津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御座敷芸

2022-08-19 16:54:00 | 徒然

 土曜日に熊本史談会でお話をさせて戴くにあたって、その中に「えいとう節」の事が出てくるので、松野国策先生の貴重な記録「熊本城築城地搗音頭」を読んでいる。
読みながら若い頃の楽しい思い出がよみがえってきた。

 私は長く建築設計の仕事に携わってきたが、御施主さんや建設会社その他のお付き合いで、随分お酒の付き合いがあった。
ある年などは、12月の忘年会を20日ほどやったことがある。一ト月ほとんど二日酔いであった。
昔は「御座敷」で飲む機会も相当あって、いろんな人たちの御座敷芸を楽しませていただいた。
勢いこちらにも出番が回ってくるから何かご披露しなければならない。
そこで仲居さんにお願いして、一升瓶、はたき、長めの麻ひもを準備してもらう。
昔は料亭や旅館には掃除用に「はたき」は必需品でおいてあった。この柄の端っこに麻ひもを結び柄の方から一升瓶に落とし込む。
指名がかかると、仲居さんに頼んでこれをうやうやしく持ち出してもらい、机の上に置いてもらう。
麻ひもを低い位置でひっぱると、「はたき」は上り、緩めると下に落ちる。そしてはたきの布は御幣の如く踊り出す。
これで地搗き歌「えいとう節」を歌うのである。幸い仲居さんが「えいとう節」をいくつかご存じだったから大いに助かった。
これが受けて私は大いに面目を施した。
これはある病院の落成の時の話なのだが、あとで聞いた処によると、これを病院長がレバトリーに入れられたそうで、麻ひもを4・5本にして皆で引っ張ってもらうとおおにぎわいになったと得意げであった。
ご自身は、眼鏡状に五円玉に紐を通したものを鼻に付けられて、見事な安来節を踊られた。

 その他、割り箸をタクト代わりにして、人が歌い出すと指揮をしたり、「ちょちょんがちょん」の振り付けを只ひたすらに何遍も繰り返す踊りを披露したりした。
参加者全員が私の後ろに並び、仲居さんも交じって座敷を何周もして座は盛り上がった。
ある時は、熊本城の花見に出かけ二の丸広場でこれをやったら、大いに受けてみて居た人が踊り出したことがある。
これをやり出すと「家元」と呼ばれたが、残念ながら最近はこういう機会がなく、私のこの御座敷芸?をご披露する機会はない。
20代のころには、通っていたお茶の先生主催の新年会で「何かやれ」といわれて、座布団を三枚程重ねて落語の小噺をやったが、これは見事にはずし赤っ恥をかいたことも忘れ得ぬ思い出である。

すっかり時代が変わり、新年会や忘年会さえ若い人たちは嫌うというし、ましてや御座敷で何か披露しろなどとなると、噴飯ものなのだろう。
要請があればご伝授したい。



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■善蔵と「ぬしがえのおとっつあん」

2022-08-19 07:29:43 | 歴史

 「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」を書き残した人物は善三郎とある。
善蔵と善三郎の関係はというと、善三郎の父親(ぬしがえのおとっつあん)が同僚であったようだ。
「ぬしがえのおとっつあん」は「主(あなた)が家のお父さん」だから敬語だとも言えなくもない。
上記資料に於いては「わるがえの・・・」ともあるが、これは「吾が家の・・・」だろう。
天正・文禄の役では共に朝鮮に渡って苦労しているから、築城にもかかわったのだろう。
清正は、西生浦城・蔚山城を築城した。蔚山城は四ヶ月でそろそろ完成というところを攻められて、一万程が孤立籠城した。
その中に善蔵と善三郎の父親も入っていたかもしれない。約10日間籠城、15㌔離れた西生浦城にいた清正らが駆け付け明朝連合軍は敗走した。
善蔵らはここで城の築城についての知識を得たのであろう。熊本城の縄張りは蔚山城によく似ている。
帰国して二人は、清正に安土城・大阪城に赴き研究するよう命を受けている。「図引き」は「ぬしがえのおとっつあん」がしたという。

 山田貴司氏の論考「文禄・慶長の役と加藤清正の領国支配」(中世熊本の地域権力と社会所収)には、朝鮮へ渡海した職人の一覧がある。
鍛冶職・檜物師・大工・大鋸・鞘師・塗師・紺屋・矢作職人・諸職人・おんなとも・眼医者等々が渡海している。
その中の大工職をみると、文禄2年5月29日付書状では、「かち五人・大工廿人」と大鋸十丁とともに丈夫な道具をもたせて至急派遣せよとしている。
同年8月8日書状では、これらの者が未だ到着しないと怒っている。
文禄3年3月12日書状では、大工が到着次第、在陣中の大工を帰国させるとする。
同年の事かと思われるが、大工13人・大鋸引き5丁を帰国させたとある。2年以上在陣したらしい。
慶長の役に於いては2年の正月、鍛冶や大工などが到着したが「下手」が含まれていると叱責する書状がある。

 善蔵と善三郎の父親は、文禄3年の帰国組だろうか?。
慶長3年朝鮮から持ち帰った材木で「高麗門」を作事したのが善蔵である。

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