関ケ原の役後、細川家が豊前国を拝領したのは慶長5年の11月である。忠興らは12月7・8日の頃丹後を出発し26日に豊前に入国した。
中津城に入り御規式が執り行われた。
慶長6年に入ると7月7日、関ケ原や石垣原の戦いで活躍した有力家臣を招き宴を設け、無役の知行や長岡姓・御名の授与等がなされた。
無役の知行 細川玄蕃5,000石 松井康之5,000石 有吉平吉3,000石(5,000石とも) 加賀山庄右衛門2,000石
牧新五2,000石 沢村才八1,000石
名改被下衆 松井新太郎→長岡式部少輔 有吉四郎右衛門→長岡武蔵守
米田与七郎→長岡監物 諱拝領・興季 沼田小兵衛→沼田勘解由左衛門
篠山五右衛門→飯河豊前 篠山与四郎→長岡肥後 加々山少右衛門→加賀山隼人 諱拝領・興良
牧新五→牧左馬允 諱拝領・興相
大馬印御免 細川玄蕃→五ハゞ蛇の目 松井佐渡→同・篠丸 与十郎→同・黒餅 長岡武蔵→同・四ッ目結
慶長六年(1601)三月十七日、忠興は上坂して大坂御館に入った。十九日家康にお目見、その折、文禄四年ある事件に関し家康から黄金百枚を借用したことに対し、返済すべく持参したら「何とて御取返あるへきや」との仰せがあり、「拝領」と言うことになったと綿考輯録は記録している。
ちなみに黄金とは「大判」の事であり、小判10両に匹敵する。黄金百枚は1,000両ということになる。
そして、現在も永青文庫に残る「利休の尻膨(しりふくら)の茶入」を拝領している。これは忠興が「國にかへても御望」と戯れに申し上げたことを覚えて居られての秀忠の御意であったとされる。
それぞれ、関ケ原での忠興の勲功に対する徳川家の評価がいかに大なるものであったかを表している。
文禄四年の事件とは以下の如くであった。
文禄四年(1595)関白秀次の叛逆のことがあって、忠興女・長の婿前野出羽守長重とその父但馬守長康は切腹を命じられた。
一方忠興に対しても「秀次に一味して黄金百枚を受け取った」という、三成の讒言により切腹の事が取り沙汰された。
忠興は死を覚悟し、三成を討つべしといきり立つが、松井康之が幽齋公へ孝行の為にとこれをとどめ、もしその沙汰がきたれば自ら介錯を申し上げるとし、またガラシャや御子を生害させ屋敷に火をつけることを米田助右衛門に命じている。
忠興は松井康之をもって秀吉に対し縷々弁明を為し、「まず黄金百枚を返納し娘(前野長重室・長)を差し出せ」との仰せ出であった。忠興は長の連座を怖れてすでに剃髪させており難をのがれた。いろいろ算段するが急の事とて手配がままならない中、康之は徳川家康の許に参上借用を願い出る。風邪で臥せっていた家康は、康之の急なる来訪にも起き出でて応接、話を聞いてすぐさま鎧櫃に入れおいた黄金を取り出して貸し与えた。
「外様親藩」ともいわれる細川家、徳川家の配慮は多大であり、一方これに報いる姿勢は幕末の細川家の趨勢にも現れている様に感じられる。