ご厚誼いただいている小倉在住で「小倉藩葡萄酒研究会」の小川研次さまには、過去に於いても細川家にかかわる数々の論考をお寄せいただいた。
この度は【森鴎外『阿部一族』の一考察】をご紹介申し上げる。光尚の側近であった林外記は、光尚の死後、佐藤傳三郎一族に屋敷に踏み込まれて死亡している。
この原因については私も色々調べているがよく判らない、不可解な事件である。
林家においては一人妻女が隣家の医師・明石某の屋敷に逃げ込んで助かったが、この明石氏を含めての考察である。
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森鴎外『阿部一族』の一考察 小川研次
大正2年(1913)に発表された『阿部一族』だが、主人公阿部弥一右衛門の殉死と一族の上意討ちによる滅
亡を描いた歴史短編小説である。
弥一右衛門の隣人栖本又七郎の証言に基づいて書かれたという『阿部茶事談』(以下茶事談)を底本としている。
現在、『茶事談』は史実と異なっていることは知られている。そもそも『茶事談』成立の意図はなんだろう。
細川家が史実を歪曲してまでも成立させなければならなかった理由である。それは、当時の時代を反映した事
件簿と考えられる。事件は寛永20年(1643)2月17日の妙解院(細川忠利)三回忌の折に起きる。
発端は弥一右衛門嫡子権兵衛が、焼香の際に髻を切り、位牌の前に置いたことにより、捕縛されたのである。
このわずか四日後に権兵衛の四人の弟とその家族全員は上意討ちにより殺害、そして権兵衛は縛首となった事
件である。さて、『茶事談』は、この事件を正当化するために書かれたとみる。
細川家において、既に阿部一族滅亡のシナリオができていたと思える。妙解院に殉じた弥一右衛門は己の因縁
を断ち切る覚悟と子らへの跡式相続を願うものであったのではなかろうか。それは阿部家の安泰を意味する。
しかし、それは細川家にとって許されることではなかった。では、その因縁とは何であろう。
『茶事談』の登場人物である阿部弥一右衛門と大目付林外記の共通点であるが、殉死に遅れた弥一右衛門と阿
部一族滅亡を画作した外記も追腹をしないという悪評の的になっている。さらに二人を相反させている。実に
巧妙に作為的である。また、この二人の共通点は藩主没後に起きている事件である。妙解院の場合は阿部一族
上意討ち、真源院(光尚)は外記父子殺害(鴎外本では不記載)である。それは各々に藩主の擁護という意志が働い
ていたことに他ならない。
『茶事談』は弥一右衛門殉死に始まり、一族上意討ち、そして外記殺害で幕を閉じるのである。
江戸幕府が編修した『寛政重修諸家譜』に事件の真相に迫る記録が記されている。
それは「細川肥後守家臣林外記某が妻」であり、その妻の母は「豊臣家の臣明石掃部助全登が女」であったこ
とだ。敬虔なキリシタンであった明石掃部の孫が外記の妻であり、その母は掃部の娘レジイナであったのであ
る。また、「弥一右衛門初ハ明石猪之助と云」(「綿考輯録・巻五十二」)とあり、明石姓であった。
慶長20年(1615)の大阪夏の陣で敗北した豊臣勢であったヨハネ明石掃部と男子パウロ内記の生存説がある。
事実、内記は生き延びていた。(「イエズス会日本年報」)
もし、内記が弥一右衛門であったならば、妹レジイナが幼子と共に兄を頼って豊前国に入ったと考えられる。
推定だが、内記は宇佐郡山村の惣庄屋与右衛門の養子となる。もちろん、中津にいた忠利の計らいである。
寛永9年(1632)、肥後国へ転封となった忠利が農民身分であった弥一右衛門を侍身分としてまでも連れてたかっ
たことの理由はその出自もあるがキリシタンであったことだろう。
忠利は母ガラシャの追悼ミサを行なっていた。寛永13年(1636)に側近二十七名がキリシタンから仏教徒に改宗
したことが物語っている。(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』)
しかし、忠利は阿部一族を守った。当然、嫡子光尚にも申し送りをしていたと思われる。
明石一族という因縁を背負った弥一右衛門は忠利に殉じた。その二年後の惨劇を予想できただろうか。また、
権兵衛が髻を切るという行動は一族に忍び寄る危機を回避するために嫡子としての侍身分を返上し、宇佐郡山
村で帰農する覚悟であったのではなかろうか。
忠利の義兄小笠原忠真の父秀政と兄忠脩は大阪夏の陣で討死している。忠真自身も瀕死の重症であった。
徳川家康の鬼孫と言われた忠真は決して明石一族を許すことはできなかった。
明石一族は敵将一族であり、敵討ちの相手であったのだ。忠利が生きている間は手出しをしなかったが、忠真
は忠興の許しを得て細川家により上意討ちを果たしたのである。
光尚は阿部一族を守ろうとしたが、祖父忠興の存在は絶対であった。
「明石一族」である林外記を討たないとの条件があったかもしれない。
阿部一族上意討ちの時、光尚は松野右京邸にいた。右京の父は大友宗麟嫡男義統である。
「施薬院全宗養女伊藤甲斐守娘、義統妻少納言ノ局ナリ」(「大友家文書録四」)その子が右京(正照)である。
右京は細川家家臣であった大友宗麟の三男親盛の養子となる。特に親盛は加賀山隼人亡き後、豊前国のキリシ
タン柱石と目されていた。当然、右京もキリシタンであった。(共に寛永13年転宗)
実は、阿部一族上意討ちの同年一月に親盛は没している。その後の上意討ちを考えると親盛の何らかの力が作
用していたのかも知れない。光尚が右京邸に身を寄せていたのは、恐怖心と懺悔の念からだろうか。
その六年後の慶安2年(1649)12月、光尚は三十一歳の若さで急逝する。嫡子六丸(綱利)はわずか七歳であったた
めに、領地返上の遺言を遺していた。しかし、家老らの働きにより、翌年の四月に幕府は相続を認めた。
その条件は小笠原忠真の監督だった。細川家存続の黒幕となった忠真の宿願は明白である。
六月二十八日、忠真と幕府目付が肥後国に入る。細川家家臣佐藤伝三郎は目付にお供した。
そして三日後の七月一日、伝三郎は林外記邸に討ち入る。(『熊本藩年稿』) 外記と二人の息子は殺害されたが、
妻は隣人の医師明石玄碩邸に逃れ、八月八日には熊本を去ったとある。「(細川家日帳)」
ここで明石一族は全滅となったのである。伝三郎は当然の如く無罪放免であった。
キリシタンと徳川家の宿敵という運命を背負った明石一族は歴史の闇に葬られたのである。
しかし、事件から三百六十年後、鴎外はいみじくも『阿部茶事談』というパンドラの箱を開けたのである。
(了)