津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■長岡五郎左衛門興就という人

2018-05-19 08:17:47 | ご挨拶

 長岡姓であり、幼名は與七郎、実名興就という人物がある。・・・こうくると細川家の一族を思わせる条件がそろっている。
亡くなった石牟礼道子の小説「西南役伝説」にこの人物が登場するが、出自などにはふれていない。
天草の大庄屋長岡五郎左衛門としてである。天草に於いてはこの家系は、細川忠興公の二男・興秋が切腹の命を受けたが逃れて天草に住み着いたと伝えられる。
(私は根拠は全くないが、興秋公のお子達が落ち伸びてこられたのではないかと考えているが如何だろうか)


 さて、享和二年壬戌六月五日、細川藩士斎藤權之助が書残した次の様な文書がある。
     天草郡御領の大庄屋長岡五郎左衛門興道が求めに應じて、其家傳等を聞きしまゝに、書寫しおくものなり。

             肥後高橋司市   齋藤權之助 書判印
             細川興秋朝臣七世孫長岡五郎左衛門
                             源興道謹撰之

 詳細は「細川興秋の子孫について (一)」の「細川同族天草長岡家系譜」をご覧いただきたい。
又、代々の系図は細川興秋の子孫について (二)」「同 (三)」「同(了)でご紹介しているのでご覧いただきたい。

その十一代九世が長岡五郎左衛門興就であり次の様に紹介されている。

     幼名與七郎、興生の嫡子なり。文政初年の生まれ家督を継いで大庄屋たり。性剛
     毅にして任侠あり。弘化二年小前百姓の意を躰して質地請返しの為め敢然江戸へ
     出訴の擧に出でしも、越訴の廉にて長崎奉行へ護送せらる。然も之が口火となり
     かの弘化打毀しの異変勃發するや、吟味の為長崎より富岡の獄へ投じられしが、
     嘉永二年江戸勘定奉行よりの判決にて、乱心の故を以て欫所仰付けられ、親類預
     けとなりて佐伊津村へ蟄居す。明治二年巳巳九月十五日卒。法名、興就院直宗英
     氣居士。
     妻は中村庄屋の別家波多野氏の出、俗彌ヨシ。明治廿二年己丑一月十八日卒。
     法名、戒光院賢室貞良大姉。

さて石牟礼道子著「西南役伝説」では、上記紹介文にもある弘化二年の事件「弘化年度打毀乱妨件」を取り上げ説明している。
上の文章では「乱心」とあるが、石牟礼氏が引用している史料では「発狂の躰」と書かれていて、勘定奉行への越訴後の取り調べが過酷を極めたものと思われる。
天保~弘化~嘉永にいたる天草地方の一揆の結果として、五郎左衛門の行動が讃えられている。

 

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■井田衍義・歛法式令ー八・九 (13)

2018-05-19 08:09:54 | ご挨拶

 三四
   上々出來作之事
一壹反ニ籾    六石
一同 大豆    貮石
一同  粟    四石
一同  稗    六石
一同 蕎麥    貮石

 三五
   胡麻徳懸之事
一胡麻ハ其村々の土反より五升六升程上りに徳懸可仕事、
 胡麻ハ壹升ニ付米壹升五合なり、尤上胡麻の替口を以徳
 懸の指引するなり、縦畑土反五斗五升の時五升上ヶて、
 米反六斗と見て一五ニて割ハ四斗となる、是を一紙之畝
 數に懸れハ徳胡麻となる也、替口ハ御記六帳有之也

 三六
   麻徳懸之事
一麻徳懸は毛上より輕く徳懸する也、其心ハ麻作ハ手間こ
 へ大分入候もの也、毛上能出來候麻ニ相應ニ徳懸する時
 ハ、壹反の徳麻ニて五反七反の年貢あるもの也、心を付
 了簡して徳懸するへし、尤米之直段ニ高下あるを心懸徳
 懸するへし

 三七
   同土反懸之事
一麻畝懸は土反を二ツい割、夫々徳懸を懸て六ニて割レハ
 上納荢となる也、夫を畝數ニて割レハ反當りの荢と知る
 也、二ツニ割心ハ貮石の双場なる故也、又六ツニ割ハ荢
 百目ニ付六分替也、尤鶴崎ハ上荢故壹匁替、小国・久住・
 阿そ・南郷ハ下荢故右六分替なり

                            つづく

    

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