津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控-5

2022-04-17 16:49:47 | 史料

       けいこを火中ののしゆうにやらせになり    (水泳の)稽古を家中のご家来衆にやらせになり
       御自分もおよいで居んなはった         ご自分も泳いでおられた
       太かおからだの御殿さまはあびかた       大きいお体のお殿様は泳ぎ方
       はなかなかたつしゃでござつた         は中々達者で御座いました
       ぶげいでござれよみかき山海川         武芸でござれ読み書き山海川
       のことから下々のもののとせいのみちに     の事から下々の渡世の道に
       いたるまでくわしかつたあのかたの       至る迄詳しかった あのお方の
       おとくのほどはどうしてんわするゝ       お徳のほどはどうしても忘れる
       こつあできんところなんというてん       事は出来ない処なんと言っても
       御とうこくの神様ばい             お当国の神様です
       熊本御城下のくいうふうになりつ        熊本城下のこの様に立
       ぱになつたもとは御先々代さまのおじ      派になった元は御先々代様(清正)の御慈
       ひのおかげとおもや朝な夕な■お        悲のお陰と思えば朝な夕なお
       がまんわけんにやゆくまい           拝まない訳にはいくまい
       おるがほつけしょうになつたつのは       俺が法華宗になったのは
       こうしたわけからたい             こうした訳からだ
       三手ごしや五手ごしの川さらへ         三手越しや五手越しの川浚え

       は御先々代さまのときからでこるば       は御先々代さまの時からこれを
       ふしょうなこつをやるとまさかの        不精な事をやるとまさかの
       ときにやじぶん/\にこまるけん        時には自分/\がこまるので
       みんなこころをあはせてやりおつ        皆心を合わせてやりおっ
       た                      た
       今のとんさんもようやんなはるが何       今の殿様(忠利公)もよくやられるが何
       うしても加藤家のときとはず          うしても加藤家の刻とは随
       いぶんちかうごたるおいさき          分違うようだ 老い先
       みぢかゝおどんないづれたかせさ        短い自分はいづれ高瀬に
       んひつこうで往生きわをよくする        引っ込んで往生際を良くする
       やうにせにやここで朝夕御城          様にしないとここで朝夕御城を
       をみっとなみだがでゝやるせが         見ると涙が出てやる瀬がな 
       なか                     い
       これくらひのおもひでにとゞめさせて      この位の思い出に止めさせて
       くれあんまりいろ/\とおもひ         呉れ 余りいろ/\思い
       にふけつてむかしはなしをすつ         にふけって昔話をする
       と加藤の御家がむげこつでなら         と加藤の御家がむごうな事でならない
       んからこれからさきはモいわ          からこれから先はもう言わ 

       せてくんな たのむ/\ あとはなみだ        せてくれるな頼む/\ 後は涙
       であつた                   であつた
       じぶんもききあるひはたづね          自分も聞き尋ね                
       ながらしまひにともなみだ           ながら仕舞に共涙
       にむせかへつてしまうた ああ            にむせ返ってしまった 嗚呼
         くわんへい十ねんはる             寛永十年春
                 善三郎                  善三郎                     
       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■忠興の仲違い、伊達政宗

2022-04-17 07:49:44 | 歴史

 忠興と伊達政宗との仲違いは、子供の喧嘩みたいなものである。
喧嘩をしては仲直り、そしてまた喧嘩、どうやら政宗の方が喧嘩早いようだ。
政宗は忠興が着用していた九曜の紋を模様に散らした着物などを借用したりして喜んでいるが、九曜紋が気に入ったらしく、使わせてほしいと頼み込んでいる。
「伊達者」という言葉があるが、正宗のこのような大らかな性格が大いに影響しているようだ。
熱しやすいが覚めるのも早いようで、この家紋は政宗に近侍した片倉小十郎に下されたとも伝わる。

                    

 さて二人の仲違いは繰り返されている。
あるとき、「扇子切り(投扇か)を被成しに、何としても忠興君御勝被成候」政宗が怒りだし「所詮は慰め事だ、兵法刃なら知れぬ」と言い出し、これに忠興が怒りだしてあわやの事態になったが、周りの人が押しとどめて事は澄んだが、これより仲が悪くなったことに対し周囲の人は笑ったらしい。
 先にもふれたが、森鴎外の「興津弥五右衛門」に登場する、名香木についても仲違いをしている。
仙台公にこの香木が渡ったいきさつは「忠興君のお取出し被成候白菊と云伽羅を政宗所望にて被遣ける」とある。
これに対しそのお礼として「国の産にて候」とて砂金を送った。
忠興は御立腹被成「我等二名香をもらひ、其価と思ひて砂金を越候事、正宗程の者に似合わず」として、今度は領国豊前の呼野金を「一倍返し」で届けたという。
「金具なとにつかひ能候へ」と添えた。
これで政宗が怒った。「夫れよりご挨拶あしかりしと也」とあるから、殿中で顔を合わせてもお互いそっぽを向いて通り過ぎたのだろう。
戦場の勇士の意地の張り合いは、まるで子供の様でかわいいものだ。この手のものは時間が薬だ。
参勤交代は東国と西国とは入れ替わる様に行われるから、早々顔を合わせる機会はなかったとも思えるが・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする