津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■火を出して、諸事慎み

2018-05-13 12:10:59 | 史料

 江戸藩邸龍(辰)口邸は何度も火事にあっているが、全部「もらい火」だと思っていたが、火事を出していることがあった。

熊本藩年表稿では天保三年三月廿三日の事とある。詳しい内容を知らずに来たが、思いがけなく「熊本藩町政史料・三」に資料が在った。
幸いに無風状態の中で、他家に被害をもたらすこともなく長屋「十五間」程を焼いて鎮火しているが、江戸城に近い細川藩上屋敷から出火したという事で「御領内一統諸事相慎」の措置がとられ、「音曲鳴物繕作業」が相止められ、「御家中長髪」「屋敷門を閉」ということになった。
これが「熊本藩町政史料」に記録されているのは、町々にも大いに影響しているからである。熊本に伝えられたのは四月六日であるらしい。
町人も長髪で居る様沙汰があり、火の用心の「夜廻り」が強められた。市立てや、町人の旅行も差し止められた。
四月朔日には「遠慮」されていた太守に対し「御免」の沙汰があった。これは十三日にいたり、熊本へ伝えられた。
約一週間、熊本に於いては月代を剃ることが出来ない、武士・町人のむさい姿があふれていたことになる。

江戸藩邸内の今井勘吾の小屋から出火したらしい。定かではないが今井家は江戸定府の家かと思われる。
先祖附を見ていないが禄を減じられたということもなかったようで、先祖以来の百石の家禄が明治期まで続いている。

十八日には「出火之節馬上ニて火事場壱丁内乗込申間敷、且見物躰ニて立滞居不申様」という御達が為されている。
馬乗りの人たちが馳付て、それが却って「火消之妨」になって不都合であるとしている。
江戸の火事を受けての再確認といったところか・・・

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■井田衍義・歛法式令ー八・九 (11‐4)

2018-05-13 07:07:25 | 史料

一出高ニ太出高と申候て前々本方より畑成田被仰付候、御
 郡方出高と申候て、御郡方支配銀を以出高被仰付候分、
 ハ、御郡方出高と申候、新出高と申候て本方より之銀子
 を以被仰付候、是を新出高と申候事
一田成畑と申て、水かかり無之所奉願田を畑ニ作り申候事
一新地と申候て村々所々に有之候、尤所ニより村立新地御
 座候、新知と申ハ御國中の惣高之外ニ新規開明申候を新
 知と申候、尤御郡方新地と申ハ、御郡方銀を以被仰付候
 ニ付申候、古新地ハ本方前より被仰付置候、いつれも五
 拾四萬石之外開明を申候事
一村方御損引ニ出候節、内證は撫シ仕、公義向は檢見先ニ
 仕候事、右之節内證ハ分不申村中一統ニ損引仕候、公義
 向分損引出申候事
 [付箋]「此撫損引、於損引法至て之姦曲ニ付堅ク被停止、
    萬一表裏仕於相顕ハ過被處厳科候事」
一檢見先と申候て何レも損引ニ出、御徳懸受申候者檢見先
 と申候
一六月色附之儀、早々差出申筈、一紙小前共ニ一冊ニ仕差
 出歟申候事、此儀才足いたし不申候てハ及延引申候ニ
 付、庄屋へハ随分申付、早々差出候様可申付候
  但、六月廿護日限ニ御役所へ相達申筈
一右色附ヲ以御損引方其外御徳懸之節ニ見合仕申筈候事
一御土免通之節、畝懸前廉は土免懸ニ五割懸申候處、寶暦
 六年より土反迄懸候様、御代官衆手前も五割懸被申候、
 追て立用ニ相成申候、然處ニ五割懸申候てハ百姓迷惑仕
 候由ニて、土反迄を懸相渡申候事
一五割作徳と申事、譬ハ籾三石計立有之時ハ三ツ割米壹石
 ニ成り、然處に籾三石五合すりに仕候ヘハ、米壹石五斗有
 之候、依之五わり作徳と申候
一永荒開と申候て村々へ有之候、是は村高之内ニて有之候
 處、荒地ニ成申候を開明申候、畢竟高の内ニては有之候
 へとも前々よりの荒地ニ付、永荒開高を何程ニても村惣
 高之内より引申候、則反別帳之萬引高ニ合申候事、村高
 内より永荒高、御蔵納之内ニて萬引高永荒高ニ候由、寛
 永年中之名寄帳永有高、反別帳之萬引高ニ合申候、右之
 通高之内ニては有之候得共、只今ニてハ別畝ニ成居申候、
 尤五拾四萬石之高之内ニてハ候、其上荒居申候分後ニ開
 明申候、譬ハ一國之内ニ野山御座候處ニ、國中之高三拾
 萬石有之、田畝千町も二千町も有之候内より荒地百町有 
 之、此在捨り、殘て九百町有之を高三拾萬石持居申候、
 右之百町後ニ開明永荒と名付申候ニ付、只今ニては永荒
 高ハ惣高ニむすほり居申候得共、畝町ハ外ニ成り申候由
 承申候事
 [付箋]「永荒高ハ惣高ニむすほり居不申候、其子細ハ五
    拾四萬石之内、永川成等之荒地ニ成候を萬引高と
    唱、其萬引高物成ハ殘生地ニ冠り、其後永荒を開
    明申候節、元之本方ニ加り候ヘハ可然處、外ニ畝
    高を持せ新地ニ被仰付候間、永荒分ハ全ク彌高ニ
    相成居候事」
反別帳
一高五千三百貮拾石         御蔵納
   内貮拾石           萬引高
   物成貮千百貮拾八石      高四ツ成
  田畝數貮百拾五町三反七畝 高反貮石四斗七升壹勺六
               才
              土反九斗八升八合三勺五才
  高貮拾石萬引高
   田畝八町九畝貮拾壹歩     高四ツ成
    物成八石      高反貮石四斗七升壹勺六才
              土反八斗八升八合貮才
 右永荒開之儀村々有之候、右之通極居申候由承傳候ニ付
 記置候也
一寄下と申候て銭友(塘)手永其外ニも有之候、則新地同前ニて
 有之候、前々本高之内寄せ場之土手を築、御鷹野御座
 候、其後崩申候、寄下と名附新地同前ニ被仰付候事
 右之通ニて本方畝之内ニ加り申候、譬ハ本方一反之内四
 卯ねハ寄下ニて御座候、殘る六畝本方ニて御座候由
 [付箋]「寄せ場といふハ已然君公田獵之節、所々ニ土手
    築せ置、諸鳥ニ仕寄をつけ給ふなりけるよし、其
    後右之土手開除被仰付、其床を新地ニ加へ給ふ、
    依之、右床之有丈ヶを畝ニしたるよしニて、寄下
    ハ歩半ニて有之候所々多し」
一沼山津手永之内河原村ニ寄下御座候、古へ高免ニて迷惑
 仕候ニ付、奉願分下被仰付候由、反別ニて分下り有之候
 事
一荒地は只今村免を用申候、畢竟御物成捨りニ成候ニ
 付、其上本免ゆへ用申候へ共、寶暦七年丑秋よりハ田免
 用申候、尤田免無キ村免迄之村方ハ村免用申候、當年よ
 り別て下方氣受悪ク有之候てハ、廻り付無之趣ニ付、御
 例之節も舛付只今迄摺斗捧用來候へ共、向後ハ割斗棒(ママ)用         摺斗  割斗・・・?
 申候様被仰付候、此儀別紙ニ御書附有之候事

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