津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■千葉城の抜け穴

2022-04-01 15:44:28 | 熊本

 後にNHKの名物アナウンサーとなられた鈴木健二アナウンサーは、昭和28年当時は熊本放送局に居られ、6月26日の大水害の時は熊本市城見町にあった局舎から、刻々と増す水嵩から逃れるように上の階へ避難しながら実況を続けられたという。
後に、熊本放送局は千葉城に局舎が建設された。昭和37年の着工だとされる。
この場所では多くの横穴古墳が発見されている。つまりしっかりした岩山であったことが判る。出田氏の居城であったとされこの局舎部分が天守、県立美術館分館あたりが二の丸、一段下がった高橋公園は旧JTの敷地であった所が三の丸であったとされる。出田氏時代700位の人たちがこの城に在ったという。
その建設の途中周辺で上記の多くの横穴が見つかった。また後日には延長20mにも及ぶ抜け穴と思しき穴が発見され、現在の城東中学方向に向かっている。20度ほどの勾配で、階段状でありその先は崩壊が見られて出口は確認できていないとされる。
そしてもう一つそれらしい穴の存在が認められたが、既にその時はその上を工事用のブルトーザー等が走り回っており、危険が及ぶということで調査はストップされた。
かっての宮本武蔵の屋敷跡あたりに出ていたのだろう。下りた目の前は坪井川の流れがあった。
現在は崖下にへばりつくように、熊本市教育センターや熊本西社会保険事務所が建っている。
調査に当たられた文化課長・鈴木喬先生は「抜け穴であろう」と熊本市北部地区文化財調査報告書(S44版)で述べて居られる。

熊本城に於いても抜け道の話はある。不開御門から急阪を降りて、県立美術館分館の後ろの坂を下れば行く先は同じである。
坪井川の水運が避難路と考えられていた。出田氏の時代も、加藤氏の時代も緊急時の脱出法としてこのような具体的な形が残されている。

その庁舎も今は解体され、NHKは桜町の一等地に局舎が建てられ移転している。
大変気になるのはその跡地の使い道である。何か施設が出来るのであれば、この謎の抜け穴を是非調べてもらいたいと切に願うものである 。

             

          平成肥後国誌の編者・高田Drの取材メモ、熊本放送局内にあった説明版でしょうか。
          平成8年の年賀ハガキのお年玉抽選番号の刷り物の裏紙が使われていました。

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■泰勝寺の池

2022-04-01 07:01:00 | 徒然

 ご厚誼をいただいているサイト「徒然なか話」さんの昨日のブログ「涸れた泰勝寺の池」を拝見、驚いてしまった。
泰勝寺の池の水が干上がり排水溝のふたが抜けたの?という感じだが、雨不足で干上がったというお話にまたまた驚いてしまった。
ここは、私の青年期の思い出が詰まっている。お茶を勉強していた時代、春・秋のお茶会で幾度となく親しんだ。
かけがえのない友人とも交流も育んだ。
苦い思い出もある。中学生の時代だと思うが池に筏のようなものがあり、これに乗ったらひっくり返ってしまった。
びしょびしょの姿で当時住んでいた出水町の自宅まで約7~8㌔を、奇異の眼で見られる中を歩いて帰った。

 この池はいつも濁っていたような感じがする。水前寺公園の清冽な湧き水の澄んだ水面とは真逆である。
泰勝寺の池が雨水をたたえた池である事も初めて知った。少々なりとも水がわいていると思っていた。
TV東京の人気番組「池の水ぜんぶぬく」に頼んで水を抜いて見たら面白かろうとか、熊本で開発された納豆菌を使った水質改良剤をテストケースでこの池で試してもらえないかとか、いろいろ妄想したりした。

 こういうこともある。池の底を干し揚げてまた梅雨の頃水をたたえてくれるのを待とうではないか。
心配なのは鯉とかフナとか、10匹ほど死んだということだが元気で居る魚はいないのかしら?
もう久しくこの地を訪れていない。お茶室・仰松軒の「鎖の間」の間取りをよく覚えて居らず、資料を探しているがこれが見当たらない。
一度実地調査をしてみたいという思いもある。
丁度桜の時期、観光客の皆さんも多いと思うが、さぞかし驚かれることだろう。

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