津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

雑感・わたしの書生論

2011-03-20 20:54:17 | 徒然

 政治向きのことを色々書くのは、所詮書生論といわれそうだからやめにするが、政府のていたらくぶりに愕然としてしまう。枝野報道官(?)はなかなかよくやっているが、大臣官房は仙谷に乗っ取られたのかもしれない。自衛隊を「暴力装置」と理解している人物がいるかと思えば、時はよしとばかりに菅首相は防衛大学の卒業式で大いなる「敬意」を表した。なんだか良く判らん。

 決死の覚悟をして福島原発での注水作業その他に従事した人々を、外国では「福島の50人の侍」と称えている。侍は首相官邸には居ないのか。断られるのは判っているのに、自民党に声をかけて入閣を則したり・・・つまりは手詰まり状態に在る。
マニフェストを放棄して、災害復旧の予算を捻出するというのは、素人でも思い至ることで特段すごい見識とも思えない。「災害支援特別税」でもつくって、国民に「お願いします」と頭を下げたらどうか・・・。「財源論はあとで」とのたまう大臣がおられるが、すくなくとも岡田幹事長の発言のほうが正論だろう。菅さんも目をしょぼしょぼさせて随分お疲れのようだが、命を懸けておやりになることだ。

 TVをみているとイライラが募り、少々胃がもたれている。
鬱憤を晴らそうとすると所詮は書生論と相成る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おまんさまの文

2011-03-20 11:02:32 | 歴史

 災難とは自然災害のみならず、いろんな形で存在する。

 細川家の豊前入りは慶長5年の12月26日(新暦1601.1.12)だとされる。12月8日に丹後を出立したとされるが、この年は随分寒かったらしく雪が深く馬が凍えて難儀したと、加藤政右衛門家(金山下坊子孫)の家記に記されている。「御人数及難儀申候ニ付、金山下坊(田邊城籠城衆の一人)宅へ一日一夜御逗留、拾八疋之御馬火をたきあたヽめ申候、其上御通行之道筋三里之間をかきのけ、無御支御旅行遊され候・・・」とある。主だった人達が十八人馬に乗り、その他の人達は18日の間の数日を雪中行軍した事になる。

 一行が出立した後、有吉四郎右衛門立行の妻(まん)が、木付の陣に在る有吉家の重臣葛西彦四郎に宛てた九日付文書が残されている。そのまんは、ガラシャ夫人が生害した七月十七日の翌日男子を出産(有吉平吉--英貴)、翌十九日には産後の身ながら宮津をでて京都の天竜寺へと逃れた。下の文から身一つで逃れ数ヶ月を困窮の中で過ごしたことが判る。

       まつい殿の文とゝき申候 こんどはかつせんにて彦四郎てがらのよし承り候て
       せんじつ与太郎への九兵衛へのこゝろづけ申し候へようもなく候 御うれしさ
       かず/\にて候 又国がへとてやがて殿様御下りのよしに候 此の程われ
       /\も下り候て御うれしくぞんじ候へば又国がへと申し候まゝせはしさ申し候
       はんようもなく候 彦四郎おやたちものさとにあづけおきてわれ/\下りて候
       たいらへこされ候 孫右衛門おかあもえはまへあづけてこれもたひらへこされ
       こされ候てみな/\一ところへ居まゐらせ候まゝこゝろやすく候べく候 おかあ
       はかたびら一つにてふるはれ申し候 にやひのもの候はゞ米かしてかさせ候
       はゞきせ候はんと申し候へどもいまだうりかひもなきゆゑならず候 宮つまで
       のこしきよりはあさましきていにてまゐり候 われ/\もよろこび候てあくる日
       のらんにてまゐり候ゆゑわずらひ候てくし一具とりていで申さずかたびら一つ
       にてのき候へばふるきものを一つみなにきせ候へどもならず候 われ/\は
       さように候はんにもんめんにてよるのものをこしらへ候て京より下り候てきま
       ゐらせ候 にょうぼうどもにもぬのこ一つづつこしらへてきせ申すていにて参り
       候ほかはなく候 下り候へども米をさまり候はではん米さへならず候へてめい
       わく申し候 しゃく米どもはこび候てさはしさ御すもし候べく候 四郎右衛門殿
       へ御申し候て其の方よりしゃくせんかた御すまし候やうに候て給べし 又長次
       郎へ言伝申候 京にもふたりながらそくさいに候 かしく
             十二月九日                      まんより
               彦四郎殿
                   まゐる

 文中の四郎右衛門は、夫・立行、与太郎とあるのは嫡男のちの四郎右衛門興道である。この時期康政と名乗り初陣18歳位である。生まれたばかりの赤子は、有吉家中興の祖とも言うべき大人物に成長することになるのだが、この時期は困窮の母の懐にあったのであろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第八師団北熊本駐屯地・歴史資料館オープン

2011-03-19 09:46:46 | 熊本

 陸上自衛隊第八師団北熊本駐屯地(熊本市八景水谷)内に、今般歴史資料館(防衛館)のオープンを前にして昨日内覧会が行われた。かって熊本城内二の丸にあった熊本陸軍幼年学校が昭和15年この地に移転、歴史資料館はその由来の地にあった古い建物を改修して、熊本の古代から現在まで歴史を武人の目を通して見、通史的に学べるように広範で素晴らしい展示がなされている。

 約二時間半ほどの時間を費やして展観、改めて熊本の歴史の深奥に触れる思いがした。

 北熊本駐屯地の司令・有吉登聖准将は肥後細川藩代々家老・有吉家のご子孫である。
3/19~4/17まで「細川家家老・有吉家の文物」展が企画展として催される。
昨日ひとあしはやく拝見させていただいたが、細川家系図・有吉家系図ほか初見の史料を多く拝見することが出来た。特に細川家系図は将軍義昭の命により、忠興公を細川輝經の養子とした事を証明する貴重な系図である。又の機会があるかどうか、是非とも展観されることをお勧めする。

 東北における大災害は未だ多くの悲惨な状況の報告がなされ、ただただ無力感にさいなまれている。北熊本駐屯地からも600人の隊員、300台の車両が派遣されたという。
被災地の皆さんのご健勝をただただ祈り、一日一刻も早い復興と明るい笑顔が戻ることを願わずには居られない。自衛隊員の皆様のご活躍に深甚なる敬意を表したい。このこともまたこの資料館に紹介されることになる。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永七年相州浦出陣東海道道中記(抜粋-安政大地震) -8(了)

2011-03-19 09:11:01 | 歴史

 

                          目的地・大津御陣屋
     
                       
リックすると大きくなります


                十一月廿日
                天相州大久保賀々守 十一万三千石 泊り小志水
                一、小田原 大磯四り
                一、
                相州
                一、大磯 平塚廿七丁
                相州
                一、平塚 藤澤三り半
                
                十一月廿一日
                相州  江戸  鎌倉屋
                一、藤澤 大津四里 者瀬町迄二里
                   手廣立場迄廿一丁 牟田中左ニ
                         小屋壱軒アリ
                   常盤村 茶屋壱軒
                   大佛者瀬宿入口ニ
                一、者瀬町 小つほ壱里
                   神明宮 者瀬町出切左山手
                         壱丁計り
                   者瀬ごふり茶屋アリ
                     弘法大師■成御恩供養塔有
                   鎌倉
                     鶴ヶ岡八幡宮前通り木の
                     鳥井ノ前ニ四ツガイノ道有
                   地ノ下出小屋弐軒
                     此処八幡馬場八丁之真中也
                   大町鎌倉
                     左東見山 別願寺
                     足利持氏公御廟所
                     御朱印有之也
                   田代観音 大町中程より右ニ入
                     みだれ橋
                     本興寺 左
                     大もく座
                     天照山光明寺勅願所
                   ひしま 山脇磯邊を廻り
                        冨士右灘はるかニ
                        見へ絶景也
                   小つほ 舟津より人馬問屋迄山越
                        ニ而長坂ヲ越五六丁余り
                        難渋道五六合行也
                一、小つぼ 平作三里
                     たくみの橋
                     あぶづる 支度所有
                     早馬
                       休息所あり 此処より江の島へ
                       舟ニ乗也 山内迄ハ小屋格別
                       なし
                     板はし 左車アリ
                     左山脇ニ井戸あり
                     早馬十丁計者右之方山之平ヲ
                       行也
                     小はし
                     石木村 上り下りの坂段々有
                     はやま之中
                          土はし越 茶屋アリ
                     山内  小屋二三軒休息よし
                     板はし
                     木こぼ  右ニ車出小屋有
                     板はし  長弐間
                       往還五十間計り行
                       左縄手ニ近道 田の
                       くろ行へし               くろ=あぜ道
                   下ひら作 大津二里
                     下平作三丁行茶屋有
                     坂下り向ニ上り山道下り
                     中程ニ茶屋有り 下々
                   阿部倉 茶屋アリ
                   大明寺 法華寺門前ニ出小屋
                   か子屋村 小屋あま酒有
                     是より先九合村迄之中
                     段々茶小屋アリ
                   明信寺左山ニ有り
                        岩淵
                          茶屋アリ
                        谷合十丁計り行ば
                        大津御陣屋着候
          http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E9%99%A3%E5%B1%8B
                   十一月廿一日伊勢路地震ニ付三十六日ニ着
                               ニ而十一月四日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永七年相州浦出陣東海道道中記(抜粋-安政大地震) -7

2011-03-18 08:43:00 | 歴史

                十一月十六日
                遠州佐野郡
                一、日阪 金谷一り半九丁 宝屋惣助
                   当宿者格別損不申随分
                   止宿所御座候 翌朝七つ
                   比出立雲(雪カ)少しふり昼二三度ユリ
                   此宿より山坂上り佐野の中山夜鳴
                   往来真中ニアリ
          http://www.wa.commufa.jp/m554mizu/t-sizuoka2/t-sizuoka_202.htm

                一、中山茶屋 観音寺皆々崩
                   損候 此処少道行山上より金谷瀧
                   大井川眼下ニ見へ日本一ノ名高キ
                   景之由
                駿州 此宿少し損し候
                一、金谷 嶋田一り十八丁
                   大井川壱人ヲ雲助二人半ニテ渡
                   川賃定
                        八十八文   中
                        九十六文   上
                   此川駿遠之境也東海道一番之
                   大川也水源ハ甲州也川両方ニ
                   川会所有り
                駿州
                一、嶋田 藤枝二里八丁
                   当宿之様少し損し候
                右本田豊後守四万石城下
                一、藤枝 岡部一り半八丁
                   此宿より田中ノ城道下ニアリ 当宿之
                   城崩損し候
                駿州
                一、岡部 鞠子二里九丁
                   此宿より山坂多し宇部ノ山坂
                   上り下り十六丁 此邊蔦の細道
                   ト云セバ道ニテ難處也 地震候也

                天
                十一月十七日
                駿州軽し
                一、鞠子 府中一り半 柏屋七郎右衛門
                   当宿江暮六ツ半比着是迄之往来
                   筋大分損し候 昼二三度ユリ
                   当所少し損し候
                右同
                一、安倍川 川賃四十九文
                   風立雪少しふり候
                右同
                一、府中 江尻二里半八丁
                   当宿江公義御城アリ 竈数壱萬軒
                   計之内千軒計地震ニ付焼失死人
                   八百人余 未タ詳しくわ不分明
                   怪我人者幾萬人カ数知らす由
                   誠憐ナル容躰ニ而候事
                右同
                一、江尻 興津一り弐丁
                   当宿海邊ニ而竈数千軒余
                   之内八分通焼失二分位者
                   残ト見受候 死人怪我人者
                   未タ何人と申事不知候由
                   府中江尻之様誠に
                   無類容躰なり
                一、興津 油井二里十二丁
                   当宿入口左ニ清見寺ト云禅寺アリ
                   海ヲ眼下ニ見江致絶景之寺也
                   此寺之ザボン本堂之うらナリ
                   候ニ付壱ツチキリ打越候處
                   実橙色ニ而美しき品ニ候
                   此宿四合通り計損し候

                天
                十一月十八日
                一、由井 蒲原一り 府中屋新助
                   此処江暮六ツ比着当宿格別
                   損し不申候今日者咲草ニ而
                   道中洗濯也 朝六ツ時出立
                駿州
                一、蒲原 吉原三り
                   当宿竈五百軒計 過半
                   及破損死人三十計
                   此宿内川前ニ岩淵ト申弐百軒
                   余不残崩四軒か残たり
                富士川
                   此川渡場之脇ニ舟カヤリ居申候
                   是ハ甲州下り舟ニ而四日之大地震
                   之節乗組三人此之通
                   死シ未タ上ケ不申由
                   川先柚ノ木村半宿家数六七十
                   軒蔵小屋也
                   〆百七十軒余之所三軒
                   小屋残り居候
                   死人赤子壱人新田村惣崩
                駿州
                一、吉原 原三り六丁
                   当宿より富士見へ誠ニ絶景ニ而
                   彼之山ニ一点の雲なく美山
                   筆紙ニ難盡 当駅竈数千軒
                   之内九分通り崩残者皆々焼失
                   死人二三人也

                十一月十九日
                駿州
                一、原 沼津一り半 丸屋
                   当宿ニ七ツ半比着 当所壱軒も
                   損不申小屋抔ハ間ニ崩格別
                   損申先宿沼津損候
                   ニ付無拠早留り
                駿州水野出羽守城下
                一、沼津 三島一り半
                   此所城御堀散々崩落矢倉計
                   残り居り候市中千軒余
                   之処七合通崩半分者
                   焼失
                一、沼津在小村ト云処天変トワ
                   云ナカラ家九軒地中ニ埋り
                   深サ五丈余或ハ三丈ケ程も
                   ユリ込且人九人之内弐人ホリ出し
                   扶由誠ニ大変古今マレナル
                   惨状ニ見分候事ニ御座候
                豆州
                一、三島 箱根三り廿九丁
                   当駅竈千軒余二タ町六七
                   十軒焼失残ハ皆々崩即死
                   八人神社佛閣皆々崩損申候
                相州
                一、箱根 小田原四り 御用達指屋佐五右衛門
                   当山登りハ格別往来悪敷者
                   無之候得共下りハ雪深ユエ
                   人馬甚難渋仕候 当宿之儀
                   三四合通者損後用達方
                   散々崩損止宿難成暫ク休
                   息いたし小田原ニ越申候
                一、十一月四日より同廿日昼迄十七日之
                   間昼夜無差別ユリ続候処
                   大躰ユ終り漸ク息ツキ流し
                   候へとも暫之処ハヤハリユラレ候
                   心地ニテ委細者前右之通ニテ
                   ヲソロシキ共イツ家之下ニ成哉
                   イツ火ニ焼候哉イツ地ニ割込レ
                   候哉と片時もワスレス案労
                   仕誠古今マレ也 東海道之
                   淋しキ共ヲソロシキ共其躰難
                   盡筆紙 是社前代見之
                   事共ニ御座候事                

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被災地をおもう

2011-03-17 10:19:49 | 俳句

 

                 みちのくに再び歌え上げひばり

                 木の芽立刻へて常葉の緑かな

                 凍てつきし闇やあしたの日の出かな

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永七年相州浦出陣東海道道中記(抜粋-安政大地震) -6

2011-03-17 09:09:09 | 歴史

               十一月十五日 新居を朝六ツ半比
                  三艘ニ乗出艘 右ハ舞阪迄ハ一里ノ渡ニテ
                  至テ浅瀬之由ニ候処当時町者明応・元禄之
                  大津波ニ而深瀬ニ成其上先達而之津
                  波ヨリ未タ汐引不申平水より壱丈
                  モ汐増海中所々江山クエ込ミ             クエ=壊れ
                  間ニハ大木所々ニ根コゲ流込三十反
                  余之大船数十艘島ト見違ヨヲ
                  破損致し是ヲ見テ船頭エアノ島何
                  島トトイ候処別此間之津波ニ
                  損し大船之カヤリシ候ト申聞候
                  皆々是ヲ見テ驚申候 海中
                  所々ニ山崩込大木流込船腹ヲ
                  スリ懸ケ誠ニ其時ノヲソロシキ事
                  言語難筆紙述 アヤラキ海上
                  風モ立ヨラヨラト無難ニ而五ツ半比         ヨラヨラト=ゆっくりと
                  舞阪ニ着船                         
               一、舞阪 浜松二里半八丁 御用達源馬右衛門
                  当宿御用達ニ暫ク休息此処ハ
                  海手ニハ候へとも格別損不申候 昼
                  仕度仕是濱松迄之往来筋
                  右手ノ田畑廿丁計ハ津波ニ損し
                  潮(湖カ)水之ごとく成候事
               十一月十五日井上河内守六万石城下 江戸六十五り
               一、濱松 見附四り七丁 近江屋精太夫
                  当宿正九ツ比着 是より先袋井・懸川
                  両宿地震之砌一軒も不残焼失ニ付
                  止宿難成よふよふ今日より継立候由
                  然ハ■田筋損候ニ付人馬難有
                  故人足ニ而継立仕候處今日ハ
                  水野公千人計之人足継立
                  申候間最早壱人も無御座其上
                  継越候間も今晩ニ限り宿都合
                  悪候故今日者当宿貸ト早泊ニ
                  御座候共一宿無拠仕所々見物
               一、諏訪大明神連雛榊キアリ廻二尺計り
                  五社大明神各社領三百石
                  両社参詣社内金石燈籠
                  悉崩五社宮之鳥井崩
                  家中損門塀抔も少々損し
                  今宵二度六ツ四ツ時ユリ
               一、見附迄四り七丁之処村々多ク有之
                  一軒も無残方ひた倒道筋
                  五六尺者引割間ニ者家床
                  落込ケ所も有之候事
               一、天龍川夜明比罷通候 大イニ
                  損所多候事
                  濱松出立正七ツ立也
               遠州
               一、見附 袋井一り半
                  当宿も無残焼失いたし候
               遠州佐野郡 吉田備中守御城下三万五千石
               一、袋井 懸川二里十六丁 江戸五十五里
                  当駅家数七百軒計之内往来筋
                  焼失怪我人八百人計死人
                  百五十人余問屋場役人も聢
                  死候由 当駅之様誠ニアワレ也
                  アリサマニ候事
               遠州佐野郡 太田攝津守城下五万石 城下
               一、掛川 日坂一り半十一丁
                  当宿之様竈千三百軒計之内焼失
                  六百軒計余者皆々崩損死人
                  五六十人計小屋家等も壱軒も
                  なく皆々ハタカニナリ走出候
                  ママニテ着類家財等一才出し
                  不申由アワレ也事共ニ候事
                  畑尾門人者当駅之継立後ニテ
                  人足及不足七ツ比より雨ふり出し
                  継立難成而彼之前江野陣之由

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安政大地震と民衆―地震の社会史

2011-03-16 13:21:17 | 書籍・読書
                 安政大地震と民衆―地震の社会史 (1983年)

                           講談社学術文庫
                             北原糸子著

【内容】
1855年、震度6の地震が百万都市江戸を襲った。安政大地震である。明日を見失った被災民は、生へ向う意志と復興への願いをこめて、地震鯰絵やかわら版に熱狂する。これら民衆のメッセージは、時空を越えて現代のわれわれにも何事かを訴えかけているに違いない。残された資料の中に災害史の新しい可能性を探る好著。

【著者】
1939年生まれ。津田塾大学学芸学部英文科卒。東京教育大学大学院文学研究科修士課程修了。東洋大学講師。著書に『都市と貧困の社会史』『磐梯山噴火──災異から災害の科学へ』『江戸城外堀物語』、訳書に『災害と千年王国』などがある。

  今ブロ具で書いている、「嘉永七年相州浦出陣東海道道中記(抜粋-安政大地震)」
  の参考にと、こちらも注文しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三陸海岸大津波

2011-03-16 12:50:52 | 書籍・読書
    三陸海岸大津波 (文春文庫)
 
        文藝春秋

   地震国日本では避けて通れない宿命的なことも、今回の地震・津波又原発事故等は
  その規模の甚大なことに呆然とさせられます。
  せめて過去における三陸海岸での大津波の状況について知りたいと思い注文しました。 

【本の内容】 
明治29年、昭和8年、そして昭和35年。青森・岩手・宮城の三県にわたる三陸沿岸は三たび大津波に襲われ、人々に悲劇をもたらした。大津波はどのようにやってきたか、生死を分けたのは何だったのか—前兆、被害、救援の様子を体験者の貴重な証言をもとに再現した震撼の書。

【目次】
1 明治二十九年の津波(前兆 被害 挿話 ほか)
2 昭和八年の津波(津波・海嘯・よだ 波高 前兆 ほか)
3 チリ地震津波(のっこ、のっことやって来た 予知 津波との戦い)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永七年相州浦出陣東海道道中記(抜粋-安政大地震) -5

2011-03-16 08:48:21 | 建築

                天
                一、九日昼ル三四度例之通ユリ

                天
                一、十日
                  二タ川より遠州之内荒居関所迄
                  二り計入手と申処ニ木賀越ト
                  申浜松江出ル山道アリ候由ニ而
                  聞程ニ平野殿・田中・本田・中島
                  桜井・中島・荒木七人下二人
                  合九人罷越 入手名主
                  杉浦次郎八ト申人江右之段
                  委細咄し申候処成程木賀越ハ
                  有之候得共荒居から関所
                  ニ而舟直雇入ならバ支へ不申
                  候得共夜より雇入ハ六ツケ敷段
                  申聞候付此處先見合申
                  又々二タ川ノヨヲ七ツ比帰り
                  此夜三四度ユリ
                  吉田・松山・坂本・竹下・緒方・麻生六人荒居
                  舟越向合ニ御用達迄罷越候事

                天
                一、十一日
                  新居御用達前田作左衛門見送ニ
                  二タ川迄来り候 朝五ツ比大ユリ
                  ニ而皆々外ニ迯出候七ツ比又々大ユリ

                天
                一、十二日
                  七ツ比二度ユリ夜ル五ツ比ツヨシ
                一、十三日
                  二タ川より一り半海手小松原馬頭
                  観音参詣 平野殿初十人計
                  同道 此処馬頭観音元祖也
                        家康公御禁札有り
                            (略)

                天
                一、十四日九ツ比大ユリ八日より今日迄
                  大岩寺江逗留御座候也 今日
                  公儀御書籍荒居関所
                  越候ニ付明十五日越方儀不申段
                  新居御用達より申越候ニ付
                  今日新居よ迄四ツ比より出立也

                        浜松領
                遠州敷知郡水野越前守様六万石
                一、白須賀 荒居一り六丁江戸七十里
                  此駅も無難之家一軒も無之皆々
                  損申候
                一、元白須賀之様左者山ニして
                  右者遠州灘ニテ極々荒波
                  濱者波当り強ク去ル四日大津波
                  打懸往来続之海手長廿丁計
                  横五百間計内外田畑皆々無畑ニ
                  成惣躰件塘者松山ニ而汐際ヨリ
                  高サ廿間余モ有之候ヲ高汐
                  ニテ打越塘内誠ニ如湖水如
                  汐ヲタタエ申候 橋本と申町より
                  二三丁海中ニハナレヒルカ松山ト云島アリ
                  小島ニ而家数三十軒余モアリシカ
                  明応八年且元禄之比大地震
                  つ波ニ所々損し候由ニ而ヒルカ松山之様
                  小島ニ候得共頭計損不申由ニ而
                  此節トテモ無難ニ而当時者彼之
                  島ヲ淳島トトナエ候由

                十一月十四日        御用達
                一、新居             前田作左衛門
                  当宿之様海手ニ而別而ユリ方
                  強ク町屋一軒モ不残崩損し
                  皆々山際ニ小屋懸いたし最早
                  十日余も野住居ニ候 御用達方
                  ■ 成普請ニ候ヘとも散々崩レ
                  申候
                一、御関所之様津波之砌漸ク
                  御高札迄取留札所且番所等ハ
                  流レ御門計り少しかたぶキ
                  申候

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永七年相州浦出陣東海道道中記(抜粋-安政大地震) -4

2011-03-15 08:47:06 | 歴史

                天十一月六日
                三州額田郡本田中務太夫様六万石 江戸七十七里
                一、岡崎 藤川一里半七丁
                              あつまや新兵衛
                   此処ニ暮五ツ比着去五日地震五度
                   ユリ宮より是迄之宿々悉く損し
                   淋敷往来筋ニ而候事 翌日
                   出立も荒居番所津波ニ損候由ニ而
                   急ニ越方出来不申故朝六ツ半比
                   出立申候
                
                十一月七日
                一、藤川 赤坂二里十一丁

                天
                十一月七日
                三州
                一、赤坂 御油十六丁
                   此宿江八ツ比着是迄より先宿・吉田・新居
                   浜松・見付・袋井・懸川地震之砌過半
                   焼失 且津波等ニ人馬継立難成段
                   承り候ニ付無拠早泊り 当宿ハ
                   藤川の様ニ者損不申昼二度ユリ
                   晩五ツ比中ユリ致し皆々座敷之
                   障子裏塀の戸ヲ押ハナシ迯出し候
                   藤川より是迄二り余之処小屋小屋
                   沢山有之候へとも茶屋損申候
                一、御油 吉田二り十二丁
                   損所右同断
                一、吉田 二タ川一り半四丁
                   当宿地震強御城及破損櫓抔者
                   水堀ニ落込堀廻りハ悉く崩
                   門辻番等モ崩神社仏閣寺院
                   并家中市中大分廣キ城下
                   ニ而候得とも十分一ハ無難之家
                   候哉皆々及大破 往来より城下
                   見江然者損所何程ト云事
                   不能是迄之損所一番也
                   荒居津波ニ損し往来難成故水野
                   筑前守様も当宿へ御止宿 此あたりも
                   内ニハ壱人も居不申皆々野住居申候
                   夜ニ入り少々雨ふり出し暮ツ比又ユリ
                   出し飯後之事故いつれも内ニ居
                   候處うらのよふ迯出し候 前右之次第
                   ニ付先立之鉄炮手畑尾連者吉田の
                   宿江泊り相尾連者同所町裏に
                   野陣 五日いたし平野連者吉田之二タ連ヲ
                   追越二タサシテ罷越候ヲ両連より
                   トテモ先■行候而も又営宿之程あて
                   ならす必定当所さへ格別宿なく
                   其上米等モ一向無之二タ連共ニ松平
                   伊豆守様へ筋之頼漸米俵ニ願受候
                   事ニ付当所江泊り候様呉々申聞
                   候へとも是非二タ川迄踏越候と
                   申候處人馬方役人江申聞早ク継立
                   呉候様申付候処右大変ニ而宿も
                   無之皆々野住いたし候故申聞候得共
                   押て罷越候事
                
                天三州十一月八日
                一、二タ川 白須賀一り十七丁
                   此宿江七ツ比着駅所江宿ヲカリ
                   呉候様頼候処御見懸之通り
                   町中明屋同前ニ而町宿者
                   一軒も無之トテモ野陣なしてハ
                   無之段申聞候付素より野陣ハ
                   覚悟之事故ツカへ不申段申聞
                   候処町うらに亀見山大岩寺ト
                   申寺ノ門前ニ陣まくを張り
                   駄つわ門ニ積置候處少し
                   空曇り自然夜中ニ雨ふり
                   出し候而者甚タ及難渋候ニ付
                   何卒此寺江本堂之脇江新堂ヲ
                   借り受呉候ニ付其処ニ承わり
                   又々ユリ夜分より四五度ユリ

                          (続)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井戸を掘ろう

2011-03-14 22:32:30 | 徒然

 「ぶらタモリ」ではなかったかと思うが、東京の下町の路地に手押しポンプの井戸があった。これが現役で使われていた。当然の事ながら飲料などで使われては居ないのだろうが、路地の水まきや、草木の水遣りなどには使われているのだろう。子供達の生活の中にも入り込んでいるような印象を受けた。
かっては一般家庭に存在したこのての井戸が全く姿を消した。
今では外国で井戸をほる活動で喜ばれている方も居られる。
蛇口をひねれば当たり前に水を得られる現在の生活だが、計画送電とやらで電気が止まると、下手をすると水道はストップしてしまう。ましてや地震・津波の被害地では道路は寸断され、給水車も入り込めないで水の重要さがクローズアップしてきた。水道だけにたよらない給水を考える時が来ているのではないか。
私は小学校単位くらいで、手押しポンプ式の井戸を準備すべきだとかねがね考えていた。(つるべ式でも良い) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E6%8A%BC%E3%81%97%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%97
非常用資材が置かれた倉庫が設けられている場所は絶対掘るべきだ。

熊本の地は水に恵まれていて、こんな話は馬鹿にされるけれども、教育的意味合いを含めて考慮すべきだと思っている。注意さえすれば素人でも掘れる。もう少し若ければ、「井戸を掘ろう活動」を興したいところだが・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

爺のたわごと

2011-03-14 17:07:37 | 徒然

 すっかりお化粧をし、ヘルメットをかぶった女性アナウンサーが、「ご注意下さい」と視聴者に向かって呼びかけていた。(スタジオも危険だったら、バックに居る全部の皆さんも被ればいかがですか。)
そしてあなたは誰に向かって叫んでいるのですか・・・
被災地ではあなたの声を受け止める手段がないのですよ・・・むなしい

 今朝TVをつけたらコマーシャルが飛び込んできた。
保険に旅行・マンション販売ときた。それはまずいだろうと思っていたら・・・暫くしたら消えた。どなたか噛み付いたのだろう。スポンサーが付かない報道番組は、お辛いでしょうが・・・
義捐金を呼びかけていらっしゃいますが、沢山の給料を貰っておられるらしいから、率先垂範沢山お出しになってください。

 東電は計画停電とやらで都市機能を一方的発表でストップさせるらしい。
福島原発では3号機も危ういという。非常発電の故障が生じたとき、早々の覚悟を決めて海水の注入など考えるべきではなかったのか・・・
もっとも故障に対する二の手、三の手は考えられなかったのか。電気屋が電気が故障では話にならないだろう。馬鹿馬鹿しくて苦笑してしまう。
そしてTVの解説に登場した専門家たちから、そんな提案の声は聞こえなかったように思う。
楽観論に過ぎた結果国家的非常事態となった。
東電首脳部はどうしている・・・・顔を出せ。

 TVの画面からタレントの声や姿が消えた。(しばらくゆっくりお休み下さい・・・)
これが数日後解禁になると、小ざかしくコメントを始めるのだろう。
芸能界のボスとか言う大物タレントさんなんぞは、その大いなる影響力を発揮して、身銭をきり仲間をつのり義捐金を集めるなど、先頭に立って頑張られたらいかがだろうか。数百万円の時計や数千万円の貴金属を身につけているタレントさんは、多いに義捐金を出されるべきだ。

 横綱白鵬が大量のインスタント食品を贈るとコメントした。
「お湯がないのによく考えて贈れ」と馬鹿が遠吠えしている。
こういう奴はPCの前に座り込んだままで、何にもせずにこういう馬鹿を云う。
町中に出て街頭募金でも始めろ。

 枝野氏が頑張っている。仙石でなくてよかった。年寄りでは身が持たない・・・・
菅さんも直接TVなどで多いに国民に話しかけるべきではないのか。
かっての市民派の顔じゃないなー。
(外国人からの献金問題の蔭が薄れて、ホッとしていたら・・・・・×)

 九州新幹線の全線開通は祝賀事業が全部ストップに成った。
案の定乗車率が悪い。ガラガラ状態だとも聞く。仕方がないことだが・・・・・
一方博多駅は大変な賑わいを見せているらしい。20数万人だとか
皆さん、街頭募金にご協力下さい。
一人100円で20万人だと・・・・2千万円ですよ、一月もやればすごいもんだ。 

 TV画面を見ていて気が付いた。自衛隊や消防、警察、地元消防団が集まって、地崩れの山から救出作業が行われている。ある自衛官の話を思い出した。救出作業は自衛隊が行い、対象者が発見されると自衛隊は後退してその後は消防の仕事、身元の確認や生死の確認などは警察が行うのだそうな。これは素晴らしい連携というべきなのか・・・ちょっと違う気がするけど・・・
 
 無事に避難した年老いたご婦人が、「長生きしすぎた、おかげでこんな目にあってしまった」と仰ったそうだ。(私は見ていないのだが)何と悲しい話だろうか。
「ご家族のためにも頑張ってください」という言葉が、なんと空しく聞こえることか。そのご家族が見つかる確率は・・・絶望的である。

 そんな中で南三陸町町長の生還は嬉しいニュースだった。まだ望みはある。
奇跡を信じて只祈るしかない。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永七年相州浦出陣東海道道中記(抜粋-安政大地震) -3

2011-03-14 10:15:14 | 歴史

                十一月五日
                尾州愛郡 名古屋城主六十万九千五百石 江戸八十六里廿一丁
                一宮、なるみ一里半一二丁 御用達大森仙左衛門
                  此処ニ八ツ比着船 桑名出船之砌者
                  役人より乗合人数改 船頭江賃銭
                  之外壱銭も渡不申候様之趣
                  重畳申渡候へとも是非仲中ニ而御
                  船玉江御神酒代等して少し充もらい
                  候故遣し候事 然ニ大森方ニ皆々
                  暫休いつれも熱田宮江参詣此社ハ
                  古太(ママ・織)田信長公今川義元公鳴海
                  御合戦之時御参詣被遊候御
                  宮之由ニ而御座候處 荒木・桜井
                  両人者宿ニ残り月代そり居り候處
                  アタマ半分覚ソリ居り候處
                  大ユリニ而勝而口より十四五間も間奥ニ
                  入込居り候故両人共ニ仰天いたし
                  其マヽ乱髪ニ而町江走出候処只々只々
                  ユリ方強ク又々老若男女顔色変じ
                  神仏江祈念之聲々ハゲ敷
                  世直し世直しと地ニ伏しトナへ半町計
                  ユリ日も早及暮候処御用達方裏
                  而より火事トヨバハリ候ニ付家ユリ
                  候中ニ荷物出火ニ逢候而者皆々
                  留守ニ而別而相済不申ト存両人
                  御用達手代四五人ニ而勝手ニ積置
                  候駄津ユラレナガラ外ノ様ナゲ
                  出し漸ク濱辺へ積置候處
                  又々つ波参り候と聢■■いたし
                  候故自然津波参候而者
                  難成と熱田宮馬場江御用達親類
                  候故此処ニ持越候様申聞候ニ付五六丁
                  計之処持越候処脇ニも皆々宮之様
                  持運ハコビ町中おし合へし合よふ
                  よふと荷物駕籠共ニ半分計持上
                  候得共宮参詣人々帰り不申
                  無人ニ而誠ニよふよふとハコヒ申候
                  処又々去ル人より濱手御用達之様
                  持かへし候様との儀ニ付猶持かへし
                  候而漸夕飯抔町中ニ而夕べ候処
                  無程沖ノ方ゴウゴウト海なり
                  するや津波来候ト一ドニどつと
                  さわぎ立親ハ子を負子ハ親を
                  負御宮ヲ差し而老若男女之なき
                  聲天地ヲサケビアハレ成事ニ而候
                  荒木桜井両人ハ大森方より彼方ソウ
                  ドヲノ内灯燈ニ火ヲ付ウスベリふとんヲ
                  取ようようと熱田宮江迯上り候
                  其夜松木之下ニ一夜明し市中之
                  人々社内廣キ故群集集致夜スカラ
                  火をタキ老若男女誠ニ見るニ
                  不忍哀レなる事筆紙ニ難盡
                一、宮之駅致而遊女多く有之処ニ而ユリ
                  不出前ハ所々楷ニ泊興之最中ニ而
                  藝古(ママ・子)舞(ママ・妓)遊女者勿論我をわす
                  れる泊興ニ乗しうたい舞
                  候中彼ノ地震ニ而皆々面見合セ
                  色を変しス呈ニテ迯出ス有サマ
                  前代未聞之事ニ而無之
                  此社ニ懸り石燈籠数多有之候得共
                  一トツモ倒不申アラタナル霊社ニ而候
                  宮宿之駅二合通り損し鳴滝の
                  方出切者四五十軒左右シヨキタヲシニ
                  タワレ候事 宮宿朝五ツ比出立
                尾州名古屋領
                一、鳴海 池鯉二里三十丁
                  此処山手ニ手至而軽クユリ格別家
                  損不申家財■敷出し野小屋懸
                  住居申候 宮より一り半之往還筋ハ
                  橋々損し小屋小屋数多候へとも茶屋
                  一軒モ無之仕度処なく            ・炊事場
                  桶狭間古戦場鳴海之先五日松ト云
                  処之先ニ往来筋壱丁計り右山テニ
                  入あり
                三州刈屋郡土井金三郎様一万三千石 江戸八十ニり
                一、池鯉鮒 岡崎三里三十丁
                  此処ニ昼仕度至当駅も
                  皆々門戸ヲ閉野住居候也
                一、矢矧橋弐百八間
                  此橋日本一之大橋之由 橋より岡崎
                  天守真向ニ見へ絶景也 此処ニテ
                  日本武尊御矢ハキ給由ニテ
                  矢矧ト云シヨシ 極て堅固ナル
                  橋ニ候得共二ヶ所地震之損クボミ候
                  尤矢矧ノ町ハ川端塘付ニテ
                  家数五百軒計崩損 間ニ者
                  メリ込言語道断之事候

                         (続) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉永七年相州浦出陣東海道道中記(抜粋-安政大地震) -2

2011-03-13 14:38:49 | 歴史

                一、長崎御奉行水野筑前守様行列も
                  先度之無差別散乱いたし
                  家来之中壱人怪我いたし足打折
                  気絶致し参人も壱人怪我いたし
                  私共御勢ハ多人数ニ候へとも天運強
                  不残無事ニ而よふよふと石薬師
                  之駅ニたとり付誠ニ古今無類の天変ニ而前代見分
                  之事共ニ御座候事
                勢州亀山領
                一、石薬師、四日市 二里十丁
                  此処ニ朝五ツ半比着 ■田中本田■之■
                  此宿之先ニ罷越候ニ付町口一丁計り入り居候処
                  市中之人々ケハ敷走出畑田中本丸かト
                  (判読不明)           地震ユリ
                  出し自然と強成市中江老若男女
                  群集いたし騒立テ水野殿下向
                  ニ付人足人馬段々セリ懸来り候
                  最中ニ而問屋場継立人足人馬
                  等入レ乱町中江迯出 元より人家畜
                  ユリ崩レ町中江ノ人込押分押分
                  よふよふと町迯江明家敷有所江
                  迯込候 然処只只地震強ク此処も
                  往来筋引割前条同様ニ而
                  当宿之人々案内怪我いたし候由
                  カツ又在方より人足罷出候者所々
                  方々と迯去り継前役人大イニ困り
                  暫し而漸ク継立罷越候處此先
                  往来損橋崩落候段駅役申聞
                  候之計 又暫彼之處水野■■ニ而
                  差速ニかり橋出来打越候
                勢州郡山領
                一、四日市、くわな 三里八丁
                  此処当六月十四日大地震壱番手強候由ニ而
                  神社佛閣寺院鳥井石燈籠等
                  ことごとく崩人家数千軒余之内三合通ハ
                  少し無難七合通ハ散々崩死人怪我人共ニ
                  七百余有之 其上過半焼失最ハヤ
                  新規出来之家段々有之 普仕(ママ)候
                  最中ニ候処又も十一月十四日之大地震ニユリ
                  崩レ家士中ニメリ込候ヶ所も有之
                  一軒も無難之家等無之惣躰此処
                  沼ニ而別而ユリ方強クあわれ
                  ハカなき事共ニテ候得共六月之
                  様ニは此処ハユリ不申由此節ハ各別
                  死人怪我人無之由 右之次第ニ而
                  炊火等一サイ難成煙草の火もなく
                  仕度所茶屋小屋等も一向無之
                  素より往来も留りこまりたる
                  道中ニ而御座候事

                             (続)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする