津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■肥後の国の形、かっての熊本風景「熊本城」

2022-08-01 06:21:31 | 歴史

 現況、熊本城の着工時期は慶長三年、完成は慶長十二年と解されている。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」に「慶長三年に建て方」と記されており、森山恒雄先生は「入門江戸時代の熊本」の「隈本から熊本城へ」の論考に於いて同資料をその証拠として引用して居られる。
完成の慶長十二年については、乃美文書の「隈本之文字之事、今度御城出来二付御改候而、熊本ト御書成られ候間(以下略)」によって研究者の何方もが異を唱えらえることはない。
そして今日では「宇土城の天守を解体移設したものが宇土櫓」だという従来の考え方は完全に否定されている。
「宇土軍記」では、宇土城落城後に天守は解体されたとするが、元熊本大学・建築学科教授の北野隆氏はこの時期を否定され、各種の絵図を検討され、その完成年は慶長十五年から元和四年の間だとされる。
さてそうすると宇土櫓はいつどのような形で作られたのだろうか。
私は清正公存命の時期には、「天守及び宇土櫓」は存在していたのではないかと考える。
隈本古城を鞍掛坂をまたぐ形で、まるで曳家をしたのではないかと思わせる「善蔵ゟ聞覺控」の記述を信じたい。
一の天守・二の天守とは全くデザインを異にするこの建物は、まさに隈本城の天守であったと思いたい。
熊本城の慶長十二年を完成年とするまさにその時代の熊本城の姿は、天守と現在宇土櫓と呼称する建物が二つ聳えていたものと考える。
もう一つ「てんそう(伝奏か?)屋敷」が建てられていたともいう。

二の天守(旧宇土城天守)の移築完成までには数年を要することになる。こういう風景を以て完成とするのには大いなる違和感が残る。

 

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