津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小銃携帯の自衛隊門衛

2022-04-09 18:02:19 | 徒然

 多分新年度になってからだと思うが、健軍自衛隊の正門・裏門の警備隊員が小銃を携帯していることに気付いた。
当然弾は装填されないそうだから、別に危険という訳ではないが、今までは見かけたことがなくご時世故であろうか。
今朝は「士官候補生入隊式」(そら覚えで間違っているかもしれない)の看板が、西部方面総監部の正門に立てられていた。
二三日前には、どこかの右翼の団体であろう街宣車が自衛隊の周りを走っていた。
「軍人よ・・」と呼びかけ「原爆を所有せよ」とがなり立てている。
この御仁たちの仮想的御国は「ロシア」と「北朝鮮」らしいが、両国とも原爆を所有しているから、日本も持たねばならないという。

最近「核共有」という話が出ている。「議論自体をタブー視してはならない」とする意見がある。
ウクライナへのロシアの節操亡き侵略を受けての話だろう。抑止力としての「核」の使用が無きにしも非ずの現状を見ると、為政者たちの腹の底がじわりと見えてくる。
自民党も参院選挙前には、あまりこういう輩の跋扈や、「核共有」論争などは避けて通りたいところだろう。
国の守りがどうあるべきかを考える時期なのかもしれない。

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■丹州三家物語

2022-04-09 11:15:47 | オークション

      0027840 丹州三家物語 史籍集覽 近藤瓶城・刊 明治16年頃 一色 細川 京極 室町時代

               

 この「丹州三家物語」がヤフオクに出品されていることは承知していた。
私はこの「史蹟集覧」ではないが所持しているから、他人気に眺めていたが、あと一日となって28人の方が競り合い10,500円の高値になった。
丹州三家とは一色・細川・京極氏のことだが、内容は信用に値しない部分がある。
一色氏に嫁いだ忠興の妹・伊也に関する記述などは、どうしてこうなるのかと思うくらいである。
それを踏まえて応札をお願いしたい。「史蹟集覧」も以前は随分安価だったが、現在はこんなものかと驚いている。

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■石塘の築造 御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控-1

2022-04-09 06:53:55 | 史料

    先に熊本史談会のM様から、かって加藤清正が築いた石塘堰についての史料のコピーを頂戴した。
私程の年齢のものでも、合流していた白川と坪井川を人工的に分流して石塘という築堤があることは承知しているが、下流の水利の為に施された石塘堰
の詳細を知る人は多くは無かろう。
その石塘の延長は「熊本区堺ヨリ四丁三十八間ヲ称ス」と群村誌に見えるから、506mほどあり、またこれらの堰の築造も伴い大変な難工事であったろうこ
とは、想像に難くない。
慶長期につくられ、細川家でも手が加えられ管理も行き届いていたようだが、大正半ばに至り度重なる水害の影響で、近代的な堰に作り替えられた。

先にご紹介した「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」の冒頭部分に、その建設がいかに大変であったかが記されている。

          五丁目からだい村までのあひたの        細工町五丁目から蓮台寺村までの間の
          石ともは 御先〃代さまのときにおし      石塘は御先々様(加藤清正)の刻にお仕立
          たて尓なりました               になりました
          このしおきわたいのしごとではなかっ      この仕置は容易な仕事ではなかった
          たい まづ水を東と西にひきわけ        まず水を東(白川)と西(坪井川)に引き分け
          つだんけんぎょうさんのこつでみ        たのだから仰山(大変)な事で御座
          いましたたい。                いました。
          くいはなんへんうったことやらしごと      杭は何遍打った事やら、仕事は
          は石くどんもいのちかけへでありまし      石工殿も命がけでありました
          たが おどんたちもつらかったば        が、私たちも辛かった
          な、西に川の方のそこ尓まついた        西に川の方の底に松板
          をうづめたときやいうにいわれん        を埋めた時は言うに言われない
          きつかったこつあ今にもわすれん        きつさであった事は今でも忘れません
          たい

         

          大正期、解体前の石塘堰の略図  作成・津々堂                    明治44年の地図

 堰というのは横板を落とすものをいい、双(四双・五双)は立方向に開閉する水門を数の分連ねている。
三双の下流25間(約48m)、他、三の堰の下流の川底には石をはり、川底がえぐられるのを防ぐ工夫がなされているという。
其の他/または×(網掛)表示したことは石積みされた場所である。

水圧の堰の板を外すについては命がけで、命綱を体に括り付けて取り外したりして、けが人も出たと記録に残されている。
清正公のアイディアの凄さが感じられる。惜しむらくは善蔵さんが、この難工事が慶長のいつの頃であったのかを語ってくれていない事である。

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