津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■司馬遼太郎的頭髪

2022-08-05 10:03:19 | 徒然

 熊本では先月の21日に初めて4,240人のコロナ感染者が4,000人を越した。以降これを含めて8回が4,000人越えである。
こうなってくるととても外出をする気にはならない。暑さも応えるからクーラーを効かせて蟄居とあいなる。
髪が伸びてきたので床屋に行こうと思うが、先にも書いたように行きつけの床屋さんが店を閉じた。
新しい店を探さなければならないが、これも鬱陶しい。
それ故ほったらかし状態だが、このままだと行く末は「司馬遼太郎」状態となる。
あと二週間後は熊本史談会の例会がある。それまで伸ばしっぱなしにしておくか・・・
そう考えて居ると、髭をそるのさえ面倒くさくなってくるが、こちらはさすがに顔がもぞもぞして、そうそうほったらかしには出来ない。

 肥後狂句に「うう(大)頭 井戸を覗いてかやり(返り)込み」とあるが、私はその「ううあたま」の方だから、髪の毛が伸びると本当に様にならない。
実は今度の史談会では講師を勤めなければならない。その前には、コロナの増加や極暑の中であってもさっぱりとさせなければならない。

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■石塘と坪井川開削

2022-08-05 06:40:26 | 歴史

 考えてみると、熊本のことに就いて本当に知らないことが多すぎることを実感している。

御大工棟梁善蔵もその過酷な工事に関わったという「東と西の川を分けた」いわゆる石塘の建設工事は、慶長15・16年頃に行われたと、石塘堰樋土地改良区の「400年の歴史を刻む石塘堰樋-記念誌」は記している。
坪井川に設けられた「石塘堰」は時代が下って細川忠利の時代に、実弟・松井寄之を奉行として建設されたとするが、はっきりした年は記されていない。

加藤清正による各地の利水・治水の工事のほとんどは慶長13年ころの普請だという。
熊本城が慶長12年に完成すると、惣構の防御を確実なものとするため、清正は坪井川の流れを「万歳橋」の下流部から妙解寺前(当時は存在しない)を流れる井芹川まで掘削してつないだ。
誠に都合の良い話だが、慶長11年藤崎宮の演能の順番について本座(喜多流)と新座(金春流)が争いを興し、清正の提案を拒否したことからその罰として新坪井川の開削が命じられたのだという。
12年頃には坪井川と井芹川は合流した。その下流部が細工町五丁目で白川と合流していたという訳である。
この二つの川の合流の様子は「茶臼山ト隈本之絵図」に於いては表現されていない。この絵図が描かれた時代より後の事であろうか。
白川の大蛇行とか、この井芹川(坪井川)の合流とか、はたしてこれが自然発生的に出来たのか大いに疑問がある。

この坪井川の開削によって、一面に繋がっていた古町地区と新町地区は分断された。
高麗門の建設や、新三丁目御門や橋の建設は新しい川の新出に伴うものであったろう。
熊本城や惣構も完成し、各地の河川の整備も整うと、清正が統治初頭の54万石の領知は、新たな検地により実高75万石となったことが確認された。
徳川家康の養女・清浄院を継室に迎え、慶長14年9歳の娘・やそ姫(遙林院)は紀州徳川家の徳川頼宣との婚約が調った(婚儀=元和3年)
これらの事を寿ぐように清正は慶長15年「八幡のお国」を熊本に迎え塩屋町の勢屯で興行を行わせている。
かつての屋敷があった古城・隈本城の大手前の広場である。清正もそぞろやそ姫の手を引き、清浄院らと共に特別の桟敷席でこれを見物した事であろう。

清正はその翌年16年の3月家康と豊臣秀頼との二条城会見などを斡旋した。
今日では徳川の家臣としての行動であったとされ、徳川と豊臣の和解のためのキーマンとして家康の大きな期待があったと目されている。
帰国の途中に発病し、帰国後本丸御殿で亡くなったとされる。6月24日没享年50歳。
一大の英傑は熊本の各地に多くの業績を記し、熊本人の心に今でも深い敬愛の心を育んだ。

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