津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■WiFiのトラブル発生

2022-08-15 09:06:33 | 徒然

 朝っぱらからWiFiのトラブルです。しばらくWiFiの電源を落としたり復帰に向けて頑張りましたが現況復帰しません。
ルーターなどをゴミをかぶらないようにと、段ボールの覆いをしていましたから熱による可能性もあります。
しばらく様子を見ることにしました。
そこで携帯のデザリングを利用してWiFi接続し急場をしのいでいます。
しばらく利用していませんでしたが、20日の熊本史談会では会場で資料としてインターネット接続が必要となりましたから、予行演習みたいなこととなりましたが、これはさすがに傘寿爺さんでも簡単に接続が出来ました。
少々トラブル気味の無線マウスも買い替え準備万端ですが、肝腎の講演内容のチェックがまだ完了していません。
とんでもない史料をテーマにしたなと、少々公開気味です。・・・頑張りましょう・・・

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■北野教授の「二の天守の築年説」にあがらう

2022-08-15 06:40:47 | 歴史

 随分長い間、熊本城の着工年は慶長六年とされてきた。これは「続撰清正記」の記述に準拠している。
しかし、五年の暮れに天守に黒田如水を迎えるための清正の種々の指示書があり、また四年銘の瓦が出土するに及び、今日では三年着工説が定着しつつある。
これについては「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」においては、「慶長三年建て方」とはっきり記されているが、研究者の先生方はこの資料が一級資料でないことから、この資料の内容を横目にしながら三年着工説を唱えて居られる。
ただお一人、森山恒雄教授が善蔵の聞覺控の文章を引用して三年だと断定して居られることは画期的である。
完成は十二年説が定説であるが、なにを以て完成としたのかははきとしない。
たとえば、小天守は北野隆教授(熊大・建築学)の2004年2月の日本建築学会計画系論文集における、「加藤忠広による熊本城の改修と熊本城小天守について」によると、山口県文書館所蔵の「肥後熊本城略図」から、この図面に小天守の記載がないことから、この図面の成立年慶長17年6月以降であるとされている。
そしてこれは、宇土城の天守を解体して再利用した物であり、これは「宇土櫓」だとする今日までの大方の理解はあり得ないと断定されている。
一方、清正の攻撃による宇土城の落城後、天守は解体され熊本に運ばれたとする宇土軍記の記述がある。
先の善蔵がこれに当たり、解体材を車で運んだと「聞覺控」ははっきり記している。
「宇土軍記」は「後熊本之小天守と罷成候由」と記し「清正代ニ熊本之城ニ被為引小天守と名付被建置候(中略)宇土之城割レ申時分ニ引ケ候事ニてハ無之、宇土之城落城之翌年ニ熊本今之城ヲ取被立候節ニ被引たると見へたり」とある。
そこで、慶長17年6月以降だとする説と、宇土城落城翌年の解体これを利用して小天守建設したという説に大きな齟齬が出てくる。
北野教授は、宇土軍記の記述を否定され、筆者の勘違いだとされる。森本一瑞や渡辺周斉なども同様の記述を残しているが、これも宇土軍記を引用しているとしており、落城直後の解体説は完全否定である。

 はたしてそうであろうか。「善蔵ゟ聞覺控」ははっきり落城後天守と門を解体して車で運んだとしている。
門は並河志摩守がもらい受けて、自ら創建した「禅定寺」の外門としたという事実がある。「剃刀請(そりうけ)」という十字架をのせた鬼瓦が乗せられたと言う。小西行長が切支丹である事を示す図さえ残る。

 私は宇土城天守は一度「隈本城」に建設されたのではないかと考える。
「善蔵ゟ聞覺控」に於いては、のちに男山・女山の谷合(鞍掛坂)を越してこれを運んだ様子が記されている。
文章のニュアンスは「曳家」だと思われる。これが熊本城の小天守であろうと理解する。それが北野教授ご指摘の慶長17年6月以降ということではないのか?

 北野教授の論文は2004年の事だが、「御大工善蔵ゟ聞覺控」が世に出たのは1958年であり46年経過しているから、教授もこの存在はご承知の事であったろう。
悲しいかな善蔵ゟ聞覺控は一級資料とは言い難いかもしれないが、その内容は信頼に足る準一級資料であると私は理解している。
北野教授の論文が発表されてからすでに18年が経過しているが、まだお考えは変わらないのだろうか。
 

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