津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■薩摩ではタブーの話?

2022-08-06 12:28:56 | 史料

「清正勲績考」の巻第二十六に怖い話が載っている。
島津義弘の「母公と北の方」が船で富來城沖を薩摩へ下る時、黒田如水配下の水軍に攻められ、火矢で攻められて髪や衣服に火が回り死去したというのだ。
慶長五年九月廿六日だと記す。
こんな話は知らないぞと思い色々調べているがどうもよくわからない。
清正の継室清浄院も水樽の下に隠れ大阪を脱出し、清正の領地には上陸せず、豊前の黒田領に入り助けを借りながら山地を難行して着の身着のままでようやく隈本に入った。

立場こそ違え薩摩公の「母公と北の方」が、黒田勢に襲われて受難の死を遂げたとされる。この清正勲績考においては、黒田軍も討死35人、後に死んだ者6人、手負54人と記すような激戦であった。
行橋市史にこの事件関するものと思われる、高名の褒美としての知行宛行状が紹介されているが、薩摩の史料は見受けられない。
この悲惨な事件は薩摩ではタブーなのか?ご存知の諸兄にご教示賜りたいと思い、この一文をご紹介する。
以下の如く一応スキャンを試みたが、鮮明さを欠くのでタイピングしようかと思っている。(こちらはしばしお待ちを・・・)

 

 

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■櫨方門

2022-08-06 06:04:38 | 徒然

 我がサイトの中では電話番号は公開していないと思うのだが、時折携帯に電話が入る。
関東にお住まいの方で年輩の女性の方が、「私の先祖は細川家で櫨方に勤めていたと聞きました」と仰る。
そして「熊本城内に櫨方門があると聞きましたが、ここに役所があったのですか」ということで、これは本来の役所の位置ではなく元々は現在の加藤神社がある場所であり、門だけを現在の場所に移動したものであることを縷々ご説明した。
「もう歳で、暑いしこのご時世(コロナ)だから、なかなか遠いところまで旅行が出来ませんが、櫨方門を一度見てみたいものです」と仰る。
「インターネットでお調べになるといろいろ詳しくわかりますよ」と申しあげると、「息子に頼んでながめてみたいと思いますが、息子はご先祖の事など全く興味がなさそうで・・」とやや不安げである。
余計な事だと思ったが、「川瀬巴水の版画に「熊本城宇土櫓」という作品があり、この中にちょっとだけだが櫨方門が描かれています」と申しあげたら、買いたいと仰る。
「複製は3,000円位で買えますよ」とお教えしたら、「絶対息子に頼んで買います」と携帯の声が弾んでいた。

電話を切った後、昭和29年当時の悲惨な櫨方門の姿を見ることが出来る、建物調査報告書があった事を思い出した。
お電話をしようかどうか思案している。

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