津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「吉田傳太復仇現聞禄」雑感

2011-04-06 17:30:31 | 徒然

 これは我が曽祖父が書き残したものであり、今まで真剣に読んだことがなかったのだが、いわゆる穿鑿役を勤めた人間が書き残したものだから、脚色されたものとは思われない。
事件のそもそもは、勤皇派の者が、横井小楠を殺害しようとして起こっている。殺された吉田平之助はいわばとばっちりを受けた人である。同席した都築四郎も刀を合せたが逃走したため、お咎めを受けた。その為に小楠にかかわる記述が多い。後に小楠を暗殺した刺客の一人柳田直蔵が持っていた「斬奸状」が取り上げられているが、これなどWEB上では公開されていないのではないか。又当現聞録においても、小楠の逃走の有様がリアルに記されており、いずれも小楠研究家にとっては、触れられたくない内容ではなかろうか。特に後者は、私も今般詳しく読んで知ったところであるが、果たしてそれが真実であるのかどうかはよく判らないし、反論も生ずるところであろう。このような次第でUPをいささかためらったが、私自身は他意はなく、黒瀬市郎助を調べる上で、たまたま曽祖父が書き残したものを資料として調べたものである。思い切って前後二回に亘ってご紹介する。

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「甘子」という食べ物

2011-04-06 08:32:53 | 徒然

 寛永八年十二月十七日忠利宛の三齋書状の中に、「甘子」というものを贈られた礼が記されている。「甘子一壷給候是又賞翫可申候」と本文にあり、紙面に書ききれずに文頭に追而書にて「甘子初而くい申候、事之外味勝申候、已上」とある。 綿考輯録-忠興公・下p176

 この甘子とは何だろうか。
国語辞典によるとまずはサケ科の淡水魚の「アマゴ」が登場する。Webで検索すると、紀州みかんの先祖ともされる「甘子=柑子」がでてくる。熊本が発祥とされる小みかんの事らしい。つぎには「甘子」をこうじと読ませるものがある。現在で云う「麹」であろうか。

 壷に入っていたところからすると、「甘子=麹」が妥当なところか。
白いご飯の上に乗せて食されたのであろう。「初而くい申候」というのが微笑ましい。

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「吉田傳太復仇現聞禄」を読む

2011-04-05 15:04:47 | 歴史

 ある方からのご依頼で黒瀬市郎助のことについて調べている。いわゆる横井小楠の「士道忘却事件」の発端となる殺傷事件の首謀者である。横井等三名が酒宴を張っているところを数名の刺客に襲われ、江戸留守居役の吉田平之助が大怪我をして後日死去、中小姓頭の都築四郎も傷を負い、横井は敵に立ち向かうことなく刀を取りにこの場を離れ、士道にあるまじき事として非難を受けた。亡くなった吉田平之助の子・己久馬(19歳、後・傳太)は苦労七年に及び、ついに黒瀬市郎助を豊後鶴崎にて敵を討った。

私事で恐縮だが、私の曽祖父(穿鑿役)がその顛末を「吉田傳太復仇現聞禄」として書き残しており、これが大変役に立った。(吉田傳太復仇一件聞取書というものもある)

この事件は横井の「士道忘却事件」としてクローズアップされるが、事件による処分や、傳太ら一族の苦労がかき消されている。この「吉田傳太復仇現聞禄」をご紹介しようと、タイピングに懸かったが、カナ使い文であるため大変苦労している。近々UPしたいと努力中である。

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中津から小倉へ、そして又

2011-04-05 11:18:28 | memo

 慶長五年の暮れも押し詰まった頃、豊前の太守として忠興は中津に入った。
六年の暮れには幽齋が初めて中津を訪れたことは先に書いた。
このとき忠興の弟・興元が出奔している。興元は小倉に在城していたが、松井氏とともに両家老職としなったが、陪臣となることに憤り「黒田甲斐守長政と密に諜し合せ、長政より小倉の大橋に迎舟を越され、大坂ニ遁れ被行候」という大事となった。
忠興が居城を小倉に動かすこととし、年明けには早速行動を起こしている。

「慶長七年小倉を御居城ニ可被成と被思召、正月十五日鍬初被仰付候、廿六七日之比、小倉ニ御越被成御縄張被仰付、御家中ニも丁場の割被仰付、其後も度々御出被成候」

「十一月中旬、小倉城御普請成就し、下旬御入城被成候 御普請相勤候面々御賞美の御意御座候 中ニも(有吉)武蔵守立行身代ニハ過分ニ人数持兼て心懸候故、軍役・普請等格別ニ手廻し宜敷被思召候由也」 綿考輯録-忠興公・上p418

中津城は与五郎興秋が城代を務めたが、後忠利の居城となった。忠利不在の時は志水宗加が預かった。

元和七年正月七日、嫡子忠利が家督すると忠興は中津へ移り忠利と入れ替わることとなる。一書に「六月廿三日、小倉より中津ニ御隠居被遊候、中津之御普請ハ五月より俄ニ被仰付候と云々、又六月三日小倉を御譲被成候とも有」とある。そして家臣のうち選抜された人々(三齋君ニ御奉公御知行被下置面々 143人・42,093石)が、中津へ移っていくのである。 綿考輯録-忠興公・下p106~

 

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与一郎忠隆君かこと

2011-04-04 09:17:27 | memo

与一郎忠隆君ハ福智山落城以後、丹波・丹後の堺高守城 宮津より五里、福智山より三里、大江山より弐里也、初の御城代ハ中嶋備中・荒木善兵衛也、備中ハ御ミつ様(忠利)へ御付江戸へ参り、善兵衛一人ニて守り候故、田辺御籠城の時ハ一所ニつほミ候也 に御座候処、御内室様御離縁の事より忠興君機嫌を被損、一生御牢人被成候也

加賀中納言利長の妹ハ忠隆君御内室なれとも、家康公仰ニて、御双方御縁者振不被候、然るに当(慶長五年)七月秀林院様御生害の時、忠隆君の御内室ハ加賀の屋舗ニ御立退被成候、忠興君是を被聞召、加々山少右衛門・牧新五を御使として与一郎様江被仰候ハ、今度其方室加賀の屋敷ニ被立退候儀幸と存候間、不通可被仕被仰遣候 御請ニ仰畏り奉存候、内々思召の如く存居候との事也、然処ニ頃日御内室京より高守へ無理ニ御越ニ付、さすが見はなし難く思召其儘被召置候を、忠興君御腹立ニて被成御座候、折節御国替にて候間、豊前江足ふミも無用たるへきと被仰出候、依之光寿院様なと御侘被成候へ共御合点なく、豊前江御下り候ハヽ御切腹可被仰付旨ニ御座候故、高守より直ニ加賀江御夫婦御越被成候 河北加兵衛 初名甚吉 達而御諫言申上候得共、御用ひ不被成候間無是非御供候一両年相勤、慶長八年ニ豊前ニ下り領地弐百石被下候、加賀にても家康公の思召を憚り金沢江ハ呼ひ不申、大聖寺ニ置申候而次第ニ不会釈ニ御座候故、又京ニ御上り、公儀江御訴訟之趣も有之候得共、御父と御不快の儀故格別に被仰付事難叶由ニ付、やかて御剃髪にて休無と御改め、京都ニ御住居被成候、後年ニ至り三齋君御和睦被成、忠利君より御知行三千石被遣候也
                    (綿考輯録-忠興公・上p388)

(寛永十九年)八月、休無様初而八代江御出被成、同冬御帰京之時ニ三齋君より守家之御腰物被進候            (綿考輯録-忠興公・下p305)

細川忠雄家譜は、綿考輯録では窺い知れぬ三齋と休無の関係について記述している。

     寛永九壬申年 忠利公肥後国御
     拝領其冬被遊 御入国 三齋様ハ八代
     之御城へ被為 入候依之追々従 三齋様
     休無様へ被仰進候ハ御子方御同道ニ而
     八代江御下り被成候様ニ左候ハゝ宇土八代
     六万石程御料地被進往々八代之御城江
     御住居被成候様被仰進候得共御料地等
     被進候との儀甚タ御事六ヶ敷思召候ニ

     付被押移御下向之儀御断被仰上置候
     処其後猶又被仰進候ハ御老年ニ被為成
     候ニ付甚タ御作事なく被思召上候ニ付暫
     御逗留ニ被成御下候様ニと被仰進候ニ付
     寛永十九年壬午年秋八月 休無様八代へ
     為 御見舞被成御下向候同冬二至り御帰京
     可被成由御暇被仰上候処 三齋様御意ニ
     直ニ爰元江被滞候へ左候ハゝ此前追々被仰

   
     進候通御料地等をも被進御子方も御下り
     候様ニ可被成旨被仰せ候処 休無様御更ニ
     思召之旨誠ニ忝奉存候へ共私男を止メ
     候
へ共曽而両地頭主ニ無御座候間御断申上
     度奉存候ト被仰上候処重而御意ニ其
     方存知候者去年な連ども両人之男子
     之為ニ候へ共是■其通ニ被致候へと被仰候
     ニ付忰共事迄被 思召 御懇意候段
     重■ニ取奉存候二付御更申上候筈ニ

     御座候得ども忰共迚も御本家之地を賛候儀於
     私心外ニ奉存候本家ニ奉公仕候身分之者ハ
     忠勤次第後栄の■め如何様之大禄之儀
     可被下儀ニ御座候へども於私共■■難仕奉存候先
     事段 将軍家も可被召出旨蒙御内意
     候得とも 此御内意本多佐渡守正信御取次有之由 男ヲ止メ候上者強而
     御断申上候子共儀ハ私没後従本家悪クハ
     致申間敷候私存生之間ハ只々今之通ニ而
     心安ク天年を終り申度奉存候間於此事

     ハ蒙御免度奉願候被仰上候 三齋様
     御意ニ于今始メ其方之気性なりとて
     御感賞被成為御餞別守家之御腰物
     被進候 守家御腰物ハ三齋様依御武功従秀忠公御拝領被成候を此節被進候 右之御腰物ハ
     休無様御歿後為遺物 光尚公江被差上
     候右之通御断被仰上御帰京被成候御離盃
     之節者御能被仰付候此節休無様者源
     氏供養を被遊候休無様御往来熊本ハ不

     被遊御通候御供之役頭ハ野中弥三右衛門被召連
     候 三齋様御目見被 仰付其方ハ熊本二罷出
     家老中江見廻候様被 仰付往々迚も御家
     老之儀麁略ニ不存訊向仕候様ニと被遊
     御意候其外士中御目見被仰付候

 寛永十九年八代における数ヶ月に及ぶ、三齋と休無の久闊をあたためる毎日は、どのようなものであったろうか。
 休無の来訪は、三齋のたっての願いであった事がわかる。そして其の目的は、八代領六万石の継承問題である。休無に是非とも継がせたいという、三齋の強い想いが家譜の記述に伺える。しかしながら休無はこれを断るのである。再三の説得が行われるが、休無の心は動かない。この前か跡かは定かではないが、休無の徳川家直臣としての召出しの話が、本多正信を介して進められていたらしい。これについても同様理由で断っている。休無はまさしく「無」の世界に生きている。これにより八代領の継承問題は、立允(細川立孝)へと傾いていくのである。休無が帰京してすぐ、証人として江戸ニあった立允が八代に帰るのである。私たちは忠隆(休無)を「運のない人」と見てこなかっただろうか。休無の心は崇高な世界に生き、満足の一生を終えたのであろう。(前出編集)

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忠興、伊丹(有岡)城から隠し逃がした人

2011-04-03 11:41:13 | 歴史

天正七年(1579)荒木村重は信長に対して反旗を翻す。綿考輯録は次のように記している。(忠興公・上 p17)

十一月、伊丹の城兵降を乞、城を渡し候、城主村重ハ去ル九月密に尼崎の城に遁入候
因茲信長公御下知に、伊丹城中の妻子等百五十余人を虜へ、其内村重か妻子一族三十余人ハ京都に引上せ、残る百廿余人ハ同十二月尼崎の城下七本松にて磔に掛られ候 城兵是を見聞して力を失ひ、忍ひ/\に逃落候間、村重も弥精力尽、高野山に忍ひ入候 此砌幼少の男子を忠興君ニ密ニ被預置候 後ニ荒木善兵衛と云 三十余人の者共ハ京都にて誅せられ候 其奉行として忠興君も御出被成候 女房共見知候而、与一郎様頼ミますると声々泣叫候
 
  明智左馬助に嫁せられ候光秀の息女ハ 織田信澄の妹、秀林院(ガラシャ)様の御妹
 
 初荒木村重の息新五郎村安ニ嫁娶也 村重反逆離縁有之、此故を以村重一類の女
  房共忠興君を見知候 哀なる事なりしと後にも度々御咄成候と也 右三十人の内、
  宗保か娘を乳母隠し置、後織田信澄の傍に召仕候を、明智光春の内方へ被遣、亦忠
  興君の御前様へ被遣候、おこほ殿を産たるお藤是なり、後松の丸殿と云
、寛永六年六
  月十九日豊前小倉にて死去

 

荒木善兵衛は21年後の慶長五年(1600)、預かっていた高守城を引き払い田邊城の幽齋の元に駆けつけ、共に籠城して戦うことになる。

一方松の丸殿(藤)は3年後の天正十年(1582)、のちに松井興長の室となる古保を出産(綿考輯録忠興公・上 p43)、
寛永六年六月十九日豊前小倉にて死去す。福岡県史・近世史料編-細川小倉藩に詳しい。

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愛書家の皆様へ 読むべし

2011-04-02 14:58:11 | 徒然

 光文社からのメールマガジンを読んでいたら、面白い話や、身につまされる話が載っている。愛書家の皆様には是非ともお読みいただいて、地震でも起きた場合に圧死しないように、予防策を講じられることをお勧めする。

   ▽『光文社新書メールマガジン』に関する各種手続き、FAQはこちら。
  (登録、情報の変更、ID・パスワード確認、退会など)
        津々堂は光文社の回し者では有りません。ご理解下さい。
       
http://www.kobunsha.com/special/sinsyo/member/


連載「読書の苦しみ」

   「どうしてこうなってしまったのか 心に傷みを感じながら」
   ――吉田拓郎の歌のフレーズが今の自分の気持ちにぴったりくる。
   心が傷むのは、わが蔵書の現状に、である。本が増え過ぎてしまったのだ。

   推定蔵書数2万冊、今も年間3000冊増え続ける著者が綴る、
   苦しくもおかしい格闘の日々。

>> 【第1話】 底が抜けた
~ 光文社新書メールマガジン 2010.10.26 配信 ~
>> 【第2話】 究極の蔵書整理術
~ 光文社新書メールマガジン 2010.11.29 配信 ~
>> 【第3話】 蔵書は処分するためにある
~ 光文社新書メールマガジン 2010.12.24 配信 ~
>> 【第4話】 どうすれば理想の読書空間が作れるのか
~ 光文社新書メールマガジン 2011.01.25 配信 ~
>> 【第5話】 本棚をめぐる冒険
~ 光文社新書メールマガジン 2011.02.25 配信 ~
>> 【第6話】 地震がやってきた(特別編)
~ 光文社新書メールマガジン 2011.03.25 配信 ~

ここに出てくる草森紳一著 随筆「本が崩れる」 (文春新書)をぜひ読みたいものだ。
【著者】
岡崎武志(おかざきたけし)/1957年大阪府枚方市生まれ。ライター、書評家。
書評を中心に執筆活動を続ける。著書に『読書の腕前』(光文社新書)、『気まぐれ古書店紀行』(工作舎)、『古本生活読本』『古本極楽ガイド』『古本でお散歩』(以上、ちくま文庫)、『文庫本雑学ノート』(ダイヤモンド社)、角田光代との共著『古本道場』(ポプラ社)などがある。
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2011-04-02 11:19:50 | 俳句

                       震災の春や桜の悲しかり

 所用で外出してみると、あちこちの桜が七~八分咲きに咲いています。
東京の石原都知事が、被災地の皆さんの心中をおもんばかって、花見の自粛を訴えていましたが、その是非はともかくお気持ちは理解できます。日本人は聡明ですから、こんな時期どんちゃん騒ぎは絶対しないと思いますね~。
それにしても、美しい桜の色の今年のなんと悲しく感じることか。散るころにはまた一段とそんな想いが深まることでしょう。
被災者の皆様に一分・一秒もはやく、安らいだ気持ちの訪れが来るように願わずにいられません。

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景勝追討の折の指物など

2011-04-02 09:12:35 | memo

 先に大坂の陣における細川家の馬験について書いたが、慶長五年徳川家康の上杉景勝追討に細川与一郎(忠隆)出陣の折、忠興が与一郎に与えた「定条々」の別紙「覚」に、馬験その他に関する記述があった。(綿考輯録-忠興一・p190)

                     覚
一、折かけきぬ三、はゞ長サ弐間五寸、但紺にすちかへて二筋白く可付、先ニ面々の紋可置事
一、さし物、色紺、絹のたけ三本なから四尺たるへし、上之ぬいめより壱寸おきて、面々の紋を紙をいためて
   金箔を置、紋付へし、但絹一はいに有ことく大きに可付事
一、鉄炮放し、具足をきせす、もめん道服をきさすへし、但せなかに夫々の紋白付へし、色ハこいあさきたる
   へし、広そてたけハ、ひざふしたけにすへき事
一、笠いためがはニてすべし、うつくしく黒クぬりて、金ニてそれ/\の紋前後にはばかる程に可付事
一、鑓しるしゆるし候衆より外ハ庭鳥の尾たるへし、白尾をませ候事禁制、但ゆるし候衆も別之鑓しるし不
   可付、庭鳥の尾付度衆ハ、主次第たるへき事、付しるしは鑓のつばさきより弐尺下ニ可付事
       慶長五年六月十六日                忠興君 御判
                      与一郎殿

 大変きらびやかな様が伺えるし、細やかな指示は茶人三齋を彷彿とさせる。

付けたし
六月廿三日与一郎忠隆宮津を出陳
        長岡玄蕃、同与五郎(興秋)、松井新太郎興長、米田助右衛門是政、同与七郎是季、
        有吉与太郎康政

        番頭:篠山与四郎宗信、荒川少兵衛輝宗
        鉄炮頭:西郡大炊清忠、白杉少助、水嶋源助
        田邊御人数:長岡与十郎
                  同 平左衛門好重
六月廿七日忠興君宮津御首途
        御万様以之外御煩故御見合被成今日迄御延引也
 (お万は慶長三年生まれ。、このときは二・三歳である。生母は明智次左衛門女・小やゝ 戦いの最中は田邊城に逃れたのだろうか?)

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幽齋公の居館

2011-04-01 09:33:38 | memo

 田邊城籠城で疲れが出たのか、幽齋は慶長六年二月下旬「以之外御煩被成候」となり、忠興は「早速御上被成」見舞っている。四月には御本復祝が執り行われた。

 慶長五年の暮忠興は豊前に入国するが、幽齋が初めて豊前を訪ねたのは一年ほどを経た、慶長六年十二月中旬である。豊前中津に「所々之御城代各中津にいたり、御目見候」とある。そんな中島津龍伯(義久)や加藤清正をはじめ、近隣の諸侯が挨拶に訪れている。

 忠興は豊前(後)に住まうように薦めている。
「豊後国国東郡富来(トミク)城ハ要害堅固の地形なる故、御居城可然かと忠興君より被仰上候へ共、都遠地なる故、直に洛外吉田に御隠棲可被成旨被仰候」(綿考輯録・藤孝p279)

     www.hb.pei.jp/shiro/bungo/tomiku-jyo/thumb/

 この京都吉田とは、「吉田の御館ハ随神庵と名付られ候」と綿考輯録は記す(p278)が、場所の特定ができないでいる。綿考輯録は、「吉田の御館ハ神竜院の前ニ在、号風車軒と云々」とも記す。幽齋女・伊也は吉田兼治に嫁いで吉田神社・神龍院で没している。いずれにしろ、女・伊也の近くに住まいが在った事は間違いなさそうだ。

 ちなみに吉田神社には、吉田兼倶をまつる神龍社というものが在る。

     http://www5.ocn.ne.jp/~yosida/gosaijinn.htm

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