21:13頃久々の地震、TV速報では震度4・震源地熊本としているが、東区での体感では3位かなという感じ・・・
3位ではあまり驚かなくなったが、用心する気持ちは持ち続けて置かなければならない。
孫娘が在籍する、済々黌高校の吹奏楽部定期演奏会が行われています。
トランペットを吹いているようですが、来年の大学受験を控え彼女の音楽活動も終わりとなりそうです。
理科系なのですがまだ具体的な進路が定まらないようで、この演奏会が終わると、のんびり屋の彼女もそろそろ気合を入れなければなりません。
惣領孫ですが、どんな道に進むのか見守っています。親ばかならぬ爺ばかを楽しんでいます。
豊前に於ける忠利の「葡萄酒」作りについては、御下命を受けて製造に関わった上田某が、当方にもいささかの縁があることもあって色々調べてきた。
しかし市井の者が片手間に調べるには限度があり、ブログでたらたらとご報告をしてきたが、今般熊本大学永青文庫センターの「永青文庫研究」の創刊号に、後藤典子氏の論考「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」が掲載された。
豊前においては自ら約四年間に渡り葡萄酒の製造に関わり、熊本入国後は長崎に入港するオランダ船から買い付けをしている。
天草島原の乱の陣中に於いても、薬酒として運び込ませるほどであった。
しかし乱後オランダ船の入港が制限される事を知ると、忠利は葡萄酒の入手が困難になることを見通し、買い付けを命じている。
「音信物として方々に贈るので、百貫目以上になっても、銀子を遣って多く買い付け」(後藤氏論考)るように指示している。
銀百貫とは凡そ15,000万円ほどであろうか。
葡萄酒が「キリシタンの飲み物」という認識があったのも関わらず、音信物として大いに使われ、時にはほかの大名からお裾分けを願う文書が残されている。
後藤氏がこの論考で触れられていない史料が、最新の「大日本近世史料 細川家史料・二十六」(p218)に存在する。
5723(寛永17年)八月七日有馬直純宛書状 (該当項抜粋)
一、御気色しかと無之由ニ付而、ぶどう酒参度由、我等給あましハ江戸ニ置候而、此方へ持而
参給かけ候入物共、此印判を口ニおし進之候、事之外薬とハ覺申候
有馬直純は当時日向延岡藩の藩主である。天草島原の乱では旧領地の前藩主として活躍している。切支丹弾圧の人として知られる。
この時期病がちであったのだろうか、ぶどう酒を「参度(まいりたく)」(のみたい)という希望にこたえて贈ることを了承している。
この文章の次には
一、酒をとまり候て能者も御座候、悪者も御座候、如何と笑止ニ存候事 ともある。
忠利自身もこの時期腫物などで体調は万全ではない。薬酒をやめることが体に良いのか悪いのか如何でしょうかと言っている。
友の病状を気にしながら、忠利は翌年三月十八日に死去することになる。直純もまた同じ年、参勤の途中(船中でとも)死去している。
自らの手で葡萄酒を作ろうとした忠利の真の想いは、幼くして死別した母ガラシャの霊前に追慕の誠として捧げることであったのではなかろうか。
歴史はロマンだとつくづく感じるし、いささかの縁ある遠い先祖がこれに関わっていたという事も晴れやかな気分にさせてくれる。
一皆無畝又右に同し、下反別所も皆無に被引損高多かるへ
し、皆無引之極あらハ持合の毛付通り方に成るもの多かる
へし、此皆無といふも眞更の皆無計もあるましきによ
り、穂無キも一升貮升ハ印しに徳を付類もくるしかるま
し、又五升壹斗位迄も本損引の下見に不加、夫程の徳を
付て皆無畝之改に加へ引除る時ハ、損引の下見惣籾反各
別不落して、徳掛の見込を糺に益あるへし、五升壹斗之
談に被引籾反多ク落てハ、見分之仕所に寄迷ひもあるへ
きや、此皆無も其向キ合をいふ時は毛付に被引通り方
ニなるといふ理もあれとも、是ハ仁不仁ニも不至吝嗇の
拙き説也、田成畑も損高に結へハ下り片に加れハ、土免
にて皆無と同意成、此二ツの物ハ坪損引の類にハ双ツま
し有りてくるしかるまし、皆無も高に懸る役出米銀ハ悉
辨へて、作徳も藁もなく骨折と籾・種子ハ元より蒔捨な
り、此皆無本損引に加れハ、無免の上了簡米土より下り
越になる譯も有て惠ミ深き事なから、夫よりも皆無引上
下ニ付正道にて、毛付の苅揚も便利なる所より百姓ハ目
に見へて此方を喜フへし、又皆無にも譯品あるへし、地
高き所ハ旱損皆無、低き所ハ水害皆無、其外にもあるへ
けれとも、先旱損の皆無跡ハ麥作のとちなるへし、然る
時ハ五升壹斗籾ありとも納米にハ不成事故、青稲之内に
埒を明苅揚させ、せめてハ跡作急かせ候事第一の心得な
るへし、夫とも又年ニより品ニ寄、大惣之損毛あらハ、
本損引の下見以前に皆無畝の見分ありてハ、重き方に手
抜もあらハ、皆無畝之改ハ惣徳懸の跡にするとも立損の
患はなき事也、時宜にハよるへきなれとも、成たけ前に
濟せたし、次に蟲痛の皆無あるへし、是も同し事なから、
蟲痛の皆無ハ一概の論に及かたし、其故ハ旱水の二割ハ
片付てある事故、其畝を引ハ残る畝ハ返り方に成るも有
へし、蟲痛は必廣き物なれハ皆無迄引候ても、一人の面
之内残る畝方も通りにかたかるへし、其上蟲痛ハ見懸に
違ふ事もあるて、皆無と見へても見極め苦き毛上もある
や、夫とも一村擧て皆無引にて濟、其外は惣通りと片付
たる村ハ、蟲いたみも皆無引可然歟、皆無引損引と蟲い
たみにて一村の内二ツニに(ママ)分れ候事ハ不叶極メニ有た
し、水旱の損ハ一人の面にて皆無引損引と分りさへせす
ハ、一村にて二ツニ分るゝ事ハ苦カル間敷
一粟豊凶に寄、畝に懸引有、勿論空の積りなる歟、纔之儀
にて、得失におひてさのミくるしからされとも、下りて
差て喜ふまし、上りて氣受を侵ス事あり、上り下り共上
下ニ付盆とするほとの事なし、只扱ひの煩敷計にて、是
も少ハ損高を押て抔之譯有へきか、然る時ハ無用なるへ
し、各別の損毛にて損引ニなる外は、内輪にて粟畝に空
の扱ひ止ミて可然也、然レ共、常に粟損引する所も有よ
し、左なく共非情之事計りかたけれハ、色付前の畝數地
面猥りに無之様、兼て能々教示いたし、見圖帳・名寄帳
ニ夫々の色を付置事、今の通り有たくなり
一土免の田の畝懸の法に、毛上有前を以受置候様ニとの
事、いかなる有前か其究計にて今に有前之事不被行、是
ハ畝懸之事、不意之損毛ある時、苅揚分ハ通り方、殘毛分
ハ損引と用捨ある故之由、然共有前之畝懸不被行、土反
に大抵四割増位之畝懸と見へたり、毛上ニ應すへき様な
し、若損毛之時此畝懸米積りに加るにあらば、苅残る分
半毛ニ成とも、其畝數の多少次第損引ハなりかたきも
有へき也、又災之時次第ニは損方の徳懸濟たるにも、未
苅揚分ハ彌増之損毛有へし、其時に至り下り方損方分も
又下見仕直し、重て徳を懸る事立損の費猶増へし、乃至
十年ニも希に有へき事なから、聢と法ハ極り有たし、時
に臨んて行當る事有へきなり、事の急成場なれハ綿密の
法にハ當ましけれとも、かゝる時ハ速ニ畝數を改、痛の
厚薄ニ三段ニもして、一段ニ壹升宛、中道之所に法の通
り方の舛を入置、惣庄屋村方も三歩にても壹歩にても速
に舛を入、此舛さへ濟ハ早速苅揚を免るし、右夫々の試
帳出し合、此三ツの撫かねを郡司に達し、免方之役に参
談して、中道を以損毛之考を加へ、心付米の極面にして
可ならんか、然る時ハ前徳懸の積方ハ勿論崩るへき也、
扨此心付米ハ不意の損毛により上より可下給事なれと
も、全き損引の法にもあらす、高下反別の境、舛詰等の
綿密なるしらへ此急場にハ不成事故、心附米の極に成る
事なれハ此米高之内、以前損引にて下り居候積前ハ抜下
見を以しらへ立、水夫・三の口抔之積迄上より被下、其
跡を二ツに割、此壹ツも上より被下、残る壹ツを郡司に
被任置たる備へより出て、道理可有歟
此法定りて近きに廣き此患あらハ、郡司の貯未乏敷右
割合の一ツを償事成間敷か、時に臨んて参談有へし、
年歴て後に如此の事あらハ、全く本行之通なるへき也、
爰を以常に貯の心得厚かるへし、又大唐抔の風損強き
ハ此大概の法にて難成も有ハ、本堂に下見を直せ、例
之徳懸可然歟、畝數と痛之模様次第、時宜に随ひ其場
之参談くるしかるましき歟
一反別小き所を損引に加へてハ、下見之風俗悪敷成る故、
舛詰之法にて損引ハ押除るとも、其儘にて難成譯有所ハ
別之法にて補助する事成て共、是も又やまひの骨に不附
内療治する事なれハ、考に日を暮しても難濟事故、差寄
ハ先其年之作を目當にして、其行をなす事理あるへし、
然れハ法詰にて損引ハ除る共、作毛の善悪ハ夫々下見い
たさせ置事心得有るへき也、又煩ひに品數ありて、取救
ふニも様々有へし、中二も其村の地方を力さへあらハ可
也に可作廻程の所ハ、役人も百姓も人々の高を的に立、
夫に難澁の厚薄を懸引して救ふ事を望むへし、是も其理
なきにハあらされとも、人と高とを的にするハ其場其年
の煩を解計にて、末を計るの利に違ふかるへし、差かゝ
りたるいたみ、指懸りたる取計ハ、其窮迫を目當にする
事當前の道理なれとも、永く病をいやすにハ此心得にて
ハ成間敷也、尤難儀の厚薄も取らさるハあらねとも、第
一ハ地方に目を附て、其年の作の姿を匕加減にして事を
はかるにあらすハ、益薄かるへきか、所詮作も人も其地
味かそたつと見て近道なるへし、精を出しても禍福と盛
衰は自然なれハ、一端の安否を以必定の的にハ仕かた
し、かくある所ハ土地よりしての痛多けれハ、一應の取
救ひにて届ましといふハ此模様なり、只何事ハ入らす百
姓ハ地方を命蔓とおもひ付様に心得ありて可然、扨此外
之事共に、役/\の人私を放れて公の事を計るにあらす
ハなりかたかるへし
(8‐5)了
檢見坪刈之図