江戸藩邸龍(辰)口邸は何度も火事にあっているが、全部「もらい火」だと思っていたが、火事を出していることがあった。
熊本藩年表稿では天保三年三月廿三日の事とある。詳しい内容を知らずに来たが、思いがけなく「熊本藩町政史料・三」に資料が在った。
幸いに無風状態の中で、他家に被害をもたらすこともなく長屋「十五間」程を焼いて鎮火しているが、江戸城に近い細川藩上屋敷から出火したという事で「御領内一統諸事相慎」の措置がとられ、「音曲鳴物繕作業」が相止められ、「御家中長髪」「屋敷門を閉」ということになった。
これが「熊本藩町政史料」に記録されているのは、町々にも大いに影響しているからである。熊本に伝えられたのは四月六日であるらしい。
町人も長髪で居る様沙汰があり、火の用心の「夜廻り」が強められた。市立てや、町人の旅行も差し止められた。
四月朔日には「遠慮」されていた太守に対し「御免」の沙汰があった。これは十三日にいたり、熊本へ伝えられた。
約一週間、熊本に於いては月代を剃ることが出来ない、武士・町人のむさい姿があふれていたことになる。
江戸藩邸内の今井勘吾の小屋から出火したらしい。定かではないが今井家は江戸定府の家かと思われる。
先祖附を見ていないが禄を減じられたということもなかったようで、先祖以来の百石の家禄が明治期まで続いている。
十八日には「出火之節馬上ニて火事場壱丁内乗込申間敷、且見物躰ニて立滞居不申様」という御達が為されている。
馬乗りの人たちが馳付て、それが却って「火消之妨」になって不都合であるとしている。
江戸の火事を受けての再確認といったところか・・・