津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■士席浪人格を買う

2018-05-02 11:26:37 | 歴史

 昨日は本棚から「江戸時代の身分願望・身上りと上下無し」を取り出し、士農工商いろんな身分の人たちの、些かなりとも高い身分にありつこうとする、あくなき「身上り(ミアガリ)」願望を興味深く読んだ。

一方岡崎鴻吉の「熊本城下の町人・古町むかし話」によると、町人の「見上り願望」に対する藩庁のなんとも下心が見える「栄誉の定価俵」が紹介されている。
限度を「士席浪人格」としているが、これだけのお金を積めばなれますよというのである。

            ・士席浪人格    十貫四百目以上   町独礼名字帯刀の者より
            ・         十一貫七百目以上  右同苗字御免の者より
            ・         十三貫目以上    無苗独礼より
            ・         十六貫九百目以上  苗字刀御免の別当並同列より
            ・         二十二貫四百目以上 丁頭並同列より
            ・         二十三貫四百目   平町人より
            ・町独礼      六貫目       別当並に同列より
            ・         九貫四百目以上   丁頭並同列より
            ・         十貫四百目以上   平町人より
            ・苗字       三貫九百目以上
            ・刀           同上
            ・門松       五貫二百目以上
            ・桜御紋付     三貫目以上  御上下
            ・御時服      三貫五百目
            ・御羽織代紋の御品 四貫目以上
            ・上下       一貫目以上
            ・時服       一貫五百目以上
            ・羽織       貮貫目

 さてこの一貫とは当然ながら「銀」である。以前NHKの金曜ドラマで銀二貫が放映されたが、その時の金と銀との交換レートについては次の様に説明していた。

「江戸時代の大坂では主に貨幣として「銀」が流通していた。「貫」は重さの単位で、銀二貫は2000匁で約7.5キログラムの重さとなる。貨幣価値を単純計算すると、小判(金)で約33両、現在の紙幣で300万円程度といわれるが、当時は貨幣の質が大きく変動していた頃で、実際の価値はその何倍にもなることがあったらしい。」

つまり「一貫=150万円」とすると、平町人が士席浪人格になろうとすれば二十三貫四百目(3,150万円)を納めなければなならないという事になる。著者の岡崎はその「序」に、小学校の同級生に只一人「金あげさむらい」と揶揄された学友がいたと書いている。
どうやら著者自身の事ではないかと思われるが、藩庁の思惑通りに多くの町人がこのような大金をはたいて「身上げ」をしたのかどうかは少々疑問ではある。

ちなみに次の様なデータがあるのでご紹介する。
文政11年の人口は,士席以上4,052,独礼以下帯刀以上1万5,393,士席浪人格及支配浪人等863,社人722,譜代の家来4,085,独礼以上育支配401,寺社支配家来1,170,百姓55万8,257,五ケ町3万2,491,坊主山伏3万843,総計64万8,277であった(肥後読史総覧から)       


 

 

 

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■井田衍義・歛法式令ー八・九 (8-1)

2018-05-02 06:53:40 | 史料

 以下の項(二四)については約10頁に及びますので、今日から5・6回に分けてご紹介します。

 ニ四
 ○御免方御仕法組見込之事
一今有る免極の法を見るに、憐愍厚けれとも行に實少し、
 又下の奸を防ぐ構のミありて憐愍も撫育の道に遠からん
 か、此故に惠ミほと下の氣受を不養と見えたり、衰民補
 助の道も兼備へたる事なれとも、等からすして洩悼者又
 多し、其積所深き病ひとなり、やむ事を得されハ、是を
 救ふに貨財の費多くして行ひ果へき事とも不見、今比免
 を極る法荒増を潤色して衰民補助の振を加ヘハ、年を積
 りて損米薄く下又潤ふへきか、近來の法發して後不意に
 出る所の米銀ありて損引の下りも多刈らんか、夫とも其
 甘あらハ米穀ハ年々生し、銀ハ上下の間に亘りて苦しか
 らさる事なれとも、免極の筋正しからさる故、下ハ法に
 泥ミて教を實に不守奸もまた生すへきか、仰き願ハくハ
 等しき實法を糺して、下は正道を擧る事のミ教へて、随ひ
 教を守るにハ免に褒美の甘きをあたへ、不正を誡、中道
 を以最善を善にいたらしめて本意を顕し度物か、今之法
 の惠ミ厚く綿密なるといふハ唱計にして、廣く惣國の病
 ひに不度法に閑奸を防くの心有ハ、下ハ益疑惑して猶奸邪
 も發すへきか、今ある所の法等しく貫通すへき手草の一
 ツ二ツ目前なるを戯に畫くものなり
一早熟の物の徳掛、以前も強く究めしは、容易に損高の出 
 るを防へき計略と見えたり、然とも種子程を見残して其
 餘を可取積りと聞へしに、年歴て此法益強く種子の餘分
 ハ差置かひ拂ても徳掛ほとの米はなき所多かるへし、是
 に辨なき百姓何故に早田に限り作徳のなき物やと、老
 父に問けれハ、不取敢(アエテ)秋の田の早稲藁取と聞時は、實は
 皆貢に成るもことわりと難句せしもおかしき也、此辛さ
 法のさかんなるに随ひ、下ニも是を計り早熟の稲次第に
 減す、されとも有來申事の一向なきも前の見合濟かた
 く、ほと/\之畝を出し徳掛を受るといへとも、早稲彌
 六を作りてハ同熟の毛上を残す事叶ハさる故、中田稲之
 内多くハ土免に可受通者より少々の畝を見上、徳懸ハい
 かに上るとも左程苦にせさるはせん方なき故か、又は構
 へ有故か、上下不正不實にて末可恐仕癖なり、彌六稲の
 類は左待て取實の能にハあらされとも、米性優れて吉可
 成者ハ竊(ヒソカ)に是を圍置も有へきか、此稲を増たくハ収納
 早くして、藁の見付日和も能内に取揚て、縄俵を拵、其
 外農家第一の手廻しなれとも、只徳掛の重きに恐れて所
 に寄早稲彌六作り止メたる所も有へし、損高を糺すにハ
 此謀を不用とも、末に顕す延かね舛詰之法にて究るへき
 也、早田之増て其利をかそへハ、稲早く募て蟲付を凌事
 あり、収納混難せすして耕作の手廻しよく、地起根付速
 なる故麥も又各別なり、時候に寄風災を迯るゝ年もある
 へきか、田畑共に早中晩其配敷あるは取箇迄を見るに非
 す、農業の手配第一にして農具の修補もかれたるなり、
 右に勸農を教へ左に是を防くハ、目と心と連續せすして
 左右の行ひ異也、爰を以て見る時は、早熟の可應地は専
 ら作らせ候事、其國の重寶なるへし、是を教るにハ今迄
 の徳懸を止メ畝掛の法可然
 一田物成反壹石以下ハ撫土反壹割五分増
 一同壹石より壹石貮三斗迄ハ壹割増
 一同壹石三斗を越候ては五歩荷て可然、至て高反ハ撫土
  反懸歟
  此規矩猶可有考、早田は地味の宜敷に作るなれハ、其
  村の高反なり、此増を用る事土免より上んとにハあら
  す、小積にいたつて其坪の地免より多く不引入様に心
  得可有也、下反所少々上り高反所少々下るハ苦しから
  す、過不及無きハ免掛なれとも行ひ苦し、同くハ其免
  限りに上と中の土反をかねて撫置、是を早田の畝懸に
  用ひ候、此かねよりも可當歟
 右之かねを能教へて徳掛下見の手入れを省き、漸々と作り
 増さハ、品により二タ切にも未熟の内畝掛を究、待受て
 収納いたし、農業前後の繰合手を取りて引ことくなら
 ハ、今の苦しみ忽解け勸農の道開けて實法に馴付ハ、其
 年の作の初穂にて米の内の随一なれハ、作徳の積り共に
 悉賣に納、聊も國恩に奉報の正道を教るに難き事有間敷
 候、納米早きに随ひ囘船の積りあらハ價又貴かるへし、
 年を積上下の徳益今法の陰に隠れて産物の不生事を
  若廣キ損毛ありて畝掛にて難濟歟、又所により水旱の
  患あつて一概に難成ハ、正道の徳見帳に徳掛之究ある
  へし、畝掛を受、未苅揚に不意之天災有之ハ、是又可
  准之歟、末ニ顕ス法に可准歟

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