大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の評判はどうなのだろう。どうも三谷幸喜の脚本が気に食わないであまり見る気がしない。
小学校六年の時、担任のO先生が詠んでくれた「義経記」が、70年以上たった今でも思い出される。
そんな中、昨日は押し入れの本棚を、懐中電灯を照らしながら探し物をしていたら「平家物語」が目に付いた。
目的の本は見つからないから、仕方なくこの本を取り出してパラパラ頁をめくった。祇王の文字が目に飛び込んできた。
清盛に捨てられて母・妹と共に奥嵯峨の祇王寺に逃れ尼になったという話だ。
そしてその座を奪った仏御前も又清盛の許を去り、なんと祇王寺を尋ね、四人で暮らすという驚くべき顛末となる。
『平家物語』巻第一より六・「祇王(ぎおう)」
京都学の達人・国際日本研究センター所長の井上章一教授は、その著「京都ぎらい 官能篇」でこの祇王寺で起きた一つの事件を取り上げている。
氏はこの祇王寺近くで少年期を過ごしたらしい。当時の庵主は美貌で知られた元新橋の芸妓の照葉(智照尼)である。
そして、この話を知らなかったと残念がっておられる。
1910年代赤坂の芸妓・万龍と並び称せられ、ブロマイドの売り上げを競ったという。

照葉(智照尼) 万龍
平家物語の祇王の悲劇の舞台となったこの寺は、後年には無住となったが、篤志家が別宅の茶屋を移設して智照尼の居住する処としたらしい。
美貌の尼にはパトロンが大勢いたのであろう。事件というのは、その祇王寺をある人が訪ねてきたのだという。
その人こそ智照尼が花柳界に在ったころ覇を競ったかっての万龍その人であったという。
井上教授はこの二人の出会いを、平家物語に重ね合わせている。
私も建築家のはしくれとして、この万龍という人物については、著名な建築家・岡田信一郎の夫人として承知していた。
花柳界を引退してからは、岡田の為に力を盡しているが、岡田に先立たれると茶道を心の糧とした。
そのために京都にも良く出かけたらしい。そして或時智照尼を尋ねたというのだ。
智照尼が「祇王」であり、万龍が「仏御前」である。
井上教授は京都大学の建築科を出られた建築家である。
万龍が岡田信一郎の夫人であるということもご存じだと思うのだが、「官能篇」では触れて居られない。
井上先生の著書は完読しようと思っているが、著書数が膨大で根負けしてこっちがくたばってしまうかもしれない。