紫色が水没地域。熊本城右下の舌状部分は追い回し田畑、かっての白川の大蛇行の痕跡である。
今月の熊本史談会で講師を務めることになったので、いろんな本を読んで勉強をしている。
そんな中で、熊本城顕彰会が発行する会誌「熊本城」の、平成三年二月二十二日の復刊第一号から四十一号までをまとめた合本に目を通している。
富田紘一先生の「古写真物語」は第二号から始まっているが、第四十号(平成十二年十一月二十二日)では「西南戦争の背景」として、熊本城水攻めの「堰止め地」とされる細工町五丁目の坪井川が紹介されていた。
写真の解説がないと皆目どこがどこやら理解することが出来ない。坪井川を締め切るべく高さ5mを越える「堰」が一週間ほどで突き上げられた。
上図でみると左下に「堰」とあり、主に井芹川水系の横手・島崎・花園などの地区が冠水しているが、古町・新町地区が冠水していないところを見ると、水深は余り深いものではなかったようである。
(国土地理院の地図で標高を確認すると、2.5mほどの高低差がある。
妙解寺の塔頭近くの住宅は、床上ぎりぎりと言った感じである。
かっての白川の大蛇行の痕である追廻田畑の低地が水没しているのが興味深いし、また坪井川水系上流部の低湿地帯も広く冠水している。
薩摩の桐野利明は、明治5年3月熊本鎮台の長官として熊本に赴任してきており、城下の有様には詳しく、また高麗門などを解体している。
そんな桐野は熊本城籠城などのことなどが頭をかすめていたのかもしれないが、攻守所をかえ熊本城をせめることになると、水攻めに当たっての堰き止め場所など精通していたのであろう。
熊本城の事はすべて頭にあると言っていたかっての熊本城の守将も、清正公の堅牢な御城に完全に跳ね返された。