今日ご紹介した「御大工棟善蔵聞覺控‐9」では、棟梁善蔵が本丸御殿の建築に係わっていることが判る。
昨日熊本史談会で「加藤清正の妻子」をお聞きしたが、講師の福田正秀氏は熊本城の着工は慶長三年説をお取りになっておられる。
その他の研究者も最近では三年説が多くみられるようになってきたように思えるが、これは善蔵さんの話が大きく影響していると思う。
そして慶長五年には清正は黒田如水を熊本城に迎えているから、天守はすでに出来上がっていたのだろう。
茶臼山の造成着工は清正が熊本半国の領主になった天正16年以降の早い時期からであろう。
一昨日「二様の石垣」について触れたが、サイト「徒然なか話」主宰のF様からコメントをいただいた。
絵図と現状を比べると違和感を感じるといわれる。
私は縁先に広がる路次(庭)をあまり注意して見ておらず、写真集に残る建物跡と思われる礎石様のようなもので建物の存在をしった。
さてその二様の石垣はいつできたかである。絵図から類推すると石垣は巾4間ほど付たされていることが判る。
西南角には3間角の三階櫓がある。
本丸御殿からのびる4間幅の建物が急こう配の高石垣に乗っていて、本丸御殿の一部も乗っかっている。
この急こう配の石垣が何時の時点で継ぎ足されたかということになる。
そして竹之丸側から90度折れていた既設の扇勾配の石垣はどこまで続いているのだろう?
すくなくとも本丸御殿が着工された時期とされる慶長16年頃には、継ぎ足されたことになるのだが?
細川忠利入国後という記事が散見されるが、本丸御殿の一部が継ぎ足された石垣の上にある事からすると首をかしげざるを得ない。
残念ながら本丸御殿の建築に係わった善蔵さんはその時期を書き残していない。
それにもかゝはらずすこし少し鳥目 それにも関わらず少し鳥目(銭)
がたまつといばりちらすつらにくさ が貯まるといばり散らす面憎さ
ねお城の内のなはばりは御 お城の内の縄張りは 御
先々代様といひ田もり本みやけさ 先々代様と飯田・森本・三宅さ
んたちでいろ/\ないみめのだし ん達でいろいろな入目の出し
入の役目は下津さんだつた 入れの役目は下津さんだつた
いかな大名でんよそん人はお城のう 如何な大名でも他所の人はお城の内
ちには入るこつはかなはず御家中 に入る事は叶わず御家中
の士にても御そば用人と小 の士(侍)にても御側用人と小
姓のほかは男女のしべつなし十五 姓の他は男女の区別なく十五
より上のもんな宿さがりときまつとつた より上の者は宿下がりと決まっていた
お城のじならしゑいとう/\のうたの お城の地均しえいとう(永棟)/\の歌の
ふしおもしろくつねにききよつたが 節面白く常に聞いていたが
じちんまつりのきしきにおしろの人 地鎮祭の規式にお城の人
でしんごんしゅうの出家がつと で真言宗の出家が勤
めになつたばい になつたよ
この日は女ごはだるも入つけずそののち この日は女御は誰も入り付けずその後
に井川をぐつさりになつたが に井川(井側-井戸掘りか)を沢山に為さつた(つくった)が
これもなみたいていのこつじやなかつたげ これも並大抵の事ではなかったそうだ
な
石がきのつみあげのふしんななほさ 石垣の積み上げの普請は猶更
らのこつでずいぶん多くのけが の事で随分多くの怪我
にんがあつた 人があった
このごふしんの時あまく引きまはし この御普請の時は幕引き廻し
てほかのもんにや一さいみせなはら て他の者には一切見せなさらな
んだつたぞ らなかったよ
御殿のしゅうじにてつのほねを入て 御殿の障子に鉄の骨を入れて
きりつとめぐるめぐるやうなしかけであつ きりっと巡る(回る)様な仕掛けがあっ
たがよその国のお城にかうしたもんが たが他所の国のお城にこうした物が
あったかろうかなそれからしょう 有ったろうか それから昭君
くんのまのうしろにきみつの間があ の間の後ろに機密の間が在
つたこつもおぼへとるかべがめぐる ったことも覚えている 壁が巡る
しかけでかべが一ちょうきりつと 仕掛けで壁が一ちょうきりっと
めぐつとゆかのたかさ六尺ばかり 巡ると床の高さ六尺ばかり