今日は熊本史談会の8月例会、私が講師を務めることになった。
その中で、「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」が存在は認められているものの、研究者の間ではあまり扱いはよろしくないことに触れてみたいと思っている。
内容は豊かだが、なにせ昭和の時代に書写されたと思われる史料だからという故がある。
一方、研究者の先生方が熊本の中世を知るうえで「茶臼山ト隈本之絵図」は特別扱いをされているが、これとて現代の用紙に書き写されたもので、その原本は見当たらないらしい。
片手落ちではないかと私は言いたいのである。
この資料については私の勉強不足でつい最近まで、四木社(後の代継神社)の位置が坪井川の川向うにあって、つじつまが合わないぞと雄たけびを上げていた。
今回の講演に当たり、5・6冊の本を読破して氷解した。
これは中世の絵図である。ここに描かれている坪井川の位置は中世の流路であり、現在の坪井側はその支流を拡幅したとある。
現市役所の前あたりから、かっての花畑邸の裏の追い回し田畑から下通あたりを流れ、肥後銀行本店辺りから白川に落ちていたという。
某先生のお説だが、「肥後銀行本店」が出てくるとは思わなかった。
よくよく考えると、この流路はいわゆる白川の大蛇行による坪井川への流れ込みのルートとほぼ同じではないのか?
たったあのくらいの絵図で、よく流路を特定されたと、さすが大先生の眼力には畏れ入ってしまった。
在野のただ物好きで歴史を勉強している者には、考えも及ばぬ論理の展開である。
一番最初は「隈本古城史」にある森下功氏の論考「茶臼山ト隈本之絵図について」だろうと思われ、これにはそんなおふざけ(失礼・・)は見当たらない。
上記のような解説は色々な書物によりそのように解説されている。「肥後銀行本店」の先生の名前は伏せておこう。
一方、考古学者らしい科学的根拠を以て、富田紘一先生は「白川・坪井川流路考」を発表され、驚きを以て迎えられたのはその11年後の平成7年(1995)の事である。
富田先生は、上記のような話には組しておられないようだ。先生は坪井川の中世の流路についてどうお考えか、お聞きしてみたいと切に思っている。