津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■一応戦中派の思い

2022-08-09 09:37:49 | 徒然

                                                                               

 奥方が少し目が出たカラ芋(さつま芋)を小瓶に入れて水栽培とした。
そろそろ一週間、枝ぶりよく葉が茂ってきたが、大きく成った枝がそろそろ頭をゆらゆらさせているので根元から切ってみた。
又良い姿になったので、あと一週間ほどは大丈夫だろう。
切った枝をゴミ箱に入れようとしたら、奥方が「野菜サラダに入れようか」と冗談を言う。
私がよく、小さい頃食糧難でカラ芋の葉や茎を油いためにして食べた、という話をよくしていたのを受けてのことである。
一瞬、今なら食べることが出来るだろうかと考えた。

 朝からTVをみていると、いろんな名前も知らぬようなレトルト食品などが良く紹介されている。
共働きの奥さんなどは、これを大いに活用して毎晩食卓はレストラン状態といった風情であろう。
私は一応戦中派、熊本大空襲も経験して防空壕にも入った。防空ごうと隣の御宅には「焼夷弾」の油布か何かが落ちてきてボヤ騒ぎがあったのだそうな。
母は洗濯中に飛行機の機銃掃射を受けた。たらいを被ったというが、当たらなかったからよいものの何の役にも立たないだろう。
ウクライナの理不尽で悲惨な状況や、中国の昨今の軍事行動などを見るにつけ、なんだか不穏な空気感がある。
何事につけ輸入に頼る日本は、モノの値段は高騰するものの、TVの世界は能天気で食べ物とお笑いばかり、そんなことは別世界だよと言いたげである。
世界各地で飢餓が心配される中、こんな風潮で良いのかと心配になる。
いみじくも奥方の冗談で、幼い頃の食糧事情を想い、複雑な気持ちになった。
長崎・広島の原爆投下、そして終戦記念日をむかえるにあたって、改めて平和のありがたさをかみしめて居る。

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■留守居組合

2022-08-09 06:37:26 | 先祖附


                                                      

 右側に立っている人物が高祖父・上田久兵衛だが、この図は京都の各藩留守居・公用人が一堂に集まっての宴会を描いたものだという。
一昨日図書館から借りてきた「熊本藩からみた日本近世ー比較藩研究の提起ー」を読んでいたら、第三部第二章に「肥後藩京都留守居の役割返還ー買物会所の業務から国事周旋活動へー」という項があった。
もしやと思ったら、高祖父・上田久兵衛の事にもふれられていた。
その中に「留守居組合」というものが紹介されていて、江戸・大阪・京都および「京都丸山会」などで「留守居組合」の存在が一覧表で示されている。
肥後藩はそのすべてに参加している。熊本藩の事ではないが、江戸などに於いてはこの組合に参加すると、大いに物入りで渋い顔をする藩も多かったと聞く。
京都留守居はかっては買い物奉行のようなことも務めていたかもしれない。
しかし久兵衛の時代は、まさに公武合体に関係する大名や公家或いは幕府要人たちを周旋することが、主な仕事であったようだ。
情報交換などで裸踊りなどして場を賑合せていたのだろう。彼の日記(幕末京都の政局と朝廷)を読むと、二日酔いで頭が上がらない様子が見て取れる。
この論考の著者は、上田久兵衛は茶屋遊びのような組合にはいささか批判的だったようだとされているが、上の絵からすると、これは少々羽目を外しているようだ。
その体格から肥後の西郷と揶揄されたというが、わたしはそのDNAは受け継いでおらず、時々酔っぱらって前後不覚になる事は受け継いでいるかもしれない。(若い頃の話だが・・)
一時期、公武合体の機運は大いに盛り上がり、久兵衛も藩の意向を受けて大いに活躍したが、上層部の見解が突然変更されると、久兵衛は京都の喧騒から逃れる様に帰郷した。華やかな留守居という立場を離れた無念さも少々はあったのかもしれないが、その心中をうかがい知る事は出来ない。

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