津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■露払いは「ハンミョウ」

2022-08-07 13:54:42 | 徒然

 私が花園町に住んでいたころは、裏手の崖付に大きな木々があったりしたので、今では見かけなくなったナナフシ・尺取り虫・カミキリムシ・玉虫・けら等が当たり前のように見られた。
そんな中に「道案内」も含まれていたが、今日は朝散歩の途中でこの虫に遭遇した。

                                                ウイキペディアより引用

 綺麗に彩られた羽根をもつ小さな昆虫だが、人の歩きに追われてちょこ/\とまるで道案内をするように前を進むからそう呼ばれるが、本当の名は「斑猫=はんみょう」である。
きれいな「班」を持つからそう呼ばれるのだろうが「猫」は何処から来たのであろうか。
この虫は、私が尾ノ上の地に来てからも散歩の道で度々見かける。
ハンミョウを追うには非ず朝散歩」という誠に下らぬ句をものにしたのも、尾ノ上の地に来てからである。
今日はというと「ハンミョウを露払いにして朝散歩」という感じであった。
暦の上ではもう秋、しかしながら怪しからぬ暑さである。残暑お見舞い申し上げます。

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■沢田延音と「民政記録」を調べる

2022-08-07 08:40:59 | 徒然

 昨日は朝から自転車で図書館行き、司馬遼太郎風頭髪に野球帽をかぶり、80の爺様が必至で自転車をこいでいるさまは考えたばかりで格好悪い。
しかし、借りた本は返さなければならない。
少々司書の方に御手を煩わし、「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」が掲載されている「民政記録」とその編者の沢田延音なる人物について教えを乞う。
沢田延音は新聞記者らしい。それ以上の事はよく判らない。雑多な文章がまるで取材記録の様にとじ込まれている。じっくり読むと、面白そうだ。
その「民政記録」という冊子は全412頁に及ぶが、すべて手書きであり、中には熊本の著名な古書肆・舒文堂書店の店頭で写した「昭和33年10月16日於河島書店写之」という書き込みがあるものまである。
案外「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」も舒文堂の店頭にあって、どなたかが買い入れられてどこかに存在しているのかもしれない。
いつの日か又姿を見せてほしいものだ。

又、私は四苦八苦をしてこの記録の文字おこしをしてきた。今月の熊本史談会でこれを取り上げるためだが、2019年の「特別史跡熊本城総括報告書・歴史資料編」に全文が掲載されていることを知った。
昨晩は私の文字おこし文と照合したが、疑問の部分が氷解すると共に、又この報告資料の読みに少々の間違いを見出した。
熊本弁で書かれているから、熊本弁を大いに理解する人でなければ文字おこしに苦労されたようだ。

何方かがここに登場する「びわんくび=枇杷の首」の場所を、渡鹿堰と比定されていたが、この件に関してはこれを裏付ける資料は見いだせなかった。

暑さとコロナのせいで、図書館利用者も随分少ないようだ。
「熊本藩からみた日本近世」「中世熊本の地域権力と社会」の二冊を借りて、秋分の日の蝉しぐれの中を帰途につく。

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■野島・來島黨船軍、附薩州侯ノ母公勇死ノ事

2022-08-07 06:07:10 | 史料

       野島・來島黨船軍、附薩州侯ノ母公勇死ノ事

                          黒田
     伊豫國ノ野島・久留島黨ノ船軍ニ馴タル者共、如水軒ノ手ニ属シ富來城外ノ海邊ヲ受トリ數十艘ノ船ヲ浮メ在
            慶長五年(1600)                             義弘
     番シケル所ニ、九月廿六日ノ晩薩州ノ船此沖ヲ通ル、此レハ大阪ヨリ島津家ノ母公ト北ノ方ヲ薩摩ニ落下リ
            長門國                                              志
     給フ船ニシテ、上関邊島尻ト云處ニ於テ順風ヲ相待チ灘ヲ渡シ豊後國佐賀ノ関ヘト之シ陸路ノ敵ヲ恐レ沖ヲ
                         トモフネ
     遠ク乘テ通リケルニ、何レノ船二モ篝ヲ焼テ倶船ノ相印トシ後ルゝ舟モナク漕通ケルガ、風烈ク夜暗シテ海上
                      島津義弘                                久朝
         隠カナラズ類船四方ニ散乱ス、中ニモ薩州侯ノ母公衆乘給フ船ト家臣有河助兵衛・伊集院左京カ乘タル船、以上
                                                                                                   カガリ
     三艘ハ類船ニ離レ漂流シテ富來ヲ圍居タル番船ノ篝火ヲ倶船ト見誤リ光リヲ知ルべニ磯近ク漕寄ル、夜明テ
     見レバ皆敵船ナルヲ以テ薩摩船ノ者共大ニ驚キ俄ニ楫ヲ取直シ取楫ノ方ヘゾ走ラセケル、爰ニ番船ノ中ヨリ久
                                                                        バカリ
     田彌左衛門・磯野五郎左衛門・石川十左衛門・野間源市ハ各船ヲ出シ、富來湊ヨリ一里可沖ヲ四艘連ニテ乘
     廻シ富來へ入來ル船ヲ相改メ居ケル処ニ、薩摩船急ニ楫ヲ直シ沖ノ方へ返シ出ルヲ見テ定テ是ハ敵方ノ船ナ
                                            イザ
     ルヘシ、目前ヲ通ル敵船ニ矢ノ一筋モ射カケズト云コトヤ有ルヘキ、倡追懸テ乘捕ント云程コソアレ、四艘ノ
     船共透間ナク漕寄鉄炮ヲ打カクル、富來浦ニ相詰シ船共之ヲ見テ驚破敵船ノ通ルゾ我先ニ高名セント各艫ヲ
     解キテ押出ス、薩摩船之ヲ見テ御上臈ノ召タル船ナレバ何トゾ遁レ見ハヤト評議シ明樽ニ降参ト書テ海ニ浮へ
     笠ヲ流ス、是ハ船軍ノ法トシテ降ヲ乞フ時器ヲ長スト云ノ古實ナリ、然レトモ走ル船ヲ急ニ追討ツ事ナレバ
     之ヲ目二モ掛ズ 頻ニ進ミ遂ニ船ヲ乘着ケ各鉄炮を發ス、三艘ノ薩船初ハ二十餘町ヲ隔ケルガ次第ニ敵船近ク
                                    フナバタ
     來レバ遁レヌ所ナリトヤ思ヒケン、三艘ヲ一處ニ催合テ船畳ヲ潮ニ浸シ舷ニ立並べ、其外衣服・臥具ヲ取出
     シ矢表ニカケテ之ヲ防グ、野島ノ者共程ナク船ヲ寄テ乘込ント進ム、然レトモ薩船ハ高大ニシテ山ヲ望ガ如
     クナレバ小船ヲ漕寄テモ之ニ上ルニ便ナシ、其時薩船ヨリ見下シテ雨ノ如ク鉄炮ヲ發シ、近ツク船ヲバ鎗・
     長刀ニテ切拂ヒ突散シ爰ヲ最後ト防ギ戦フ、依之寄手ノ船忍ヘズ四・五間引退ク、此ノ時庄林七兵衛ト云
     者大音アゲテ何ノ日カ野島ノ者共ガ敵ノ船ト戦ヒ引タル例ヤアル、他人ハ知ズ此七兵衛ハ是非乘入テ一命ヲ
      ナゲウ                                                        ハキ            キンチョウ
     抛チ君恩ニ報セント云テ佩タル太刀ヲ抜カケ金打ス、之ヲ聞テ石川十左衛門誰ソ斯コソ思ヘト云テ同ク金打
                         トキノコエ                                                                      イヨイ
     ス、其餘ノ者共モ之ニ勵サレ各金打シテ又鯨波ヲ發シ一度ニ船ヲ進ム、薩船弥ヨ堅ク守ヲ防戦フ、野島黨
                              カワルガ
     船ヲ陰陽二分テ陰船ヲ進テ戦ヘハ陽船ハ後ヲ打チ引用代ル馳テ之ヲ惱ス、薩兵船樓ニ上リ防キ戦フ者ヲ鉄炮
     ヲ以テ遠矢ニ打テ大半船底ニ打落ス、伊集院左京下知シケルハ何レモ櫓ニ在テ戦へバコソ敵ノ的トナレ、
                   オリ                              コトゴト
     下立テ楯ノ陰ヨリ弓・鉄炮ヲ發スヘシト云テ咸ク引下シ、間近ク寄タル船ノ中ニ散々ニ射込ケレハ寄手又多
     ク死傷ス、村上長助船ヲ進メ戦ヒケルガ鉄炮ニ中リ腰ヲ打セ深手ナレトモ厭ズ弓ヲ彎テ、有河助兵衛ガ屋形
                                    アタ
     ノ陰ニ在テ顔バカリ見ヘテ下知スル所ヲ引詰テ之ヲ射ル時ニ、復鉄炮中リ村上長助忽チ死ス、其ノ外手負
                                  トマ
     死人アリテ左右ナク大船ヲ乘得ヘキ様モ見へザル所ニ庄林七兵衛篷ニ火ヲ付ケ薩船ニ投カクル、之ヲ見テ各
     之ヲ手々ニ投上ケルヲ薩兵驚キ爰ヲ専度ト打消ント船櫓ニ登ラントスレハ敵ノ矢サキ雨ノ如シ、勿論大船ノ
     上ヨリ之ヲ取テ小舟ヲ見下ゲ投返サン事ハ安カルヘキニ其心ヤ着サリケン、又ハ運命ノ極ル所ニテヤ有ケン
     竿ヲ把テ之ヲ打消シ/\トノミシケル間ニ、母公ノ御座船ノ上ニ投カケタル篷ヲ取捨ザリシガ忽チ屋形ニ燃
     付タリ、折節潮風盛ニシテ之ヲ消ントスルモ叶ハズ、薩兵今ハ是迄ナリト船中ノ士卒潔ヨク戦テ咸ク討死ス、斯テ
     三艘ノ薩船一ツニ催合タルニ燃移リ猛火熾、然ニ燃上レハ船中ノ侍・女・雑人聲々ニ啼叫ビ遁ルヘキノ路ナ
                                          テイタラク
     ク野島船ニ飛入テ搦メ捕ルゝモアリ、船ニ入外シテ海ニ沈ムモアリ、目モ當ラレヌ爲躰ナリシニ屋形ノ中ヲ
     見レバ優美ナル上臈ノ少シモ騒ガズ泰然トシテ座ニ給フ、凡人ナラハ如何ニ狂ヒ倒ベキニ御小袖ニ火燃付テ
     御髪ヲモ焼ケルニ白ク清ゲナル御手ヲ以打拂々々シ給ヒシガ、程ナク烟ノ底ニ焼焦レテ千尋ノ底ニ沈ミ給
       タトヒ                   アンジョ
     フ、假令大丈夫ノ身ナリトモ如此晏如トシテ死ヲ遂ルハ希ナルヘキニ、女性ノ御身トシテ右ノ如キハ
     珍シト此形勢ヲ見上テ猛キ兵モ鎧ノ袖ヲ濡ス、此日イカナル日ゾヤ、實ニ慶長五年九月廿七日申ノ中刻
                   オクリナ
     也、後ニ  院殿   大姉ト諡ス、今朝辰ノ一点二豊後姫島ノ前ヨリ合戦始リ、佐賀関ノ前マテ海上十里
     ハカリノ間二テ船軍アリ如此、野島ノ者共ハ富來ニ到リ今日薩船三艘ヲ乘伏セ焼沈メタル旨ヲ委ク告ル
     ニ如水軒之ヲ賞セラル、敵ノ死人ハ其數分明ナラズ、味方討死三十五人、深手ヲ負テ後ニ死スル者六人、手
     負五十四人也ト記ス、

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