津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■散歩と家紋

2022-04-26 12:30:11 | 家紋

 昼から大ぶりの雨になりそうだからと、早めに傘持参で散歩に出た。相当強い風が吹いていてそれが気持ちよい。
路地を抜けると「肥後椿」の生垣の間に「鉄仙」が見えた。
お向かいの家は「薔薇」が咲き始めたが、「さあ見てくれ」と言わんばかりに数種類の花が毎年展覧会のようである。
ご主人がいかにも自慢そうにいつも手入れに余念がない。

何時ものように県道沿いの植込みの植物などに目をやりながら、写真に収めたりする。
桜が終わって今は「平戸つつじ」が咲き誇っているがもう満開はすぎて朽ちかかっている。
下草は西洋タンポポが満開、たくさんの丸い玉ぽぽが風に逆らっている。
昼顔」が花を見せ、「」や「酢漿草(片喰)」も子孫を残そうと、コンクリートのちょっとした隙間から元気に顔を出している。
」や「もみじ」の新芽も美しい。

自衛隊の敷地の中には20mは優に超える「松」の木が多くある。側道に時々松笠を見かけるが、今日の強風で青い松笠が落ちるかもしれない。
骨だけになっていた「銀杏」も緑の若葉で覆われ始めて、青空に映える。
」の木は実をつけ始め、アジサイも若葉が美しく梅雨の季節を待ちわびている。

山吹」が黄色い七重八重のはなを付けた。
直ぐ近くの御宅の畑には「夏みかん」の花が、連なっている。
柑橘類の花はどれも「」によく似た感じで、直ぐ近くの「金柑」の花は小さいけれどよく似ている。

我が家の水盤にはそろそろ独特のデザインの「沢瀉」が顔を出す。

よくよく考えるとほとんど「家紋」になっているなと思って、家紋帳を取り出し頁をめくったりしている。

 

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■こういうことなのか?白川の大蛇行

2022-04-26 07:15:06 | 熊本

   

 またまた、「茶臼山ト隈本之絵図」の話である。ぼんくら頭の私は四木社(代継神社)が坪井川の川向うに位置していることが、どうしても理解できずに来た。
動かし難い事実は、その四木社の四本の木の一本が現在の花畑公園(旧・花畑邸)に残る大クスだということだ。
熊本城築城の際、御城から見下ろすことになるから、白川の南(後の代継橋脇)に御移り頂いた。
この茶臼山の図は出田氏が千葉城を築城する前の時代の有様を描いているとされる。(隈本古城史-付論・「茶臼山ト隈本之絵図」について)
白川は子飼あたりから現況に近い形で流れている。
しかし大蛇行があったことが慶長国絵図(右図)に残されていて、川中に定められていた郡境が、流路が直線化された後も飛び地の形(正保国絵図)で残されていたことから、いつの頃からか白川が大蛇行していたことが証明された。(富田紘一氏論考-白川・坪井川流路考)
つまり千葉城築城(文明年間)以降140~150年の間に白川は大きく流れを変容させたということになる。

 絵図に描かれている四木社(左図部分)や神田原の北側へ大きく蛇行していったと考えるとつじつまが合う。
元々この絵図のように直線的に流れていた流路が、突然流れを変えたのはどういうことなのか。
後に追い回し田畑と呼ばれたその大蛇行の跡地は、もともとが低湿地ではなかったのか?ここに白川の水が流れ込み水堀状になっていたのではないか。
そしてこの大蛇行の内側は、四木社とともに「辛島町遺蹟」や「山崎古墳」が見つかるなどしている一帯だから、自然に土地がえぐられるということはあり得ないのではないか。
頂点に上り詰めた流れは反転して、慶徳堀を呑み込み白川の許の流れに合流した。
慶徳掘はもともと存在した深渕であったのか、大蛇行の埋め立ての際残されたものなのかよく判らないが、その流路を示す大きな手掛かりではある。
この反転した流れも人工的なものではなかったのか?

妄想の果てにたどり着いた私の考えである。すぐさま「それは違うだろう」と反論が来るような気がしている。

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