2007/09/04「旧主を考える-4」で「中村一氏・一忠」を取り上げた。
中村一氏の嫡男・一忠は十八万石米子城主、慶長十四年22歳で歿し無嗣断絶した。弟・正吉、正重の流れが熊本にある。正吉流は三家、肥後金春流中村家もその一家である。正重は甚左衛門と称したが、幽齋公田邊籠城のおり城中を抜け出て禁裏へのお使いを果たした勇者として知られる。のち沢村を名乗るように仰出があり息弥一の代に改姓、二男家、三男家、同分家、四男家の四家がある。
家臣としては藪氏、金子氏を取り上げご紹介したが、松村氏、服部氏も旧中村家家臣であったことを知った。共に藪氏(内匠)を頼り豊前へ来、内匠の歿後松村氏は三齋に、服部氏は忠利に召出されている。
■松村氏に於いては、八代・英記が能吏として有名である。
松村大観 名は昌直、名は仲簾、英記と称し、大観と号す。食禄二百五十石、郡代、勘
定所目付、作事頭、川尻町奉行及び奉行職を勤む。又学を勉め武を修む。
尚刀鍛を好み、武相薩南に遊びて其精徴を定む。刀剣或問の著あり。
天保五年十一月十三日没す、享年七十。墓は島崎霊樹庵。
■服部氏に於いては、七代・多門が挙げられよう。
服部水哉 名は幸徳、初め武右衛門のち太門と称し、致仕して水哉と称す。
藩に仕へ食禄六百石、高瀬及び川尻町奉行、鉄炮頭、奉行職
等を勤む。程朱の学を尊信し其節度厳然たり。
天保六年四月廿一日没す。享年六十九。墓は高田原西岸寺。
宝暦の改革後のほとんど同時期、寛政から天保年間に活躍した人である。
中村一氏の嫡男・一忠は十八万石米子城主、慶長十四年22歳で歿し無嗣断絶した。弟・正吉、正重の流れが熊本にある。正吉流は三家、肥後金春流中村家もその一家である。正重は甚左衛門と称したが、幽齋公田邊籠城のおり城中を抜け出て禁裏へのお使いを果たした勇者として知られる。のち沢村を名乗るように仰出があり息弥一の代に改姓、二男家、三男家、同分家、四男家の四家がある。
家臣としては藪氏、金子氏を取り上げご紹介したが、松村氏、服部氏も旧中村家家臣であったことを知った。共に藪氏(内匠)を頼り豊前へ来、内匠の歿後松村氏は三齋に、服部氏は忠利に召出されている。
■松村氏に於いては、八代・英記が能吏として有名である。
松村大観 名は昌直、名は仲簾、英記と称し、大観と号す。食禄二百五十石、郡代、勘
定所目付、作事頭、川尻町奉行及び奉行職を勤む。又学を勉め武を修む。
尚刀鍛を好み、武相薩南に遊びて其精徴を定む。刀剣或問の著あり。
天保五年十一月十三日没す、享年七十。墓は島崎霊樹庵。
■服部氏に於いては、七代・多門が挙げられよう。
服部水哉 名は幸徳、初め武右衛門のち太門と称し、致仕して水哉と称す。
藩に仕へ食禄六百石、高瀬及び川尻町奉行、鉄炮頭、奉行職
等を勤む。程朱の学を尊信し其節度厳然たり。
天保六年四月廿一日没す。享年六十九。墓は高田原西岸寺。
宝暦の改革後のほとんど同時期、寛政から天保年間に活躍した人である。