長岡姓であり、幼名は與七郎、実名興就という人物がある。・・・こうくると細川家の一族を思わせる条件がそろっている。
亡くなった石牟礼道子の小説「西南役伝説」にこの人物が登場するが、出自などにはふれていない。
天草の大庄屋長岡五郎左衛門としてである。天草に於いてはこの家系は、細川忠興公の二男・興秋が切腹の命を受けたが逃れて天草に住み着いたと伝えられる。
(私は根拠は全くないが、興秋公のお子達が落ち伸びてこられたのではないかと考えているが如何だろうか)
さて、享和二年壬戌六月五日、細川藩士斎藤權之助が書残した次の様な文書がある。
天草郡御領の大庄屋長岡五郎左衛門興道が求めに應じて、其家傳等を聞きしまゝに、書寫しおくものなり。
肥後高橋司市 齋藤權之助 書判印
細川興秋朝臣七世孫長岡五郎左衛門
源興道謹撰之
詳細は「細川興秋の子孫について (一)」の「細川同族天草長岡家系譜」をご覧いただきたい。
又、代々の系図は「細川興秋の子孫について (二)」「同 (三)」「同(了)」でご紹介しているのでご覧いただきたい。
その十一代九世が長岡五郎左衛門興就であり次の様に紹介されている。
幼名與七郎、興生の嫡子なり。文政初年の生まれ家督を継いで大庄屋たり。性剛
毅にして任侠あり。弘化二年小前百姓の意を躰して質地請返しの為め敢然江戸へ
出訴の擧に出でしも、越訴の廉にて長崎奉行へ護送せらる。然も之が口火となり
かの弘化打毀しの異変勃發するや、吟味の為長崎より富岡の獄へ投じられしが、
嘉永二年江戸勘定奉行よりの判決にて、乱心の故を以て欫所仰付けられ、親類預
けとなりて佐伊津村へ蟄居す。明治二年巳巳九月十五日卒。法名、興就院直宗英
氣居士。
妻は中村庄屋の別家波多野氏の出、俗彌ヨシ。明治廿二年己丑一月十八日卒。
法名、戒光院賢室貞良大姉。
さて石牟礼道子著「西南役伝説」では、上記紹介文にもある弘化二年の事件「弘化年度打毀乱妨件」を取り上げ説明している。
上の文章では「乱心」とあるが、石牟礼氏が引用している史料では「発狂の躰」と書かれていて、勘定奉行への越訴後の取り調べが過酷を極めたものと思われる。
天保~弘化~嘉永にいたる天草地方の一揆の結果として、五郎左衛門の行動が讃えられている。