光尚の幼名は六丸・小六などとされる。六番目の子供だからとされる。兄姉五人の名前は家譜には登場しないのだが、綿考輯録編者小野武次郎は「光利(光尚)君御姉兄五人にて追々御早世と見江申候、然ニ其比は万事留書様之事ニ心を用たる人稀なる時代にて、五人の御子様御誕生の事もしるし伝へたるもの無之・・・」と書き残し、それでも諸資料から五人の御子を調べている。
・第一子 光千代 慶長十五六年比千代姫様御腹に御一男誕生
・第二子 男子 元和二年誕生 辰の字可被用思召
・第三子 亀 元和三年生まれか 寛永六年正月の御書「かめふく不便なる仕合・・・」
・第四子 福 生年不詳 同上
・第五子 御姫御懐妊の記事(三齋の手紙による) 元和五年
・第六子 光尚 幼名六 元和五年九月十九日・豊前中津生
武次郎が気付いていない、元和二年四月六日の内記(忠利)宛て忠興の書状に次のようにあるのは、第二子であろうか、第三子であろうか。
「土井大炊殿江御取成之御禮、中津御姫(忠利室・千代姫)懐妊ゆへ御見舞不罷成との理申候事」
これハ家康の病気見舞いについての報告である。
(大日本近世史料・細川家史料-122より)
・第一子 光千代 慶長十五六年比千代姫様御腹に御一男誕生
・第二子 男子 元和二年誕生 辰の字可被用思召
・第三子 亀 元和三年生まれか 寛永六年正月の御書「かめふく不便なる仕合・・・」
・第四子 福 生年不詳 同上
・第五子 御姫御懐妊の記事(三齋の手紙による) 元和五年
・第六子 光尚 幼名六 元和五年九月十九日・豊前中津生
武次郎が気付いていない、元和二年四月六日の内記(忠利)宛て忠興の書状に次のようにあるのは、第二子であろうか、第三子であろうか。
「土井大炊殿江御取成之御禮、中津御姫(忠利室・千代姫)懐妊ゆへ御見舞不罷成との理申候事」
これハ家康の病気見舞いについての報告である。
(大日本近世史料・細川家史料-122より)