「清正勲績考」の巻第二十六に怖い話が載っている。
島津義弘の「母公と北の方」が船で富來城沖を薩摩へ下る時、黒田如水配下の水軍に攻められ、火矢で攻められて髪や衣服に火が回り死去したというのだ。
慶長五年九月廿六日だと記す。
こんな話は知らないぞと思い色々調べているがどうもよくわからない。
清正の継室清浄院も水樽の下に隠れ大阪を脱出し、清正の領地には上陸せず、豊前の黒田領に入り助けを借りながら山地を難行して着の身着のままでようやく隈本に入った。
立場こそ違え薩摩公の「母公と北の方」が、黒田勢に襲われて受難の死を遂げたとされる。この清正勲績考においては、黒田軍も討死35人、後に死んだ者6人、手負54人と記すような激戦であった。
行橋市史にこの事件関するものと思われる、高名の褒美としての知行宛行状が紹介されているが、薩摩の史料は見受けられない。
この悲惨な事件は薩摩ではタブーなのか?ご存知の諸兄にご教示賜りたいと思い、この一文をご紹介する。
以下の如く一応スキャンを試みたが、鮮明さを欠くのでタイピングしようかと思っている。(こちらはしばしお待ちを・・・)