津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■肥後文献叢書第二巻のはしょりすぎな編集(一)

2022-04-29 13:58:40 | 書籍・読書

 先に続撰清正公記について触れた。これは「肥後文献叢書・第二巻」に掲載されているのだが、内容がすごく欠落していて物の用をなしていない。
武藤巌男・宇野東風・古城貞吉といった錚々たる人たちが編集人となっているが、大いにがっかりである。
随分この叢書の価値を下げているように思う。

自分自身ご苦労なことと思うが、けちをつける以上はその状況を開示する責任があると思い、少々長くなるがご紹介したい。
二回に亘りご紹介する。□□□□表示した項目は記事がない)

 続撰清正記・巻第一目録
   第一・清正公秀吉公へ奉公に出らるゝ事
   第二・秀吉公因幡國鳥取の城責加藤虎之助働の事
   第三・秀吉公備中國冠城責清正働の事
   第四・秀吉公山崎表において日向守と合戰清正物見の事
   第五・秀吉公瀧川左近将監誅伐近江新七うちじにの事
   第六・柴田一類誅伐之事戸浪隼人討死の事
    續・志津嶽合戰物語の事
   第七・織田信雄卿秀吉公合戰の事
   第八・秀吉公九州表へ御出馬島津義久和睦の事
   第九・秀吉公より佐々陸奥守家來どもに下さるゝ御書の事
    續・清正肥後國拝領いたし度旨望まれ候事
   第十・肥後國天草志岐林専一揆の事付主計頭小西行長へ加勢の事
   第十一・志岐落城主計頭はたらきの事
    續・天草合戰の事
    續・木山彈正を討給ふ事
    續・加藤善右衛門働の事加藤清兵衛横鑓の事
    續・一番備二番備の頭相違の事
    續・天草にて諸卒せんさくの事
    續・南部無右衛門事
    續・木村又蔵事

 続撰清正記・巻第二目録
   第一・本渡落城の事
    續・本渡の城より夜中鳥獣出たる事
    續・本渡落城の時女人はたらきたる事
    續・金延(のし)付之刀わきさしの鞘斬とらるゝ事
   第二・志岐本渡落城の様子秀吉公へ清正御ものかたりの事
   第三・秀吉公小田原責たまふ事
   第四・秀吉公主計頭に朝鮮御諚仰付らるゝ事
   第五・主計頭釜山につき給ふ事付秀吉公より御書つかはさるゝ事
    續・釜山浦にて牛に乘る事
    續・釜山浦にて着船のとき毒酒呑事
   第六・主計頭筑州に着陣の事主計と小西口論の事
   第七・清正朝鮮の都に着給ふ事王子兄弟いけどりの事
    續・王子御兄弟を追咸鏡道押行時の事
    續・王子御兄弟生捕事
   第八・清正おらんかい表の働の事ゑんたん落城の事
   第九・清正陣所へおらんかい人夜討則唐人敗北の事
      付清正内裏へ押詰火をかく帝王都を落給ふ事
   第十・清正鏡の城へ歸陣おらんかい人狼藉糺明の事
   第十一・清正王子官人等召具し吉州へ歸陣梅天といふいくさの事

 続撰清正記・巻第三目録
   第一・大明勅使に清正對面大王よりの勅書披見の事返書美女殺害の事
    續・朝鮮美女殺害相違の事
   第二・清正おらんかい朝鮮人等軍の事唐人敗軍都静謐の事
   第三・清正と諸大將問答の事かせんぼ川の陣所へ夜うちの事
   第四・朝鮮王子歸京の事王子より主計へ禮書の事
   第五・晋州落城森本飯田後藤堀先陣後陣論の事
    續・晋州の城の物見の事
    續・晋州の城責の時龜甲作る事
    續・秀吉公御感狀義太夫角兵衛名の字不審の事
   第六・小西行長秀吉公へ清正を讒言する事
   第七・清正歸朝御勘気蒙らるゝ事
   第八・大地震の事清正登城の事
    續・右の大地震のときの様子の事
    續・梅木田民部と云者本渡の城をとりしを策を以てとりかへす事

 続撰清正記・巻第四目録
   第一・清正勘氣御赦免の事行長讒言露顯事
   第二・梁山南原落城の事
   第三・大明人朝鮮へ百萬の人數催す事
   第四・清正居城蔚山へ揚鎬呉惟忠百萬騎にて押よする事
    續・蔚山へ大明人寄せんとする時西生浦より清正蔚山へ籠らるゝ事
    續・蔚山城へ入時の軍令の事
    續・蔚山籠城の事
    續・加藤清兵衛蔚山の城へ入んとする時の事
    續・大明人謀に退散せし事
   (續・漢南人共の城を責たる様子の事)・・・・・抜けか?本文有
    續・漢南人楯の板をとる事戰中働之事
    續・蔚山の城にてふしぎともある事
    續・高麗陣中働に甲乙次第ある事
    續・朝鮮古都にて草刈を追來たるに出合漢南人とはたらきの事
    續・枯木を敵の旗と見て日本勢敗軍の事

 

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■熊本城着工「慶長六年説」の拠り所

2022-04-29 08:37:54 | 先祖附

現在では熊本城の着工は慶長三年がほぼ定説となっているが、これは「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」からくるものだろう。
それまでは「続撰清正記」にある具体的な着工の日付に従っていた。処が慶長四年の銘がある瓦などが発見されルに及び、此の節の信憑性も不確かなものとなった。
肥後文献叢書(ニ)にこの「続撰清正記」が紹介されているのだが、肝腎の「熊本の城新にとりたて給ふ事」という記事は欠落している。(この本は編集段階で多くの記事が欠落しており、大いに問題がある)

原文をお読みになりたい方は、国立国会図書館のデジタルコレクションの「国史叢書. 將軍記二・ 續撰清正記からコマ「番号210」を参照されたし。
ここでは「宇土軍記」の記述を引用してご紹介する。


一、続撰清正記に云、熊本の古城より東に当りて茶磨山と云ふ高き
   山有之、慶長六辛亥丑年八月中旬に右の山に鋤初有之城を築給ふ、
   今熊本の御城これ也、同八癸(みずのと)卯年迄に至三ヶ年出来のよし、此
   節宇土の天守為被引たるとの事也、肥後にての申伝に云、熊本
   古城は今の古城也、元亨の比菊池の家老赤星掃部(城脱カ)・越前の守と
   て両人有之、其内熊本の城に代々の城越前守筋居城の由、此所
   に茶磨山、又祇園山わきに在之、鉄炮の恐有之ニ付清正心に不
   応、何方成共可然地を見立度とのぎニて方々被見合侯処に、東
   に当り右茶磨山か、北に当りて龍田山、此両所心に応、此内
   にてハ何方可然かとの義にて度々両所え諸将召連被罷越の由、龍
   田山ヘハ一里の内可在ノ由、其比の沙汰に、古より申伝には
   茶磨山は味方の城、龍田山は敵の城と申侯、子細は茶磨山ハ少
   高ク、是を城に取立る時は大津宿迄五里の内の高ミなく、是に
   敵陳取は敵の城なり、其時押寄討取可然との事故かくと云也、
   清正此詞を聞信して心付茶磨山を取立給ふと也、城に調、敵は
   即時故不調、然ハ味方に勝歴然也、又云、宇土落城関ヶ原合
   戦是同年也、今年ゟ清正大身に成給ふて翌年ゟ城を築給ふと、
   右城築の節清正の茶道(頭)担歌をつくね(利カ)申侯、
     熊本の石引廻す茶磨山敵寄たりとかとふ城かな
   此段清正給い嘉悦にて米三石賜ふとなり、此先キ又云、終ニ点之、左ニ記ス、此処ニ
    書入の細注あり、終ニ点々下ニ記ス、 
一、慶長五庚子年宇土落城より清正の領内と成り断前に具也、其嫡
   子肥後守忠広遺跡無相違拝領、両代ともに肥後の国主たるニ付
   宇土ハ領地也、然処ニ
   公方家光公御代忠広三十一才然処に不行跡ニ付、寛永九壬申年六月
   三日領地被召放羽州庄内へ遠流被為仰付、加藤家断絶、古加藤
   家両代肥後のくに守の年数二十三年也、



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