牌御石塔御座候を承應之比肥後へ御引取被成安國寺江被成安置候事

       以上
     寛文十ニ年九月日
                              「雑撰録・巻弐拾七所載」
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