津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■国宝「蒙古襲来絵詞」の新安住地

2022-08-24 09:32:28 | 新聞

  「蒙古襲来絵詞」は、私たち熊本史談会会員にとっては大変身近にある。
それというのも現在宮内庁所管の「国宝・蒙古襲来絵詞」の元の所有者・大矢野家の現当主が熊本史談会の副会長であるからだ。
大矢野家には「白描図」が残されており、二年毎くらいに二本の長い絵巻物をお持ちいただき展示していただいている。
「白描図」には「国宝図」には見られない欠落図があったりして、大変興味深い。
今般、三の丸尚蔵館の管理と運営が、2023年10月1日から「国立文化財機構」に移管されるという報道があった。毎日新聞の記事を引用させていただく。
建物も整備され、「蒙古襲来絵詞」をはじめ、皇室に係わる収蔵品が新たな安住の地をえる。
そうなると公開の機会も増えることだろう。多くの皆様に見ていただきたいものだ。
我が史談会でも来年あたりには又展観の催しが企画されるのではないか。大いに楽しみではある。


 皇居・三の丸尚蔵館、宮内庁から国立文化財機構に移管 拡充工事中   配信

建て替え後の三の丸尚蔵館のイメージ図=宮内庁提供
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■消えてはいなかった光尚再婚の話

2022-08-24 06:36:01 | 先祖附

 かって光尚の再婚話・・書状-4をかいた。八條宮家の御息女と、光尚生母の実家・豊前小笠原家息女が同時に候補にあがり忠利が苦悩していたが、天草島原の乱の勃発により立ち消えになったと思っていた。
処が寛永十五年九月十五日の坂井忠勝宛書状(4859)を見ると、どうやらこの話は生きていた。

   一筆令啓上候、仍早晩哉、肥後守(光尚)縁邊之儀、小笠原(忠真)殿息女と申合候ハゝ、只今右近殿と我等との
   間同前之儀ニ御座候、御次而之刻尾取成被成可被下候哉と内々申入候ツる、右近殿ゟも其段貴様へ可申上由、壹岐
   (小笠原忠知)殿を以御申候ツる、其分にて御座候哉、重而 上意御座候ヘハ、不及申何之道にも御理りハ不成わ
   けと奉存候ニ付而、先立右之段申入候ツる、其刻ゟ如申入、大名衆ニ而無御座候ヘハ、何れにても忝存事候、次、
   當八條殿(智忠親王)より古八條殿(智仁親王)殿御息女肥後守と一所ニ被成度由被仰越候、貴様へも被仰候由被
                                        御座候間、申なをし申候儀

   仰聞候、御人持にても無御座候間、同心にて御座候へ共、右ゟ貴様へ内々申置候儀〇ハ不罷成由御返事申上候、右
   内々申入候方不成様ニ候ハゝ、我等方ゟハ言上不成わけにて御座候へ共、八條殿なとの被仰分ハ御披露も被成能候
   ハん間、從八條殿之被仰分相調候様ニ被仰上可被下候、又、いつれそ被 仰出候てからハ不成儀ニ御座候間、存通
   如此候、恐惶謹言
         九月十五日

         酒井讃岐守様
             人々御中

家光の内意がなければ小笠原家に断りも入れられず、又八條家の申し入れもあり、内約がなされなければこの件についても家光に披露してもらいたいと言っている。

又、このことに就いては京極主膳(高通)にも書状が発せられている。(4860)
これは八条家からの申し入れについて京極高通が親王の意を取り次いできたことによる。
それは八條宮智仁親王の室(智忠親王生母)が、京極高知女であることによるのだろう。
忠利はその経過を縷々説明をしている。忠利にとっては家光の内意をまつのみである。
光尚の生母は小笠原氏、養女ながら家康の孫である。家光とは従兄妹の間柄である。
その結果がどういうものであったのか、種々資料を見つけなければならない。
ただし、結果としては側室・清高院に男子(六丸=綱利)が生まれ、正室を迎えることはなかった。

 

  

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