津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控-8

2022-04-22 07:22:07 | 史料

 熊本城研究の諸先生方の論考を読ませていただくと、その着工時期については共通する確定的な説がない。
処が御大工棟梁の善蔵さんは、着工は「慶長3年」だと明言している。問題はこの「聞覺控」が一級資料として評価されていないことを暗示している。
慶長3年と言えば秀吉が死去し、長く苦しかった朝鮮との戦役を終了させ、清正は12月には帰国して上坂している。
7年にも及ぶ戦役から解放され、当時肥後半国の国主としての居城のたたずまいを整備するために、いよいよ工事が本格化していく。

現熊本第一高校のグランド部分の埋め立てなどが始められたのはいつなのか、なかなか知り得ない築城の歴史は興味をそそる。


       おしよ(ろヵ)が茶うす山手にきまつてから山   お城が茶臼山手に決まってから山
       の地ならしときたばいこるが大事で        の地均しときた これが大事で
       あつてその次ぎにや材木と石のせん        あって その次には材木と石の詮
       ぎこるがぎようさんほねがおれた         議 これが仰山(大変)骨が折れた
       このほかにかはらやきは江戸ゟ下し        この他に瓦焼きは江戸より下し
       になつていひだ山のしたでやかせ         になって飯田山の麓で焼かせ
       になつた                    に成った
       ざいもくのぶんなあそきくち茶うす        材木の分は阿蘇・菊池・茶臼
       山きんほごんげん山の方からも          山・金峰・権現山の方からも
       きり出しになり石は六かう山           伐りだしになり 石は独鈷山・
       きおん山とかおかみだけつのう          祇園山とか拝み嶽・津之浦
       らあたりからもとりよせなはつ          辺りからもお取り寄せなさつた
       たばい
       きんま道から木と石をはこんだ車         木馬道から木と石を運んだ車
       のあつたけんでけたつたい男山と         があったから出来たのだ 男山と
       女山のさかい目をたち切ってもとの        女山の境目をたちきって元の
       しろから茶うす山に引きなほしは         城から茶臼山に引き直しなさ
       つた大しかけははじめのしろゟ          つた大仕掛けは初めの城より
       もことぎょう山な大ふしんであつた        も事仰山な大普請であった

       いまでこそ五十四万石の城下というとる      今でこそ54万石の城下といっている
       ばつてんけいちょう三年からお城の        けれども慶長3年からお城の
       たてかたに手をつけなはつた御先         建て方に手を付けられた御先
       々代の御なんじゅうなはたらきは         々の御難渋な働きは
       なみたいていのこつじやなかつた         並大抵の事ではなかった
       これにやまちといわずざいゴ           これには町といわず在郷
       うんもんにいたるまであせみずを         者に至る迄汗水を
       たらしておてつだいいたしたこつあ        たらしてお手伝いをした事は
       とても口や筆なんきゃつくしきれ         とても口や筆などでは尽くしきれない
       せん
       今の御殿さんなそれこそ楽なもんで        今の殿様(細川忠利公)はそれこそ楽なもので
       小倉からむこ入りにきなはつたつも仝       小倉から婿入りに来られたも同
       じこつたいおづどんがてしおにかけ        じ事だ 俺たちが手塩にかけ
       てつくり上げたお城のふしんはほん        て作り上げたお城の普請は本
       とうに命かけであつたぞ             当に命がけであった
       このごろよそからここにきとるそんじ       この頃他所から此処にきている そんじ
       よそこらの奴どんでなんのわかるものか      よそこらの奴らで何が判るものか

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■御恵贈御礼「大日本近世史料‐細川家史料・二十七」

2022-04-22 06:52:10 | 先祖附

                 

 東大史料編纂所から「大日本近世史料‐細川家史料・二十七」のご恵贈を賜った。厚くお礼を申しあげる。
わたしはかつて、この細川家史料の人名索引を作ったことがある。誰々は何巻の何ページに該当記事があるという索引だ。
私としては自画自賛ものだったが、史料編纂所の当時の所長様からメールが入りお叱りを蒙った。
則徹去したが、まだ幽霊がさまよっていて、人名を打ち込んで検索するとこの人名一覧が顔を出すことがあり驚かされる事がある。
史料編纂所からすれば私は前科一般の確信犯なのだが、有難いことにこれが不思議な御縁となって以降このようなご配慮を頂くことになった。
今般の第二十七巻は、幕閣の要人その他に対する忠利の最晩年の書状がまとめられている。その死の直前までである。
大変興味深く、今日は一日拝見したいと思う。重ねてご厚情に感謝申し上げる。

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