津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■三の丸ニ坪井川と申川御座候

2022-08-27 17:26:56 | 徒然

 数か月前熊本史談会では「熊本城に三の丸はあったか、なかったか」という題で論議したことがある。
古い絵図を見ると「三の丸」の書き込みはあるが、時代と共にあちこちに動き回り、細川時代のある時期になると書き込みが途絶えている。
処が現代に至り、三の丸駐車場なる公共の施設が出来るに及んで、目の前に二の丸御館があったにもかかわらず、ここは三の丸なのかという素朴な疑問から発した疑問であった。

 寛永十七年にいたり、天草島原の乱により頓挫していた熊本城の修復その他が動き出している。
その中に城の内堀の役目を担う、坪井川の浚渫が始まった。関係文書では「三の丸ニ坪井川と申す河御座候」とあるから、これが又混乱に拍車をかけた。
八月十六日、島原の乱後嶋原藩主として移封された高力忠房に対して宛てた書状に、これらの事情が記されている。

                  (前略)
   一、罷有候熊本三ノ丸ニ坪井川と申川御座候、所々ニふかき所も御座候、大方ハひざぶしたけも無之所のミにて、
     水出候度々ニすな上り候へ共、三の丸にて候故、其すなを用ニ仕候事も延慮仕候間、得 御意候へハ、何時も
     土取仕可申之由、又、河尻ゟ熊本へはゞ二間計之壹尺ふかさ御座候井手御座候、是を高瀬舟を通シ度候へ共、
     はゝせはく候て、船ノ引ちかひ成不申候間、是又はゞをひろけ、舟ゆきゝ仕候様ニ仕度候よし申上候へハ、何
     も可申付よし奉書被下、か様之まんそく仕候儀無御座候、殊外右之通申付候ヘハ、自由ニ罷成候、忝候事、
                  (後略)
          八月十六日

          高力攝津守様
               人々御中

 この高力攝津守は、乱後の島原の復興に実績を上げたため、將軍家光の信頼を得、長崎の警備や九州における外様大名の監視も任せたといわれ、このような報告をしたものと思われる。

 ここにある、「三の丸ニ坪井川と申す川御座候」という文言は、三の丸の定義が不確かであるためどこを浚渫したのかはっきりしない。一つ考えられるのは「内坪井地区」である。土居や水堀に囲まれたこの地区は熊本城の東側のがけ下に広がる地域だが、ここにはがけ下に坪井川が流れていた。但しこの地域を「三の丸」とした古地図に出合わないので、単なる妄想の話となっている。

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■消えてはいなかった光尚再婚の話ー3

2022-08-27 09:08:16 | 歴史

 年が変わった寛永十六年正月十六日の小笠原忠知宛の書状に於いては、年末の忠知への申し入れに少々の反応があったことが伺える。
小笠原忠真の動きが見えてきたようだ。(大日本近世史料‐細川家史料25 5178)

   (前略)、肥後縁邊之儀、右近殿へ御尋候處、右近殿ゟの御狀持せ被下候、か様ニ御座候得は、安堵仕候、我等計ニ
   此儀御申させ候へは、事之外首尾違申候條、重而左様ニ候ハゝ、成次第ニ仕より外は御座有間敷存候故、餘不審ニ存、
   くど/\御尋申候ツる、御六ヶ敷御座候ハんニ、具右近殿へ被仰入、忝存候、又、大炊殿ハ正月二日中風之由承、無
   御心元儀と存候、尚期後音候、恐惶謹言
         正月十六日

         小壹岐様
            御報

     尚々、肥後縁邊之儀、我等罷下儀間無御座候間、彌御直談可有之由申來候、方々ゟ肥後へ縁邊之儀被申候由ニ候、
     わきを留可申様ハ無御座コトにて候間、何と 上意御座候ハんかと、難事はかりに候、以上

 この間、小笠原忠真に対しては忠利の書状は数件見当たるが、この婚姻については一切直接のやり取りはない。
すべて忠知を通して話が進められていることになる。上記書状に於いても忠真(右近)の御狀は直接はもたらされてはおらず、やはり忠知を通していることが判る。

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■稲葉彦六宛忠興書状

2022-08-27 07:05:34 | オークション

慶應◆本物保証 安土桃山~江戸前期の大名茶人【細川三斎(忠興)】真筆 豊後国臼杵藩主「稲葉信通」宛の手紙 書状断簡 消息文 掛軸 読下し付           

                                 

 表題にある如く読み下し文が付けられている。

                                                 尚々森美作殿へ明日得意
                 御礼申入候 以上
               御捻令拝見候 被入御精早速
               森美作殿へ先刻之趣被仰
               入 御返事見せ被下候 廿二日之
               朝可存御出之由本望此事ニ候
               必貴様も御同道奉待候 期
               面上候 恐々謹言
                 八月廿日     花押
                         細越中
                  稲彦六様
                     御返報

 稲彦六とは杵築藩56,000石初代藩主・稲葉貞通のことである。孫の一通夫人が忠興の三女・多羅である。
貞通は慶長8年(1603)9月に57歳で死去している。
文中の森美作とは、信長の小姓・森蘭丸の弟で、美作国津山藩の初代藩主・森忠政だと思われるが、前任地の信濃川中嶋藩から津山に移封になったのは、慶長8年だとされる。
そうすると、年代的接点は慶長8年のわずかの時期である。忠興と森忠政は大変仲が良かったと伝わる。
津山城建設に当たっては伝承があり、小倉城を忠政配下の者が海上より偵察していることを知った忠興が、城内に招き入れて見せたと伝わる。完成に当たっては、九曜の紋いりの南蛮鐘が祝いとして贈られて今でも現存する。
この書状の事柄はいったい何事であったろうか。
筆跡からすると祐筆によるものであろう。

 


            

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