津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■三斎真筆の「高桐院清巌和尚宛」書状

2022-08-29 08:39:14 | オークション

慶應◆本物保証 安土桃山~江戸前期の大名茶人【細川三斎(忠興)】真筆 大徳寺塔頭高桐院(清巌和尚)宛の手紙 細川九曜紋表装 宇野東風読下

          

 宇野東風先生(当時細川侯爵家記編纂員・従五位)の読み下し文が付いた、真筆間違いなしの高桐院・清巌和尚宛の三斎公の書状である。
三斎の筆跡を集めている私としては、大いに有難い史料である。感謝。

                  御逗留中茶在之間敷候間
                  夏切之壷一ツ進之候此袋
                  茶ハ吉田壷へ入ル心見ニて候間
                  鷹ノ爪ノ袋三分一取出申候
                  一段能覺申候也
                               三斎
                   高桐院
                       参

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■消えてはいなかった光尚再婚の話ー4

2022-08-29 06:43:26 | 歴史

 先にも書いたが、「大日本近世史料-細川家史料」は、既刊は26巻が現況最終巻となっている。
その26巻の(5680)寛永17年7月13日・小笠原忠知宛書状に光尚縁邊に係わる記事がある。

    七月十二日之御飛札、十三日ニ拝見仕候、
          (中略)
   一、肥後守縁邊之儀、八條殿御息女之儀ハ無用と八條殿へ被仰出之由候事
   一、右近殿御息女之儀、右ゟ如御存知、讃岐殿(酒井忠勝)へ我等も右近殿も如御存知、讃州へ申入候間、定而何
     とそ御返事も御座候ハんかと聞耳を立て居申迄ニ候、時分も御座候ハんに、むさと申わけにても無御ぞ候故、
     讃岐殿次第ニして居申候
          (後略)
         七月十三日

         小壹岐様
             御報

 八條宮智仁親王の妹姫については、幕府から「無用」の知らせがなされたのであろう。
忠利としては一安心といった処であろうが、肝腎の小笠原家とのことに就いては一向に進展がない。
当時の忠勝は老中職をとかれ大老職であり、大事を議する日のみに登城したとされる。忠利としては只々待つ他手立てはない。
新たな「大日本近世史料-細川家史料」の発刊を待たねばならないが、忠利は寛永8年3月17日に死去するが、この小笠原家との婚姻の話は「忠利死去」を以て頓挫したのではなかろうか。
光尚は父・忠利の死去に伴い遺領相続、寛永20年1月8日には、側室・清高院とのあいだに嫡子・六丸(綱利)が誕生することになる。



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