津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

光尚の兄or姉

2009-04-24 20:10:35 | 歴史
 光尚の幼名は六丸・小六などとされる。六番目の子供だからとされる。兄姉五人の名前は家譜には登場しないのだが、綿考輯録編者小野武次郎は「光利(光尚)君御姉兄五人にて追々御早世と見江申候、然ニ其比は万事留書様之事ニ心を用たる人稀なる時代にて、五人の御子様御誕生の事もしるし伝へたるもの無之・・・」と書き残し、それでも諸資料から五人の御子を調べている。

  ・第一子 光千代 慶長十五六年比千代姫様御腹に御一男誕生
  ・第二子 男子 元和二年誕生 辰の字可被用思召
  ・第三子 亀  元和三年生まれか 寛永六年正月の御書「かめふく不便なる仕合・・・」
  ・第四子 福  生年不詳              同上
  ・第五子 御姫御懐妊の記事(三齋の手紙による) 元和五年
  ・第六子 光尚 幼名六 元和五年九月十九日・豊前中津生

 武次郎が気付いていない、元和二年四月六日の内記(忠利)宛て忠興の書状に次のようにあるのは、第二子であろうか、第三子であろうか。
 「土井大炊殿江御取成之御禮、中津御姫(忠利室・千代姫)懐妊ゆへ御見舞不罷成との理申候事」
 これハ家康の病気見舞いについての報告である。
             (大日本近世史料・細川家史料-122より)
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肥後六花-5 「くだり花」

2009-04-24 09:04:56 | 歴史
                   2005年06月09日付朝日新聞朝刊から

        肥後六花—5 「くだり花」  文・占部良彦
 熊本大学図書館の細川家古文書を収めた「北岡文庫」に「郡芳帳」と題したヒゴハナショウブの写生帳がある。製作時期は江戸末期と推定されるが、三人の絵師によって原色、原寸大で忠実に描き出された郡芳帳が、純系ヒゴハナショウブの花形を伝える鑑(カガミ)の決定版とされている。
 この花の歴史は百四十年、この間に生まれた品種はおそらく千種を越えると推定されている。郡芳帳には初期の代表的な八十九種が取り上げられているが、その中のいくつかはいまも残っているそうだ。
 ヒゴハナショウブは白、あい、紺、るり、ねずみ、紫、紅の七色があるが、基調になっているのは白。ビロードまたはちりめん地の光沢を持つ。頂上の雄しべが力強く突っ立ち、大きく整っているのが印象的だ。この写生帳にも、これらの特色が鮮やかに描き出されている。
 ハナショウブは「働花」とも呼ばれる。派手でおおぶりな花弁の動きから生まれた別名だ。この花は開き始めてわずか三日間が勝負である。初日のツボミが開いて次第に花弁がおちる美しさ、二日目の花弁がずんずん伸びていく力強い動き、そして三日目の満開時の「晴れ姿」を楽しめば、その夕方にはもう端の方から巻きこまれるようにちぢんで行く。細川武士達は、この短い「花の命」にすべてをかけたのだった。
 日本でハナショウブが鑑賞されるようになったのは十五世紀ごろからだが、このころは野生種で、本格的に培養されるようになったのはやはり江戸中期。寛政元年(1789)ごろ、江戸の旗本、松平左金吾が奥州安積(あさか)の沼(現在の福島県郡山郊外)に咲く花且美(はなかつみ)を改良してたくさんの新品種をつくり出した。左金吾はハナショウブづくりの古典「花菖蒲養録」の著者で「菖翁」と号した。ヒゴハナショウブはそのくだり花である。
 当時の熊本藩主、細川斉護がこの花に目をつけ、藩士吉田潤之助に苗を分けてもらえるよう交渉させたが断られた。このため、潤之助は浪人の身になって菖翁のもとに弟子入りし、培養法の伝授を受けて苗のいくつかを与えられた。これをハチ植えにして熊本に持ち帰ったのが天保八年(1833)。この時に使ったハチと菖翁から贈られた「花菖蒲養録」一冊が、いまも吉田家に保存されている。ヒゴハナショウブの歴史はここから始まった。
 現在、ハナショウブは東京、伊勢、熊本の三つが主流になっているが、なかでも熊本の花は大輪で知られている。ヒゴハナショウブはハチ植えで育てるのが建前になっており、一本、一本に勝負をかけたからだ。またこの方法が一人一党的で熊本人の趣向にもよく合っていた。六花の多くがハチ植えを原則にしているのも、このせいだろうと想像される。
 もっとも、この花がハチ植えになったきっかけは、潤之助が熊本送りした苗をハチ植えのまま保護していたところ、生育に思わぬ好結果を得たことによる。そのうえ、手入れにも好都合で花、葉、茎の全体に調和の取れた姿を鑑賞できることもわかった。
 ここから熊本の花つくりたちは沼や池に群生するハナショウブは、なるほど野趣はあるが花は退化するという信念を抱くようになった。いまも池に咲くヒゴハナショウブは、花連「満月会」の会員で細川藩の筆頭家老、松井家の居城だった八代城跡の掘割にしか見ることはできない。屋内での観賞を主とするこの花は、ハチの大きさ、陳列の仕方までやかましく、いまもむかしのままの流儀が守られている。
 殿様じきじきの命令で持ちこんだこの花を、熊本藩では「武士の花」として大切にし、花どきには必ず城主の茶室にも飾られた。これにこたえて、花連「満月会」の武士たちも良花の保存、獲得に秘術を尽くし、ながく肥後の花連に主流に位置を占めた。その名ごりが、いまも尾を引いている。
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細川家家臣・木野左兵衛

2009-04-24 08:14:39 | 歴史
 寛永五年二月中津の城下で、町人某が是則村の庄屋から暴行を受けるという事件が起きた。三齋は、是則村を領する木野左兵衛に対し庄屋を送致させるようにと、忠利に要求している。この庄屋、町人から借米をしていたらしく、半分ほどを減じさせようと脅迫に及んだようだ。喧嘩は両成敗だが、これは庄屋が悪い、借米の返済が終わるまで籠(牢)に入れておけと三齋は怒っている。

 二月廿四日の忠利宛三齋書状で、これらの顛末が報告されている。
その中に木野左兵衛のことに触れられている。
       木野左兵衛親類江戸ニ在之事ニ候、其仁者、上様(徳川家光)前へ罷出候
       而も物を申仁ニ候、木野左兵衛も我々ニも其方前ニ而も物を申仁ニ而候間
       (以下略)
 木野左兵衛の親類に将軍に御目見えできる人がいること、左兵衛自身も又三齋・忠利に対してそのような身分のものであることを示唆している。

 その左兵衛の細川家召出しの経緯が、「大日本近世史料・細川家史料 8-25」に記されている。
 (抜粋)
       元和六年五月十九日書状  忠利→三齋(長舟十右衛門宛)
       先度申上候妻木吉左衛門尉(之徳)内儀親類木野左兵衛事、可被召置之由、
       被仰下候間、只今罷下候、吉左衛門尉ハ忝之儀難申盡候間、能々御禮申上
       候様にと被申候事。

 この文書からすると、「上様前へ罷出候而も物を申仁」とは妻木吉左衛門尉(之徳)のことと推察される。このご仁は「妻木貞(美濃國妻木を領す)の二男。文禄三年家康に初めて目見。慶長十八年五百石、のち千石。正保四年一月廿六日歿。」という人である。



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肥後六花-4 「花とモッコス」

2009-04-23 11:10:11 | 歴史
       肥後六花—4 「花とモッコス」  文・占部良彦
 熊本の花物語に「モッコス」の話は欠かせない。花には必ず作る人の正確が出てくるものだといわれるが、肥後の花の場合はまた格別である。いま熊本に来ても、六花の群落はどこにも見ることは出来ない。それは熊本の風土に自生したものではないからだ。六花は肥後人が作り出した「人工の花」、ある意味では実験室に咲いた花といえるかも知れない。
 肥後六花は、武士の花連という最も閉鎖的なサークルの中から生まれた。肥後細川藩は徳川の幕藩体制の中でも、朱子学と武士道を軸に無類の規律と結束を誇ったところ。肥後の花連発足のかげには、この息のつまるような空気の中で、細川武士たちがそのうっ屈した心のはけ口を花つくりに託したと見られるフシも多い。これにモッコスの語に代表されるような熊本人持ち前のいっこうさが輪をかけて、特異な六花の原形を生み出したと考えることができる。
 これが一番よく出ているのが、異常なまでの花の芯への執着だ。六花は大きな花芯を共通の特徴にしている。梅芯のように豊かに盛りあがったツバキ、シャクヤク、キク、サザンカ。雄しべが天にきつ立するようなハナショウブ。そのあまりの大きさに「バケモノの花」と評する人もいるくらい。これを花の立場からいえば、数世代にまたがるモッコスたちのゴリ押しに根負けした形、あるいは「花のモルモット」の心境だったかもしれぬ。
モッコスとは単純にいえばヘンクツ者のことだが、その含む意味は広くなかなかデリケートのようだ。一方では気骨者の市政も示し、ほめ言葉にも悪口にも使われる。それを正負の両面にわけて、負の面でとらえれば愚直、窮屈、潔癖などの語があたる。だが、これらの性格は後進的な士族意識や保守的な農民意識が支配的な農業県にありがちで、また熊本人すべてがそうだというわけでもない。
 ここから、熊本人の性格の特色は、モッコスそれ自身にあるというより、むしろ、おなじ条件でどこにもあり得る頑固な変わり者を、モッコスというユーモラスなイメージでとらえようとする態度にある(渡辺京二著「熊本賢人」)、とする見方も出てくる。
一方、正の面でとらえれば自分にも他人にもきびしい批評的な気質、「我が道を行く」独立独行の精神がある。花つくりに見られるいっこくさも、このように屈折しながらも筋を通すモッコスの心の中から埋めれたと考える事ができるだろう。
 「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する国民が、一方では美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす」----アメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクトが日本文化の形を論じた「菊と刀」の中でこう書いている。日本人の中には軍国主義と唯美主義、尊大さと礼儀正しさ、がんこと順応性が同居し、これらすべての矛盾が日本に関する書物のタテ糸とヨコ糸になるともいっている。
 ベネディクトは「刀も菊もひとつの絵の部分である」というが、熊本にあっても「花と刀」は同じ絵の中に同居する。このように両極に走る心のブレに熊本の近世史、その花の文化史のアヤを解く一つのカギがあると、熊本大の森田誠一教授(日本近代史)は指摘している。その主役がモッコスなのだ。
 そのモッコスはどのようにして生まれて来たのだろうか。熊本人ほんらいの気質にその素地があるし、細川重賢によって固められた熊本藩の鉄の規律と熊本盆地特有の異常気象が、これに拍車をかけたと見てよいのではなかろうかと、森田教授はいう。
「セイショ公」の愛称で、いまも隠れた人気を持つ加藤清正の植林政策の名ごりで「森の都」とも呼ばれる熊本も、気候のきびしさという点では九州でも定評のあるところ。この町のむせ返るような夏の暑さと冬の底冷えとの激しいズレが、住む人の心をいらだたせずにはおかないのだろうか。
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肥後六花-3 「花連小史」

2009-04-23 08:34:48 | 歴史
        肥後六花—3 「花連小史」  文・占部良彦

 重賢時代の宝暦七年(1757)に開設された医学校「再春館」に「闘草会」と名づけた名物行事があった。闘草とは「草合わせ」とも呼ばれる遊戯の名称、命名が集めてきた草花を見せ合い優劣を競うもので、平安時代の上流階級の間ではやった。この会はそんな優雅なものではなく、まじめな薬草講習会だった。
闘草会が開かれるのは五月節句の翌六日。その準備は四月二十日頃から始まる。生徒達が手分けして泊りがけで領内の山野の自生の薬草を探して廻った。当日は全員が一堂に集まり、採って来た薬草を会場に並べる。これを物産師と呼ばれる博物学の教授が鑑定して、いちいち名称をつけ、生徒はこれについて質疑をたたかわす仕組みだった。
江戸の桜草連の同人たちも同じ八十八夜のころに集まり、「花闘の楽」と呼んで花つくりの腕を競ったが、ここにも単なる「遊び」を越えたいちずさがあったという。重賢が特技、趣味をすすめ、一芸一能にぬきん出た者を重用したというのも、この「花闘」「闘草」の語に象徴されるような真剣さを買ったためだろう。
 重賢が種をまいた武士の花つくり熱が次第に高まって花連として実を結んだのは、彼の時代からおよそ半世紀を経た天保、弘化(1830~47年)のころ。これから明治の初めまでが、熊本の花連の第一期黄金時代。当時の花連が手がけたのは六花だけではなかった。ほかにマツ、ツツジ、フジ、バラ、サクラソウ、オモト、ランなどを含めて重数種にのぼった。
 この中で主流を占めていたのがハナショウブ、キク、シャクヤクなどの花だった。熊本の花連のハシリとなり、その中核にもなったのがハナショウブの「熊本花菖蒲満月会」。これにならってキクの「肥後菊愛寿会」とシャクヤクの「肥後芍薬連」が相次いで結成された。満月会、愛寿会の名は現在も続いている。
駒もとの花つくりの歴史は、二つの戦争をはさんで大きく三つの時代に区分される。最初がさきに紹介した天保、弘化から明治十年の西南の役までの時期。明治の中ごろから太平洋戦争が始まる昭和十年までが第二期。戦後の園芸ブームに乗った現在が第三期とされている。
 この中で一番充実していたのが、西南の役での打撃から立ち直った第二期の前半。西南の役前後、政府は全国で一切の結社、集会を禁止したため、肥後の花連も全部、解散の憂き目にあつた。また県全土を根こそぎまきこんだ戦火のため、花連が苦心して育てた名花の多くが失われた。
 明治十九年に満月会、翌年に愛寿会、同三十二年にアサガオの「肥後朝顔涼花会」などの有力花連の再建が相次ぎ、明治の園芸史に先駆的な役割を果たした。ヒゴサザンカの新種が生まれて、花連「晩香会」として独立したのもこのころ。各花連とも、この時代に組織の基礎を固め、これが昭和まで受け継がれた。
それにもかかわらず、これまで肥後の名花があまり世に出なかったのは、花連のきびしい締め付けがまだ続いていたからだ。明治になって、これまで士族階級の独占だった門戸が一般にも開放されたが、入門資格がやかましく、苗と種が門外不出という江戸時代以来のしきたりが、ここでは忠実に守られていた。
 戦前にも、純潔品種という希少価値と、清楚と豪快さを合せ持つ独特の美しさに注目した学者や園芸専門家もいたが、広く脚光をあびるようになったのは戦後になってから。そのよい例が、ツバキの世界的流行で掘り起こされたヒゴツバキ。そして無骨者の代表格に思われていた熊本人に、このような、花つくりの伝統があったのか、ともいわれた。
地元でも、長く受け継がれたこれらの花を郷土の文化遺産として積極的に保存、顕彰しようとする動きが生まれた。その代表に選ばれたのが六花。「肥後六花」は歴史は古いが、名はまだ新しい。

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壱人扶持三石

2009-04-22 16:35:16 | 歴史
 我が家の先祖附を見ると、初代の兄磯部長五郎に娘があり、「右長五郎儀女子壱人御座候、幼名熊と申候」と記されている。幼名熊が長じてどうなったのかは記されていないが、亡くなった大叔父の話しでは奥勤めをしていたらしい。
 「正保貳年御扶持方御切米御帳」を眺めていたら、「御上臈衆」十七名の中に「くま」とある。その人の扶持が「壱人扶持三石」である。この人が我初代の姪女であるのかどうかは窺い知れないが、時代はピッタリのような気がする。「磯部」の家がどうなったのかも判らず、これはもう闇の中である。
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肥後六花-2 「キンキラキン」

2009-04-22 08:43:09 | 歴史

              肥後六花—2 「キンキラキン」  文・占部良彦

 細川重賢が描いたという六冊の植物、三冊の動物写生帳と三十九種の押葉帳が、他の細川家古文書といっしょに「北岡文庫」の名で熊本大学図書館に寄託されている。熊本の領内、江戸屋敷、静養先の伊豆修善寺温泉、あるいは参勤交代の道中で折にふれ手がけたもので、取り上げられた植物、動物は数百種に及んでいる。
絵の具を使った写生帳は「原色博物図譜」といってよい丹念な観察記録で、十八世紀時代の欧州のものに比べても決して見劣りしないといわれている。昭和六年秋、今の天皇(昭和天皇)が陸軍大演習統監のため熊本に来た時、ある会場でこの写生帳を見て非常に興味をそそられ、あとで宿舎に取り寄せてじっくり楽しまれたと、北岡文庫の記録に残っている。
 重賢は天皇のような専門的知識を持つ生物学者ではなかったが、当時の用語でいう本草(ほんぞう)の知識に詳しく、その趣味を通じてかれの中に即物的、実証的な精神がつちかわれ、これがその治世の中に生かされたことは十分に想像される。また儒教を熱心に学び武芸にも精通したが、その本領はあくまでもすぐれた経世家であった。
 重賢の治世は延享四年(1747)から天明五年(1785)までの三十八年間、細川家歴代藩主の中で一番長く、その影響力も一番大きかった。ちょうど、八代将軍吉宗が「享保の改革」で幕藩体制の立て直しを図ったあとで、まだ国じゅうに幕藩体制百余年の宿弊がうっ積していたころ。肥後熊本藩もその例外ではなかった。
いま残っている重賢の肖像画を見ると、広いヒタイと角張ったアゴ骨が印象的で、いかにもそう明で意志の強そうな人柄を思わせる。かれは二十八歳まで部屋住みの不遇な身分だった。それが、兄の第七代藩主宗孝の急死で多難の時代に思いもかけぬ活躍の舞台を得て、その素質を存分に生かすという幸運に恵まれたのだった。

          肥後の刀の
          さげ緒の長さ 長さばい
          そら キンキラキン
          まさかちがえば 玉だすき
          それもそうかい キンキラキン

 重賢の時代にはやったという肥後民謡「キンキラキン」の一節。キンキラとは錦綺羅で着物の事。当時上下をあげてぜいたくに流れているのを戒するため、大奉行の堀平太左衛門が断固として絹物の使用を禁止したのを風刺したものだ。肥後の刀は緒の長いのが特徴。これはいざという時にタスキにするためだったが、そのころはまったくの飾り用になり、みな派手な絹物を使っていた。重賢時代のきびしい治世を象徴するうたである。
重賢は藩体制の刷新強化のため徹底した人材登用をおこなった。そのためには周囲の思惑や少々の抵抗は意に介さなかった。なかでも最大のヒットといわれるのが「キンキラキン」の中心人物、堀平太左衛門の登用。堀はもともと五百石取りの中級藩士。「ガネマサどんのよこびゃァびゃァー(カニの横歩き)」とうたわれたほど、風さいのあがらぬ、アクの強い男だったが、重賢はかれの識見をかって大奉行、後に家老に引きあげて無二のコンビとなった。
 このように、重賢は英明な文化人藩主として大きな足跡を残してはいるが、はんらいは儒教を信奉する保守派で、幕藩体制護持という旧来の路線を踏み外すことはなかった。すべてがこの中におかれ、体制奉仕が至上命令とされた。
そのため武芸遺骸の特技、趣味の習得も、すべてこれ精神修養のかてだとする考え方が強く、いわゆる「遊び」の心は薄かった。この風潮が、重賢が口火をつけ武士が中心になった肥後の花つくりに深くしみこんで行ったのも、当然のことだった。
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肥後六花-1 「肥後の朝明け」

2009-04-21 14:34:41 | 歴史
 この「肥後六花」シリーズは、昭和49年頃「朝日新聞」の九州版に11回にわたって連載されたものである。セピア色に変色した切抜きがあった者を、いつの日かご紹介しようと思ってタイピングしておいた。著作権の関係がありお叱りを請けるような気がするが、あえてご紹介しようと思う。    www5b.biglobe.ne.jp/~joma/higo.htm (肥後六花)

          肥後六花—1 「肥後の朝明け」  文・占部良彦

 日本の花卉園芸が形をなして来たのは、江戸の中ごろといわれている。その中核になったのが花連(はなれん)。いまでいう植物同好会のことである。江戸の町でそのハシリとなった「桜草連」の結成前後の事情を、江戸末期に書かれたと推定される「桜草作法伝」にもとづいて、園芸研究家の八代田貫一郎さんが「野草のたのしみ」の中で、次のように紹介している。
 隅田川上流の荒川沿岸戸田が原でサクラソウの変わり物を見つけて、人々が鑑賞するようになったのは享保(1716~35年)のころ。遠路をいとわず足をはこび、とりどりに美しい変わり目の花を採集しては自宅で育てていた。やがてひとりで楽しむのは興が薄いと、同志の者たちが毎年、花の盛りの八十八夜のころ集まるようになった。
 集会には一人が三種ずつの新花を持ち寄り、花主の名を伏せて品定めの投票をした。一・無極、ニ・玄妙、三・神寄、四・絶倫、五・雄逸、六・出群と六つのランクを決めて、それぞれの花に位付けをするのである。「花闘の楽」と呼んで互いに腕を競い合うこの会は文化元年(1804)に始まり、そのしきたりは明治に入っても守られていた。
 いちずに花を愛する桜草連の「席は茶煙草可仕などにて至て質素の催に候」とあり、目的は花ではなくて売り値にあった万年青(オモト)、富貴蘭(フウラン)などの会とは一線を画していた。この連中は「日々の会に酒楼をふさぐ」と書いている。
 桜草連の規約は中世ヨーロッパのギルド制度を思わせるきびしさだった。入門するには必ず会員の紹介がいり、末広一対に目録を添えて誓約をした。入門後は初伝、中伝、奥伝と進み、秘法の皆伝となるまでは少なくとも五年はかかる。万一、中途でやめるような場合には、もらった苗はもちろんの事、配合した用土まで返さなければならぬ。もしこれを怠ると、同門のものが押収して帰ったという。
 昔の花つくり名人たちにとって、「花の相続人」を選ぶのも大切な仕事だった。普通の資産のように親からすぐ子に譲るというわけにはいかず、連中のなかから着実で将来に見込みある者を、慎重に選んで来た。今も残る日本の名花の多くは、このような花連のきびしいおいてと、先人たちの苦心によって守られて来たことを、八代田さんはこの本の中で説いている。

 熊本の園芸史も同じころに始まっている。そして江戸、上方などの本場と肩を並べる実績を残しており、ここでもその中核となったのは花連だった。しかし、江戸、大坂では町人、公家が中心となっていたのに対し、肥後熊本の花連を支えていたのは細川武士だった。 
 熊本の花連は花好きの武士たちの秘密結社のような集団で、規律のきびしいという点では町人衆の比ではなかった。この「もののふ園芸」永く門外不出とされ、戦前まで一部の専門家、好事家を除いては注目する人も少なかったが、昨今の園芸ブームに乗って、いまでは海外にまでその名を知られるものも出てきている。
 六花の名はヒゴツバキ、ヒゴシャクヤク、ヒゴハナショウブ、ヒゴアサガオ、ヒゴギクとヒゴサザンカ。これらに共通している特長は一重咲き、澄んだ色合いと花の芯(しん=雌しべ、雄シベ)の力強さ。どの花も「ヒゴ」の名をつけずにいられぬような特異な歴史と性格を持っている。その中で、なによりも狭長されねばならぬのはその原種みなよそから来た「くだりもの」であること。六花は肥後の自然が生んだものではなく、肥後人の気性に根付いた花、「モッコス」の土壌に咲いた花といえるだろう。
 此処から六花の歴史は肥後精神史の系譜にもつながる。その素地を築いたのが十八世紀後半、「宝暦の改革」で肥後に新時代を開いた細川藩第八代の藩主重賢、六花の種もこの肥後の朝明けの時代に巻かれている。
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忠興長女・長

2009-04-21 14:18:35 | 歴史
 新人物往来社の「細川ガラシャのすべて」を読み返している。瀧 喜義氏の「細川ガラシャの出自と系譜」にいささか首を傾げた。執筆者略歴を見ると、氏は前野文書(武功夜話)の研究者であられるらしい。武功夜話といえば前野長康が著したもので、真偽が云々されている。その長康は豊臣秀次の謀反(?)に連座したとして、息・景定と共に切腹させられた悲劇の武将であるが、息・景定こそ細川忠興長女・長の婿殿である。

 さて、その「武功夜話」に細川家のことがどのように登場し書かれているのか、不勉強で承知していないが、以下の事柄も出所をお聞きしたいと思うのだが・・・

  1、長女「長」の生年を天正七年とする。
     文章を良く読んでみると、忠興・玉の結婚した年から導かれたものらしい。
     典拠のはっきりしないお説である。細川家の種々史料からもその生年を知ることは出来ない。

  2、長の輿入れに当っての御付武将・小笠原少斎
     小笠原少斎はガラシャ附きの家臣だから、「無きにしも非ず」の話だが、これとて典拠を知りたいところだ。
  3、ガラシャの子、三男三女誕生。
     これは100%間違い。次項の「万」をガラシャの子としている。
  4、「万」はガラシャの子。
     「万」の生母は明智次右衛門女・小やゝ、即ちガラシャの姪に当たる人である。
  5、糸女覚書の引用
     「糸女覚書」は芥川龍之介の創作である。まさか史書と思い込まれているのでは・・・
  6、幽齋室・・お須磨の方
     これも明らかな間違い、麝香と申上げる。

 以下色々あるのだが、あまり結構な本ではない。
コメント (1)
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細川家家臣・長谷川氏

2009-04-20 12:20:02 | 歴史
 大河ドラマ「天地人」の主人公直江兼続に、かって仕えていた人が細川家家臣にいることは侍帳作成の時から承知していたのだが、それが誰であったか思い出せないままでいた。ようやく判明した。(思い出したのではないのが悔しい)長谷川仁左衛門なる人である。東大史料編纂所の「大日本近世史料・細川家史料」の人物索引によると次のようにある。
【寛永十一年忠利に召出さる。千石。鉄炮三十挺頭。有馬陣にて軍法違背の疑いを受くも、書付にて申弁す。のち鉄炮五十挺頭。有馬帰陣後、褒美として二百石加増。承応二年六月病死。】
その祖は由良新六郎国繁(信濃守)である。 
     (武家家伝-由良氏)www2.harimaya.com/sengoku/html/yura_k.html

 仁左衛門の細川家召出が寛永十一年であるが、直江兼続の死後16年が経過している。いつ直江兼続の許を離れたのかは定かではないが、その間どうしていたのだろうか。
      ja.wikipedia.org/wiki/直江兼続
      http://www.ojima3.com/yoita/person01.html
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吊は弔の異字だけど・・

2009-04-20 10:03:20 | memo
 1、細川小倉藩「日帳」寛永五年九月二十八日帳に村上隆重葬儀についての記載がある。
    椋梨半兵衛被申候ハ、八郎左衛門、今井(中津郡)にて仕候、ニ三日之御暇被
    下候ハヽ、参度存候(以下略)

 2、忠利の寛永十三年十月廿九日書状、光尚正室の死去に関する文書である。
    御彌々之儀、不及是非候、之儀、此方之御寺未出来不申、切くミ計ニ候間、南禅寺
    天壽庵にて申候(以下略)

  「」という文字は「」の異体字である。それぞれ「とむらい」と読むのであろう。吊合戦などという文字も見える。ところが、これを「つり」とそのまま読んでいる一文があり、大変興味深い。

  綿考輯録巻九(忠興公・上巻p9)
    (前略)下津権内討死を忠興君深く御惜ミ、長尾合戦以来米田・有吉と功を論せし事
    御存被成候間、両人か見殺したるとつりを被仰候となり
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寛永十二年九月七日・書状

2009-04-18 13:17:14 | 歴史
 忠利の河喜多五郎右衛門宛て書状である。身内に係わる記述を抜粋してみた(順不同)

■ちやう當年卅三年にて候ゆへ御こほより茶湯なとさせ候てよく候ハんと御申ニ付
  て安國寺へ八木拾石相渡由得其意候事
 「ちゃう」とは忠利の同母姉・前野出雲守長重正室「長」のことである。豊臣秀次に仕え秀次一族が殺された際、近侍の者も死罪
  となり長重も自裁した。長は忠興が出家させ死罪を免れた。慶長八年八月廿九日豊前にて死去した。この年が長の三十三回
  忌に当たっている。異腹の妹・おこぼ(松井興長正室)が法事を執り行ったのであろうか。


■八代万母儀煩之様子書中見申候
  忠興が愛してやまなかった末娘・烏丸光兼簾中まんの生母は、明智次右衛門女・小ヤゝである。寛永十二年九月江戸に在った
  三齋は、七日江戸発駕十八日京都に入った。二十三日酒井讃岐守・土井大炊頭宛て、「当地にてゆるゆると養生可仕と存候処、
  在所より急用申越候ニ付、今月廿三(日)罷下候」と書状を発している。その急用とは、「周岳院殿以外之煩之由」とあり「八代よ
  り注進有之候間、早々京を御立被成候」とある。続いて「周岳院殿ハ十一月十九日死去なり明智次右衛門女ニテ御万様御妾母
  也、少名少也々と云、五十八歳周岳院雪山宗広」とある。(綿孝輯録巻二十三 忠興公(下)p224)

■まん銀子之事申越候此方より直ニ申候てかり候筈ニはや申合せ候事
  寛永十二年、江戸城普請役を仰せつかっている細川家は、金銀不足に喘いでいる。とうとう忠利は、妹の烏丸光賢簾中・万に
  泣き付いている。九月九日書状案によると「万処へ申上せ候三百貫目之銀子■や調候由、道より被仰越候、万方よりも今日申
  来候、未御普請ニハ金銀足事にて無御座候間、万子達之かねも御座候ハヽ、員數承かり候ハヽ、申上せ度奉存候、親子中とて
  じだらくニハ申付間敷候間、其通万ニも可被仰付候事」とある。万の子供達の分も借り上げようというのであり、事は深刻である。


■禰ゝ長崎にてのかい物之代銀拾貫目程入申由にて取替遣由重而目録可差越由
  得其意候事
  金欠病の細川家は禰ゝの生母・万から上記の様に借金をするのだが、可愛い光尚の正室のお買い物は別物ということだろうか。
  翌年待望の男子が生まれるのだが、禰ゝが亡くなり又赤子も後を追い忠興・忠利・光尚の悲痛なありさまが目に浮かぶ。

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正保二年「御扶持方御切米御帳」から

2009-04-17 15:51:41 | 歴史
 正保二年というと、三齋が十二月二日に亡くなった年である。そして五月十九日には宮本武蔵が亡くなっている。そんな正保二年の「御扶持方御切米御帳」が興味深い。
「御合力米」として次のようにある。(抜粋)

 ・百五拾人扶持         小代下総(下総守・親泰)
     小代氏は、荒尾地方を治めた国衆、佐々成政に対抗したが秀吉の許に下り
     加藤清正家臣となった。加藤家侍帳に「四千百三十五石五斗三升」とある。
     「真源院様御代御侍名」に人持衆併組迯衆 百五十人扶持とあるが、この
     記録のほうが古い。
     初代、子・市正(清兵衛 下総・至休)についても、「寛文四年六月・御侍帳」
     に御知行御合力米御御扶持方被遣衆・百五十人扶持とある。
     二代、五郎兵衛・親重にいたり、人持衆并組外衆四百石(甚左衛門組)とな
     った。(御侍帳・元禄五年比カ)
 ・百人扶持            朽木内匠頭
     細川藤孝の実兄・三渕藤英の二男・昭貞の嫡男(二代目)である。
     部屋住の身分で千石を拝領したとされるが、それ以前のものであろう。
 ・五十人扶持          三池左兵衛             
 ・五十人扶持          三池善大夫
     この人は式部少輔・親家(左馬之丞) 加藤清正臣・二千四十八石(加藤家
     侍帳・時習館本)の嫡子である。
     善大夫・親次  
         人持衆并組外衆 五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)
         御知行御合力米御御扶持方被遣衆・五十人扶持 
                       (寛文四年六月・御侍帳)とあり
         細川綱利公御書出に貞享五年・三百石拝領とある。
 ・七人扶持拾八石       宮本武蔵
     武蔵はこの年に亡くなっている。合力米三百石と記す文書も見受けられる
     が、この記録は現実的で興味深い。
 ・九拾石             三宅藤左衛門
 ・三拾六石            三宅新兵衛
 ・拾八石             三宅左京
     この三人は三宅藤兵衛の子である。
     綿考輯録(巻60-P242)にある、寛永拾九年十二月九日三宅藤右衛門・新兵
     衛・左京ニ御合力米被下候留書とまったく同じ物である。
                覚
            一、米九拾石     三宅藤右衛門
            一、同三拾六石    三宅新兵衛
            一、同拾八石     三宅左京
               右之合力米毎年可相渡者也
                 寛永拾九年十二月九日   御印
                            奉行中
           考ニ、三宅藤右衛門兄弟今年御国江被召呼候なるへし  

 ・金小判三十両         細田清印
     これは荒木攝津守村重の孫・荒木左馬介(細田栖隠)のことである。
     たびたびこのブログでも紹介してきた。
     義母の為に細川家に預けられるが、処分直後の記録として面白い。

     【参考】
    寛永廿一年(正保元年)五月十日御老中より之奉書 (綿考輯録・巻六十一)
     一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、其国可被指
     置候、扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候、恐々謹言
       五月十日                   阿部対馬守
                                阿部豊後守
            細川肥後守殿           松平伊豆守
                                           

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細川家家臣・中瀬氏 -- 明智の血

2009-04-16 21:33:25 | 徒然
 今日は中瀬家の「先祖附」、及び「中瀬氏傳略」をただひたすら読んでいて時間を過してしまった。中瀬氏は松下嘉兵衛・之綱の次男・外記の流れである。

 木下藤吉郎の旧主 
松下嘉兵衛之綱---+--     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→旗本・松下家
             |                初代・母方姓に改
             +---外記---源太左衛門---中瀬助九郎・・・・・・・・・・・→細川家家臣・中瀬家
             改姓        ∥
    明智助九郎---中瀬助三郎---●

 助九郎の母方の曽祖父が明智助九郎、明智光秀の姪の子だという。その為か源太左衛門は幼い頃「秀林院(ガラシャ)様御側に御養育」されたという。忠利が愛宕山福寿院に入院した時、源太左衛門もお供したと先祖附は記している。助九郎の細川家召出しはそんな明智の血が関係しているようには思えないが、ひきつけるものが有ったのだろうか。不思議な縁ではある。
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県立美術館○  県立図書館○

2009-04-15 17:23:16 | 歴史
 永青文庫の「赤穂浪士切腹之図」を展観すべく県立美術館に出かける。安場家所蔵のものと構図は同じだが、詳細に見ると随分雰囲気が違う。藩主綱利が覗き見をしたという杉戸は、安場家のものでは松ノ木が描かれている。介錯役の安場一平の姿も、足の踏ん張り方や刀の位置がまったく違う。「似て非なるもの」である。「御預人始終覚書」が出ており、その中の切腹の場の見取り図が展示してある。私どもが日頃目にする「赤穂義士史料」でみる見取り図が、ここから出ていることをうかがわせる。
 さてこの「赤穂義士切腹之図」と「御預人始終覚書」の見取り図がまったく符合しない。元禄三年の「白金御屋敷」の間取り図のコピーを持ち込んだが、これも「赤穂義士切腹之図」とは合わない。係員の方にお聞きすると、どうやら永青文庫(東京)の学芸員の方に電話でお尋ねいただいたようだ。結論は「御預人始終覚書」の見取り図が正解で、絵図の方は絵師が雰囲気を出す為に脚色したものだそうだ。これにて一件落着。
「白金御屋敷図」と「御預人始終覚書」の見取り図を詳細に検証すると、一応の場所の特定が出来、大野瑞雄氏所蔵の絵図が正鵠を得ていることが判った。
その他、色々拝見して大満足。

 帰りに図書館行き、今日は「中瀬家傳略」と「先祖附」をコピーして後、館内を図書館浴。目的の資料に、思いがけない記述を発見、訓下しが楽しみである。

 調べ物中の史談会のK嬢に遭遇、ご先祖様について某所で研究発表をなさるらしく、真剣そのもの。二三分お話しをして後退館する。 よき一日、美術館も図書館も○。
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