もう一月ほど前、奥方が「高校時代数学が得意だった」と言い出した。
そこで頭の体操とボケ防止のために「数独」をWEBで見つけてやらせてみた。
ところがすっかりはまってしまい、自分でタブレットから問題を見つけ出しては喜々としてやっている。
78歳の婆ちゃんがやる気を起こしてチャレンジしている。隣の部屋がコトリとも音がしないときには数独の真っ最中である。
肩がこったとか、運動不足になったとか言いながら、天気が良い日は買い物に出かけて憂さ晴らしをしている。
たて9×横9の81ますを作るのが大変だから原稿を作ってくれと言う。ご要望に応えて原稿を作り、数枚コピーする。
これでしばらくは安心とか言いながらご満悦である。78婆ちゃんのやることか?と思うが、焚きつけたのは私だった。
私はといえば、ちょっと腰が引けている。読書が性に合っている。
名前が思い出せません 根っこのくぼみに種が落ちたのでしょう。根が張れませんからそのうちに枯れるのでは・・・
桜の大木が切り倒され、根元から新しい芽立ちです。 こちらは健気に根元に花をつけていました。上部はもう葉桜です。
加藤清正公は熊本半国19万4,916石の朱印状を拝領した天正16年(1588)の閏5月である。
6月29日「妻子(室・山崎氏、嫡男虎熊)を召し連れ」て熊本に入国、27歳の若々しい国主が誕生した。
小西行長の失脚により肥後一国と豊後三郡を拝領したのが慶長6年(1601)2月の頃である。40歳であった。
没年は慶長16年(1611)3月、花畑邸で倒れられたとあるが50歳という若さである。
つまり50年の人生の内の23年間を熊本の国主として在任したことになる。
最近東京大学史料編纂所発行の「加藤清正の居所と行動」という論考を読んでいるが、ふと清正はどのくらいの期間熊本で過ごしたのかが気になってきた。
23年間の内、文禄・慶長の役に出陣する事7年ほどに及んでいる。慶長3年12月に博多に上陸しているがその後すぐに上洛している。
熊本にもわずかながらでも立ち寄ったことであろう。
翌年4年は石田三成と一戦に及び、4月には家康養女(水野忠重女)を娶って、5月頃に京・大阪を離れて熊本に帰った。慶長5年には2月に在京していることが判る。
5月頃から在熊、石垣原の戦いで細川勢を援軍、これが一応の結末が付くと宇土城を落城させ、柳川丈攻撃に向かっている。
11月に入ると島津攻めの為に出陣、攻撃取りやめとなり熊本へ帰着。年末には上坂している。慶長6年に肥後一國を拝領して5月に帰国。
この頃から熊本城の築城(茶臼山)に本格的にかかったものと思われる。
その間も二条城普請、江戸城普請、駿府城普請に係わっており熊本に身を置く暇もない。
慶長12年(1607)に熊本城が一応の完成を見たとされ、これに伴い熊本の呼称が始まった。以降亡くなる慶長16年まで、清正の行動は多忙である。晩年娘・八十姫が徳川頼宣に嫁ぐという慶事があった。
名護屋城の築城に出かけ、最晩年の16年には頼宣の後見役として二条城会見に同席した。5月に熊本に帰り、6月には死去することになる。
熊本在任の23年間の内、7年ほどを朝鮮の戦場で過ごしているから、日本に在したのは16年、平均3ヶ月熊本在住としても48ヶ月約4年ほどということになる。
その間日本の名城とされる熊本城を築城し、土木の神様と言われるように河川の改修を仕、干拓をなし田地田畑の整備をなして、411年を経過した今日でも「せいしょこさん(清正公様)」と呼ばれて熊本人の崇敬を受けている。
まさに身を賭しての活躍であったことを、この資料をして再確認した。
併せて、福田正秀氏の「加藤清正妻子の研究」や、熊本城築城の歴史を重ね合わせると、清正の尋常ならざる人物像が見えてくる。