津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■名香木「一木三(四)銘」の真実は?

2022-04-16 06:41:15 | 歴史

 何度も触れてきた森鴎外の著「興津弥五右衛門の遺書」は、長崎に輸入?された香木を三斎の命により手に入れるために、弥五右衛門と同役の横田清兵衛が口論となりこれを切り殺す結果を招いた。三斎に復命したが命を助けられたため、三斎の死後三回忌に殉死したというものである。鴎外はこれを遺書の形をとり、一連の彼の歴史小説の第一号として発表した。
これは明治天皇崩御後、交流のあった乃木希典将軍の殉死に心を寄せて一週間で書き上げたと言われている。
しかし急いだあまりに考証が至らず、一年後には全面的に改訂して出版されたがこれが今日「本稿」と呼ばれて私たちが親しんでいる著作と言うことになる。

 鴎外は神沢杜口が表した「翁草」にある「細川家の香木」を参考に、細川家と伊達家との一木の香木を廻る争奪のエピソードを軸にして描かれている。
ところが実際はこのような争奪の状況は無く、細川家の記録(綿考輯録・巻九)では、伊達政宗公の乞いに対して忠興が贈呈したとされている。伊達家に於いても細川家から拝領したとしている。
つまり、伊達家との間に入札の金額が上がったため、高値でもぜ入手しようとする弥五右衛門と清兵衛との間に口論となり、これを殺害したという話はあり得ないことになる。
寛永三年に手に入れたという銘香木「白菊」は、その由来が箱書きされて現在も永青文庫が収蔵する処である。
これが寛永三年の後水尾天皇の伏見行幸の際、忠利も陪席した折、天皇に献上されたとされる香木であろう。

 しかし、弥五右衛門自身が清兵衛を殺したとしているから、これは私が先に指摘したように、寛永五年時点での清兵衛の存在が確認されているから、殺害事件は随分時代が下っての別事件事であろうと考えられる。
厄介なことは綿考輯録の編者・小野武次郎が三斎に殉死した人々を紹介する中で、興津弥五右衛門のこの事件にも触れ、寛永元年三月にこの事件が起こったと書いている。そしてその項(出水叢書-綿考輯録第三巻・忠興下-上p318)の最後には「考ニ少しいふかし」と書いているが、何が訝しいのかはよく判らない。
鴎外は寛永三年、この銘香木が後水尾天皇の伏見行幸の際、ご高覧の栄に浴していることから、事件が起こったのは元年位の事だろうと推量しているが、この小野武次郎の文章には気づいていないことになる。

 ところで、綿考輯録・巻九(出水叢書-綿考輯録第二巻・忠興公-上p10~14)に於いては、忠興と伊達政宗の交流について縷々書かれているが、ここに「一木四銘」の香木の事が記されている。事件のことに就いては一切触れられていない。
余計を廃して香木について記す。(  )書は「翁草」が記する処で、現在巷間に伝わっているもので間違いである。

    三斎(忠興)、白菊と銘す(忠興は初音と命名したとされる、白菊は天皇の命名によるとされてきた)
       たくひありと誰かハいはん末匂ふ秋より後の白菊の花

    伊達政宗・柴舟
       世の業のうき身につむ柴舟やたかぬ先よりこかれ出(来)らん

    禁中にて・ふちはかま(遠州所持のものと伝えられてきた)
       ふちはかまならふ匂ひもなかりけり花は千種に色かハれとも

    小堀遠州・初音(本来は忠興の銘とし、天皇に献上し白菊とされたという)
       聞度に珍しけれハ郭公(ほととぎす)いつも初音のこゝちこそすれ 

このように細川家史料が記すところと、現在巷間に伝わるものはこのように事実が捻じ曲げられている。
これは神沢杜口の大いなるミステイクが世にはびこってしまっていることを物語っている。
又、「小堀遠州」のものは間違いだと神沢杜口は「翁草」で断定している。
香木や香道の研究家に於いてもこの説を踏襲しているため、間違いが闊歩している。

その間違いを正すにはどうしたらよいのか。ただただその鬱憤をブログに取り上げるしかない。嗚呼。      

コメント
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