先の■消えてはいなかった光尚再婚の話に於ける記事は、「大日本近世史料-細川家史料24」から引用したものである。
( )書きの四桁数字は、膨大な資料の資料番号を示している。
光尚の再婚話は細川家側から小笠原家側に対して申し込まれたものと思われる。大名同士の婚姻については将軍家の同意は勿論のことである。
遡ってみると過去に次のような記事を書いている。
光尚の再婚話・・書状-1 2008-07-12
光尚の再婚話・・書状-2 2008-07-13
光尚の再婚話・・書状-3 2008-07-14
光尚の再婚話・・書状-4 2010-09-01
これらを読む限り、忠利の思惑とは別に八條家からの姫君輿入れの申し入れがあったもののようだ。
細川家史料の既刊は25・26巻まで発刊されているが、25巻(寛永15年12月1日~寛永16年12月19日)に於いては、小笠原忠知宛の次のような書状が目に付く。(5111)
小笠原忠知は当時杵築藩40,000石の藩主、小笠原忠真の次弟であり、この縁談は忠知を通じて進められている。
忠利から忠真に宛てた書状は多く見受けられるが、この縁談についての直接のやり取りは皆無といっていいほど見受けられない。
態申入候、仍右近殿(小笠原忠真)御息女と肥後守(光尚)と縁邊(婚姻)之儀、右近殿へ御内談如申候、 御前
不苦候ハゝ、御取成被成可被下由、我等も讃岐殿(坂井忠勝)へ可申候、右近殿も可被仰由、貴様御使にて被仰聞
候間、如其則江戸にて我等は讃岐殿へ申入候、其段又貴様へ申入候ツる、其後又在所ゟも申入候ツる、然處ニ右近
殿ゟハ讃岐殿ヘハ此儀不被仰候様ニ沙汰承候、左候ハゝ、無首尾成儀を我等申候様ニ成候て、迷惑仕候、但、如何
御座候哉、若讃岐殿へ右近殿終不被仰儀事實ニ候ハゝ、我等方から計申候事も無首尾と申、如何ニ候間、肥後縁邊
之儀何方へ成共成次第ニ可仕候哉、但、右近殿も江戸にて讃州へ被仰候ハゝ、首尾も相申候間、満足仕候、御報に
被仰越可被下候、恐惶謹言
十二月十八日
(小笠原忠知)
小壹岐様
人々御中
尚々、先書ニも御理如申入候、從八條殿御妹肥後ニ被遣度由被仰越候へ共、聊以八條様を嫌申にてハ無御座
候へ共、縁者中へ内談申候方御座候間、それを差置御請は不罷成候由申入候ツる、是又無御失念様ニ頼入申
候、以上
この書状に於いては忠真が直接行動をしないことに対し、忠利のいら立ちが見て取れる。
一方八條家からの婚姻の申し出は、忠利にとっては頭の痛い事で、小笠原家は縁者だから先んじて話を進めているという事を八條家には伝えていると弁明する。
いずれにしても、大名同士の婚姻は将軍の裁可事項である。先の書状からは三ヶ月経過しているが、事は全く進展していない。江戸と九州の距離感も感じられる。