津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

延元様玄也公御一代之御儀覚書 - 4

2010-01-15 13:15:25 | 歴史
一、門司在城之間 忠興様忠利様江戸御往来被遊候時分ハ毎度門司隼人にて御門出御國入之御
   振舞御嘉儀に被成り御道具■と被成御拝領刻も御座候叓
一、同十一年江戸御城を御築被成候に付右御仕置のため御奉行延元様も御上り伊豆細代に久しく
   被成御詰候叓
一、同十六年八月御子息三五郎様御早世被成候号真光院殿門司ニ真光寺と申候御寺被成御建立
   候事
一、同十七年九月御内室様御病死被成候号大湯院殿 冨小路左衛門佐殿と申候公家之御娘延元様御母公二
    而御座候事

一、同十七八年之比嶋津兵庫頭殿 義弘小倉江御越被成候刻延元様江も儀と御使者にて時■等被     
   遊候事
一、元和元年五月大阪御陣之節 忠興様 権現様之御味方を被成御手廻り迄にて被成御立御上り
   忠興様は惣御人数を被召連陸路を御越被成候刻延元様江小倉之御留守居被仰付候間門司に
   は延元様を被召置小倉へ被成御出候得との御意に付延元様被仰上候ハ小倉江罷出候得との
   儀ハ随御意可申候御留守居之儀者迷惑仕候此段ハ幾重にも御断被仰上候其外之儀者何事に
   ても可畏入候御留守居被成御免候様にと強手被仰上候に付如御重成申候所之御断 忠興様
   御意に不参故に御座候や延元様江豊前一國之山奉行被仰付御さはきニ成候其後御國中取遣
   之舛之料をも被遊候様にと被仰出候舛之料は何と■異風なる御料被成度と御這之由に御座候
   いまに豊前より能小舛御座候に菱之下に一文字の焼印御座候ハ延元様御判にて御座候叓
一、此時節天下一國一城之御仕置に付門司之御城も割申候に付延元様も小倉へ御引越被成候叓
【武蔵・小次郎決闘の顛末】
一、延元様門司に被成御座候時或年宮本武蔵玄信豊前へ罷越二刀兵法之師を仕候其比小次郎と
   申者岩流之兵法を仕り是も師を仕候双方の弟子共兵流之勝■(芍カ) を申立武蔵小次郎兵法の
   仕置を仕候に相究豊前と長門之間■ク島に出合 後岩流嶋と云ふ 双方共に弟子壱人も不参筈に
   相定仕合を仕候処小次郎被打殺申候小次郎方ハ如兼弟子壱人も不参候武蔵方ハ弟子共数人
   参隠居申候其後に小次郎蘇生いたし候共彼弟子とも参合後にも打殺申候此段小倉へ相聞小次
   郎弟子共致一味是■とも武蔵を打果申と大勢彼島へ参申候依之武蔵難遁門司に遁参延元様
   を偏に奉頼候ニ付き御請合被成刻城中に被召置候に付武蔵無恙運を開申候其後武蔵を豊後へ
   被送遣候石井三之丞と申馬乗に鉄炮之者共御附被成道を致警固無別条豊後へ送厘武蔵親無
   一と申者に相渡申由御座候事     これがあるから何とも武蔵が好きに成れません。
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ミステリアスな人・佐分利越人(越知越人)

2010-01-15 09:48:59 | 歴史
 佐分利越人について、1/7「猫の恋」、1/8「うらやまし猫の恋 越人と芭蕉」を書いた。1/8にネットで注文した本が今朝手元に届いたが、大変面白い本で多いに満足している。満足しているのだが、著者吉田美和子氏の手により登場する越人さんは、熊本で見受けられる資料の佐分利越人さんと同一人物なのかと首を傾げている。俳人・越人は越知十蔵と名乗っていたらしい。師の芭蕉は尾張十蔵とよんでいたようだ。著者はのっけから越人を次のように紹介する。

   越人の遠祖はいずかたの人であったのか不明である。戦乱に吹き飛ばされた失業
   武士の末裔であったか、名古屋には古くから越人の父は肥後熊本で千石の禄を食
   んでいた佐分利勘左衛門という武家が浪人して町人になったもの、という誤伝が
   流布していたという。

 熊本における資料によると、佐分利越人は細川藩士・嶋又左衛門の三男で佐分利彦右衛門(兵太夫)の養子となった。養父兵太夫が何の故あってか禄を召し放され、越人(佐分利七兵衛)は伯父である旗本嶋角左衛門の領地(名古屋)に身をよせている。染物屋を営み芭蕉の弟子と成ったとされるが、このことについては一致している。熊本では有名な「佐分利流槍術」の師範などということはまったく陰も無い。一貫して芭蕉の弟子・越人である。

 師松尾芭蕉は「庭竈集」で「尾張十蔵、越人と号す。越路の人なればなり。」と紹介している。
越人自身の一文「問ず語」で「私は越路の者に候間、名も越人と申候。壮年に及ぶ比より故郷を出流浪仕り・・・」と記している。佐分利氏や実方の嶋氏と越路に何かのつながりがないかと調べたが、何も見当たらない。熊本の資料では越人は元禄十五年に亡くなり、坪井の流長院にお墓がある。
 吉田氏の著によると、越人は享保ニ十一年頃亡くなったとされ、名古屋にお墓がある。24年の差が生じている。ここでご紹介したものはごく一部分であるが、こうなると同一人物ではないのではないかという想いが強くなってくる。「肥後先哲偉蹟--佐分利越人」を座右に置き、この本の頁を追うと、まさしくミステリアスな世界に引き込まれて興味は一段と深まっていく。
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