津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■風は吹けども熱波かな

2022-08-08 17:36:16 | 徒然

                                           そよりともせいで秋立つことかいな  鬼貫

 上島鬼貫とういう俳諧師の句で、この人物については良く知らないが、この句だけはぱっと口を衝いてで出てくる。
今年の立秋は昨日の7日、本当に暑いばかりである。怪しからぬ暑さが連日続き、体がもつかしらと年寄りはついつい考えてしまう。
昨晩は10時過ぎにベッドに入って頭を動かしてごそごそ枕の具合を定めていたら、すっかりお月様に覗かれていることに気付いた。
月齢は8日、半月がやや太った感じで光り輝いている。(乱視だから何やらまん丸いものがオマケについている)
私は北枕で寝ているが、月の高度が低くて首を起こさずとも寝ていてよい角度で見える。

良く見えるというより、本当に覗かれている感じ・・、直ぐ近くに下げている風鈴が鳴っているが、そよりと吹く風は熱風である。
四六時中クーラーを入れっぱなしにしているので、毛布を引き寄せて20分ほど鑑賞したが、しばらくして寝入ってしまった。
朝夕に涼しさを感じるまではまだ一月以上がんばねばならぬ。がんばれ傘寿じい。

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■朝鮮軍役と本座・新座の争い

2022-08-08 07:10:11 | 歴史

 朝鮮戦役に於ける清正の軍役は10,000人であったとされる。195,000石に100石あたり5人で算出されたのだろう。
その内の半分は非戦闘員であり、建設技術者や鉄炮や刀・鎗などの武器製造の為の鍛冶職、弓や矢を作る人など広範な工人が渡海している。
「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」に登場する主人公・善蔵や、筆記者の父(ぬしがえのおとっつあん=主が家のお父さん)などの大工職が、どの様な選択をもって態々朝鮮の地へ赴いたのかは謎である。
清正は「技術の到らぬ職人を寄越した」ことに、戦場から熊本の重臣に宛ててその不実を怒ったりしている。
上記資料によると二人は優秀な大工であることから、現地での築城や、隈本古城・熊本城の築城を考えた上での抜擢であったとも考えられる。
西生浦城・蔚山城などの建設にも携わったのであろう。
高麗門などは彼地で解体され熊本に持ち帰られ、善蔵の手により隈本城惣構の西北の守りとして建設された。
碑誌によると慶長3年の事だそうだ。又三丁目御門も善蔵が関わって完成させている。(橋には触れられていない)

 私は慶長11年本座新座の紛争が清正の怒りを買い、その償いとして彼等に坪井川の開削が命じられたと理解してきたが、昨日資料を読んで知ったことだが、ここはもともと空堀があったらしい。
空堀と土居、または塀が廻されて惣構が早い段階で完成していたようだ。
この空堀に橋が架けられており櫓門の存在などが、毛利藩の密偵が書き残した絵図に掛かれていた。
私は慶長12年頃、坪井川の開削が終了して三丁目御門や橋が作られたと理解していたが、富田紘一先生のお説は上記絵図の成立年から「慶長15・6年頃まで」と幅を持たせておられる。

 今年に入ってから熊本築城に関していろいろ勉強を始めたが、まだまだ資料の読み込みが足りない。
奥方にお叱りを受けそうだが、資料となる書籍を購入しなければならない。

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