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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

陸上自衛隊第八師団/北熊本駐屯地-防衛館 特別企画「仏画展」 

2011-04-13 17:48:22 | 熊本

熊本市横手在住の田中美佐子氏の作によるチベット仏画等の展覧が、4月18日より5月15日の予定で行われます。
又、大変珍しい「横矢旗」(山崎合戦図:矢野派による武者絵)も展示予定です。


  〈出展者紹介〉
 田中美佐子 女史 (熊本市横手町在住)

  ・小堀墨秀氏に師事 (日本画)
  ・高井玄氏に師事 (仏画)
  ・現代創像美術展2回入選
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お勧め・歴史系WEB

2011-04-13 11:45:34 | 徒然

「島津家メモ」というサイトがある。島津家がメインであることは勿論だが、細川家のことがかなり取り上げられている。随分一級資料を読み込んでおられる。
       http://zatukaiko.blog.shinobi.jp/Entry/163/

洒脱な解説も面白い。ご一見を・・・・・

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佐久間氏関係論考- 2

2011-04-13 08:37:33 | 歴史

「佐久間象山の系譜、そのルーツを語る」 

 

                                                                      吉原 実

                                                          石川郷土史学会会誌第36号

  

ここ信濃が誇る幕末の偉人佐久間象山の系譜を遡ると、江戸の初期に飯山を治めた佐久間備前守安政に行き着く。安政は戦国の雄、織田信長の家臣であった。その一族は織田家宿老・佐久間信盛や金沢城主・佐久間盛政など、戦国史上に登場する人物を輩出した尾張・佐久間氏である。祖先は源頼朝のもと、鎌倉幕府創設に大きく貢献した相模の豪族三浦氏と言われる。

 『寛政重修諸家譜』など多くの系図によれば鎌倉初期、頼朝より三浦氏の一族が安房国佐久間(千葉県安房郡鋸南町)の地を賜り、その地名を取って三浦姓を佐久間に変えたとされる。そして後に、その一族の後裔が尾張国・御器所(ごきそ・名古屋市昭和区)に地頭として赴任、尾張・佐久間氏の始祖となったと言われている。

 三浦氏の研究は地元神奈川県を中心にして大変活発で多くの史料や文献があり、これらを利用しながら佐久間一族のルーツについて詳しく検証して行く。

先ずは日本史上における平安期、関東(坂東)地方に興る武士団に付いて述べなければならない。武士団とは血縁関係を中心にして、自らが新しい土地を開墾私領とし、国衙在庁官人らと結びつき多くの特権を得て在庁領主的な姿となり、それらの特権を守る為に武技を練り、血縁者や多くの家子・郎党を抱え、党と呼ぶ戦闘集団を形成したものである。そして党の中心には家督の相続人である嫡子が置かれた。

 この様な武士団のひとつである三浦氏の姓(かばね)は平安遷都した第五十代桓武天皇の子孫、桓武平氏である。かばねとは元皇子、皇女等の皇族が臣籍降下(天皇の家臣になる)する時に、天皇より源朝臣(あそん)や平朝臣などの姓(せい)を賜るのである。継嗣令といわれ親王から五世までは王と称することが定められているが、皇族の数が多くなるにつれ費用がかさむため、経済上の理由から賜姓し独立させるのである。

 桓武天皇の場合、その子葛原親王から高見王、高望王と続きこの高望王が臣籍降下し、平高望と名乗り東国(坂東)の任国へ赴いたのである。その子には後の平清盛や北条時政たちの祖となる国香、良兼、良正や天慶(てんぎょう)の乱を起こす平将門の父にあたる良将、そして五男の良文が三浦氏の祖と言われている。良文は下総の相馬郡の所領を根拠地とし、武蔵国大里郡村岡(埼玉県熊谷市付近)を開拓し、村岡五郎良文と名乗っていた。その勢力は次第に相模の方にも拡大していき、一族はやがて坂東八平氏と呼ばれる千葉、大庭、長尾、秩父、上総、土肥、梶原、三浦の諸氏に分かれて行ったのである。そして清和天皇を祖とする武蔵介源経基やその子孫たちと密接に結びつき、源頼義の代には東北陸奥の安倍氏との戦い(前九年ノ役)に出陣、その中には平公義、為通の名もあった。為通には恩賞として相模国三浦郡(神奈川県三浦半島内)が与えられ、三浦平太郎為通と名乗るようになったのである。

 三浦氏の菩提寺である満昌寺(神奈川県横須賀市)には次のように伝わっている。

             雲竜山満昌寺縁起

 

抑三浦一党之系本者、桓武天皇人王五十代葛原親王一品式部卿之末葉三浦平太郎為通也、夫為通者、後冷泉院後宇康平年中、将軍伊予守源頼義、奉レ詔而征= 安部貞任 之時、為通属 頼義公 有 軍忠 、故為 恩賞 、領 相州三浦 始号 三浦 。

 

 それから二十年後、頼義の子八幡太郎源義家が陸奥守として赴任した時、出羽の清原氏の内紛に端を発した戦いが起こった(後三年ノ役)である。清原清衛を助けた源義家軍の中には三浦太郎為通、同平太郎為継親子の名が見られる。

やがて中央では長い間、皇室の外戚として政治を思うままに動かしてきた藤原氏に代わり上皇による院政が始まった。源義家の孫で院に仕える為義の子義朝の代には、三浦氏も為継の子義継とその子義明が一族の中心となっていたのである。その活躍の様子は、天養二年(1145)源義朝の郎党や国衙在庁官人の一味として三浦庄司平吉次男同吉明が伊勢神宮領大庭御厨(おおばみくりや)に浸入したと『天養記』に載っている。

 義明は国司の次官で、国衙の実務を掌握する有力在庁官人である三浦介(通称で大介とも)呼ばれている。中央でも大きく力を延ばそうとした源義朝は、保元ノ乱では父と兄弟を自らの手で殺すことになり、次に起こった平治ノ乱では戦に敗れ東国へ逃れる途中に命を落としてしまう。その子頼朝は捕らえられ伊豆に流され、義朝方に加わっていた三浦義明の子義澄は、からくも東国へ逃れることができ、平家治世の時にはその家人として一族も生き残っていくのである。その間には大番役などで京の間を行き来しながら、中央の情勢を伊豆にいる頼朝に伝えている事が多くの文献の中に見られる。やがて治承四年(1180)源頼朝の旗揚げに応じた義明、義澄たち三浦一族は、石橋山ノ合戦には参加できずにその居城である衣笠城に拠ったが、平家軍の追撃を受け義明は討ち死にし、義澄は頼朝と共に安房国へ海路逃れ、やがて鎌倉入りを果たすのである。その後、頼朝に従い壇ノ浦合戦など数々の平家との戦いに参加した三浦一族は義明の兄弟達や子ども達が分立し、三浦半島各地の所領を分与されて土地の名を名字とする家を興している。義明の孫で義澄の甥にあたる義盛は和田を名乗り鎌倉幕府初代の侍所別当となっている。他には津久井(義行)、芦名(為清)、大多和(義久)、多々良(義春)、長井(義季)、佐原(義連)などがある。

その勢力は三浦半島のみならず、相模国中央部(現在の平塚市や海老名市など)や安房国(房総半島の内房佐久間ルーツの地、鋸南町など)にもおよんでいた。

これは三浦一族が三浦水軍と呼ばれる規模と機能を持っていたゆえであり、それを裏付けるように源平合戦の壇ノ浦海戦で三浦義澄が中心となって源義経の将として活躍している様子が『吾妻鏡』に詳しく書かれている。これは多くの水軍(兵船)と共に三浦半島より海路をとって西下したと考えられるのである。

やがて鎌倉幕府成立後、頼朝御家人の中でも三浦氏は北条氏と並ぶ力を持つことになる。その中、頼朝の政権樹立に大きく貢献した三浦義明の孫、家村は安房国佐久間荘に住んで佐久間太郎家村と名乗り佐久間氏の始祖となった。

 ますます将軍頼朝の信頼を得た三浦一族は大きく発展をとげ、二代将軍頼家の重臣として仕えた義澄、その後を継ぎ相模守護となったその子義村は、娘を北条義時の子泰時に嫁がせ二人の間には時氏が生れている。しかし、この北条氏と三浦氏の蜜月時代は長く続かず、幕府内の権力を独占しょうとした義時は建保元年(1213)、和田義盛を挑発して蜂起させた。建保ノ乱である。

三浦一族の長である義村は、従兄弟にあたる同族和田義盛に同心を約束しながら直前に裏切り北条方についた。あまりにも巨大になりすぎた三浦氏、そのため庶流が力をつけすぎ嫡流の意のままにならなくなる等の弊害が出て、その事が一族間の亀裂を生む事となったのである。結果、義盛始めその子常盛など一族与党ことごとく討ち死にし、和田方の敗北に終わったのである。

この時の一族である三浦義村の行動は、「三浦の犬は友をも食らう」と大変な批判を浴びたと『古今著聞集』に書かれている。この時、和田方で生き残った義盛の孫、朝盛は安房へ逃れ、一族の佐久間家村の養子となったと伝わる。

その八年後の承久三年(1221)、京の後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が関東諸士にもたらされた。承久ノ乱と呼ばれるこの時、京方として倒幕に参加していた三浦義村の弟胤義から義村に同調するようにとの密書が送られたが、義村はそれを義時に差し出し、幕府軍に参加するのである。先の戦いでは従兄弟である義盛を、今度は弟の胤義までも犠牲にして一族を守ろうとしたのである。佐久間朝盛は京方として参陣したが、その子家盛は幕府軍として宇治川合戦で戦功をたてた様子が『吾妻鏡』や『承久兵乱記』に描かれている。その恩賞として戦後に上総国興津と尾張国御器所を与えられ、家盛はその子、重貞と勝正をそれぞれの城主としたと伝わる。重貞については『日蓮年譜』に「上総国興津邑主佐久間重貞、妙覚寺を創建する」と記されている。

さて京方として敗れた朝盛はどうなったのであろうか。一説によると越後国奥山荘へ逃れたとある。この地は和田義盛の弟、義茂が木曽義仲追討の恩賞として与えられた土地でその後、子である重茂が領した。この人物は建保ノ乱では幕府方として、義盛の子朝夷奈義秀と組み討ちして首を取られている。

従兄弟同士で殺しあうという現代の我々には想像のつかないことだが、この奥山の和田氏を朝盛が頼った事は納得がいくことである。ちなみに後、この奥山の和田氏の子孫は三浦和田と珍しい姓が二重になる名を名乗り、やがて越後の名族中条氏や黒川氏の祖となり残っていくのである。ところで佐久間姓を初めて名乗った家村が住した佐久間荘は現在どのようになっているのであろうか。

千葉県JR内房線勝山駅付近を下佐久間、それより東方を中佐久間、山を越して上佐久間、さらに奥山と呼ぶを含めて佐久間郷は広く、佐久間姓を名乗る家はこの奥山に数家あるだけと聞く。佐久間川という小さな川が流れている何処にでもあるような田舎の風景が続くそうである。

 一方、尾張・御器所に移った佐久間氏を初めて史料で確認できるのは、建治元年(1275)に発給された『六条八幡宮造営注文』によってである。これは幕府政所が、京の六条若宮再建費用を全国の御家人に出させた時に作られた名簿であり、鎌倉内の御家人、在京御家人、各国人衆とに分けて書かれており、その尾張分の中に、佐久間二郎兵衛入道三貫とある。この人物が朝盛なのか次の家盛なのかはっきりしないが、佐久間氏が建治元年には尾張の地頭であったことは確かなようである。

 次に今も名古屋市昭和区御器所にある佐久間一族の氏神であった御器所八幡宮(当時は八所大明神と呼ばれていた)に嘉吉元年(1441)の銘のある棟札が残っている。これによるとこの年、佐久間美作守上臈と同□上臈永相が檀那になって社殿を造立した事がわかる。現在は熱田神宮宝物館に保管されている。また、八幡宮の近くにある佐久間一族の菩提寺、龍興寺に残る文書は文安三年(1446)、佐久間孫五郎助安(美作守と同族と思われる)を民部丞にとの足利幕府に対する吹挙状であり、吹挙者は文書の花押より熱田社大宮司千秋(せんしゅう)持季と思われる。千秋氏は後の戦国時代に織田家臣として信長の元で活躍し、佐久間氏とも姻戚関係になる一族である。

 京都相国寺塔頭鹿苑院蔭凉軒主の日記である『蔭凉軒日録』や愛知県知多郡東浦町緒川の乾坤院(けっこんいん)所蔵『血脈集』にも次の記述が見られる。

寛正二・三年(1461・62)に御器所の佐久間美作守と熱田社の地下人との間で盗み馬の事でトラブルが起き、その事が幕府内でも問題視されたというもので、その際に恵雲院領・尾州御器所の佐久間がこの事件で欠所地処分(所領没収)を受ける事になった場合に恵雲院領分が巻き添えにされる事を懸念しているもので、これから佐久間美作守が相国寺の塔頭と思われる恵雲院の御器所の所領代官を請け負っていた事が考えられる。

 また前出の龍興寺に、一つの位牌が残っている。「龍興寺殿半入玄心居士 城主佐久間大学 天文八巳亥(1539)十一月廿八日」これは佐久間氏の始祖家村から数えて十二代目にあたる盛通だと思われる。盛通には四人の子がありそれぞれが、当時尾張で台頭してきた織田信秀に仕えた。その長子が盛明で、政明、政実、政勝と続き、後に徳川家の旗本となる。二男が盛経でその子が、信長の名が知れ渡る桶狭間合戦で討ち死にする大学盛重である。三男の朝信の子が織田家宿老として数々の戦で活躍し、石山本願寺攻め総大将にまでなりながら後に織田家を追われた信盛である。四男は朝次と言い、その子が御器所城主の盛次である。そしてこの盛次と織田家家臣団筆頭の柴田勝家の妹との間に生れたのが盛政、安政、勝政、勝之の四人兄弟である。柴田勝家と羽柴秀吉が信長亡き後の覇権を争った賤ヶ岳合戦で盛政と勝政は死んだが、安政、勝之は生き抜きそれぞれが徳川幕臣となり、安政は飯山藩主に勝之は長沼藩主になったのである。しかし残念な事に当時の事情で両藩とも数代で改易となり、大名としての存続はできなかったが、安政の娘の嫁ぎ先が佐久間の名跡を引き継いだ事により、後に佐久間象山という偉大な人物を輩出することができたのである。

 このように佐久間氏は、平安期に関東で平氏の一族として誕生し、鎌倉幕府創設に尽力し絶大な力を誇った三浦氏、北条氏と死闘を繰り広げた和田氏と姓を変えながら連綿と武士の世を生き抜き、尾張に勢力を誇る一族となったものだったのである。作家・楠戸義昭氏がその著書『戦国佐久間一族』の中で言うように、枝葉であった佐久間氏と同様に、一本の大木の根や幹であった三浦氏と和田氏も、幾多の盛衰を繰り返しながら血脈を保ってきたのであろうか。尾張に行かずに安房に残った佐久間一族の者たちも、彼らと運命を共にしたのであろう。歴史とは個々の部族や個人の歩みの積み重ねによって作られる物なのかもしれない。我が家の家紋が、遠く三浦氏や和田氏の旗印や佐久間象山の胸に輝いていた物だと思うとその歴史と謂れに、大きな誇りと後世に伝えるべき重い責任を感じざるをえない。

 参考文献

 

『三浦党の後裔 鬼玄蕃と学者象山(佐久間氏)』 多々良四郎著

                          丸井図書出版

『戦国 佐久間一族』 楠戸義昭著 新人物往来社

 

『三浦一族研究』創刊~八号 三浦一族研究会

 

『相模 三浦一族』 奥富敬之著 新人物往来社 

 

『科野佐々礼石』 橘鎮兄著 會眞堂

 

『三浦大介義明とその一族』 三浦大介義明公八百年祭実行委員会編

  

 

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明良洪範を読む

2011-04-12 19:00:46 | 徒然

          http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000123834

いつから読めるようになったのか、国立図書館の「近代デジタルライブラリー」で「明良洪範」が読めるようになった。皆様ご存知でしたか・・・

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佐久間氏関係論考- 1

2011-04-12 15:32:32 | 歴史

「柴田・佐久間・吉原氏の系譜 近江高島、幡岳寺資料を中心にして」 

                                 

                               吉原 実

 

                        

世に言う「宝治合戦」で北条得宗家によって滅ぼされた三浦一族の事は、NHK大河ドラマ「北条時宗」の中でも描かれて記憶に新しい。その庶流と言われ波乱の時代を生き抜き、戦国の世には尾張織田家臣の中で宿老佐久間信盛や金沢城主となった佐久間盛政などを輩出した佐久間氏、そして姻戚関係にあった柴田氏は、賎ヶ岳ノ合戦以降、歴史の表舞台より姿を消したが、その系譜は絶える事なく現在に至っている。

天正八年(1580)八月、佐久間信盛は織田家より追放され天正十一年四月、北近江の地で起こった賎ヶ岳ノ合戦では、柴田方が大敗。勝家、お市の方は北ノ庄城で自害し、甥である佐久間盛政は合戦後、京で斬首され、弟の勝政は討ち死にと言う柴田・佐久間両氏にとって信じられぬような結末で終わったのであった。しかし、兄盛政に従い合戦に参加したすぐ下の弟安政は生き延び、その後佐々成政の婿養子として越中にいた一番下の弟勝之と行動を共にする事となった。 

二人は戦乱厳しい世を北条氏政、蒲生氏郷、豊臣秀吉と主を換えながら、慶長五年(1600)の関ヶ原ノ合戦には、それぞれ近江の小河・山路〔滋賀県東近江市〕領主として東軍徳川方に参陣、合戦後安政には近江高島〔滋賀県高島市〕の地が加増され、高島藩一万八千石の大名となったのである。その地に安政は叔父柴田勝家、叔母お市の方たちの菩提を弔う為、幡岳寺を建立したのである。

そして大坂夏の陣の翌年元和二年(1616)、安政は信濃飯山(長野県飯山市)三万二千石、勝之は信濃長沼(長野県長野市)一万八千石へそれぞれ移封させられた。幡岳寺のある近江高島の地は飛び地となり代官所が置かれたのである。又、菩提寺として、飯山には大聖寺が、江戸には広岳院が建立された。安政の飯山佐久間家は長男勝宗が早世し、二男安長が二代目藩主となった。しかしこの安長も二十二才で没し、その子安次がわずか四才で家督を継いだが、五年後の寛永十五年(1638)に病没し、無嗣絶家してしまったのである。佐久間家の名跡だけは、安政の娘の嫁ぎ先であった長沼藩士岩間家を佐久間と名乗らせ残す事となった。安政の血は途中で絶えたが、この家は後に松代藩士として幕末を迎え、佐久間象山を輩出して佐久間の名を再び歴史の表舞台に登場させたのである。

近江高島の地にも安政の一流が残り現在に至っている。安政の子、久左衛門を初代に、飯山佐久間家一門の重臣となり、廃藩後は高島に土着し残った吉原久左衛門家である。この家は柴田勝家の武将で天正九年(1581)に加賀国鳥越城守将として一向衆の為に討ち死にしたとされる吉原次朗兵衛の一族とも考えられるのである。幡岳寺の位牌堂には柴田・佐久間両氏の位牌と共に佐久間氏の家紋でもある、丸に三引き両の付いた吉原一族の

位牌も並んでいる。

一方、勝之の長沼佐久間家は勝之が寛永十一年に没し、その子勝友が家督を継ぎ、勝豊、勝茲と続いたが貞享五年(1688)、五代将軍綱吉の御側小姓を命じられた勝茲は病と称して出仕せずそれを幕府にとがめられ改易となってしまった。しかし、その系譜は小林伝

兵衛家始め数家に分かれて現在に至っているのである。   

琵琶湖を望む北近江の地で、一族の者しか入ることのできぬ位牌堂に、ひっそりと眠る柴田・佐久間・吉原一族の霊位。今回幡岳寺の御好意により初めて筆者が過去帳と位牌より人物比定する事ができ、以下はその結果である。(戒名の中の年を表す十二支に誤字がみられるが、あえて過去帳のままとした。)

 

「幡岳寺殿籌山勝公大居士  天正十一年四月二十四日」

   柴田勝家。命日は北ノ庄城落城の日である。幡岳とは勝家の号と言われている。

   位牌も現存している。 

「東禅院殿直伝貞正大姉   勝家公御室   十九日」

   勝家の室と言うのであるならば、幡岳寺の建立意図からしてもお市の方であろう。 

   命日が勝家と違っているが。  

「英伯善俊大禅定門  佐久間久右衛門  大膳正父  九日」

   大膳正(亮)勝之の父ならば久右衛門盛次だが、この戒名は勝之の兄、金沢城主で 

   あった玄蕃盛政のものである。命日は天正十一年(1583)五月十二日と言われ

   ている。

「隠桂貞久大姉  大膳正母  二十七日」

   勝之の母ならば盛次の室で柴田勝家の妹、末森殿である。

   盛政、安政、勝政の母でもある。

「當寺開基徳翁院殿功岸玄忠大居士 佐久間備前守  寛永四年丁卯四月二十五日」

   飯山藩主であった佐久間久右衛門安政。盛次の二男。

   位牌も現存している。

「光寿院殿久昌理遠大姉  玄忠御室  寛永二十年二月二十日」

   安政の室。公家、勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)の娘。

 

「清雲院殿義同三司孤月西円大居士  光寿院父 八日」 

   正親町(おおぎまち)天皇の武家伝奏であった公家の勧修寺晴豊。

  「義」は「儀」、「西円」は「円晴」とも。「三司」とは唐名(からな・中国での

   官職の呼び方)で左・右大臣や太政大臣を表し「義同三司」でそれら大臣に准ずる

   高い位の者と言うことになる。公家独特の戒名である。

   命日は慶長七年(1602)十二月八日で五十九歳で没した。

   没後内大臣になった。日記「晴豊記」を遺す。誠仁(まれひと)親王の義兄、後陽

   成(ごようぜい)天皇の叔父にあたる。

  「寿光院殿天長貞久大姉   光寿院母  二十四日」

    勧修寺晴豊の妻と言う事ならば従三位刑部卿であった土御門有修(つちみかど

ありのぶ)の娘、修子(しゅうし)である。

    関白・近衛前久(このえ さきひさ)の姪にあたる。

 

  「玉風院殿前光禄公泰山正安大居士  佐久間大膳勝正

                      寛永十一年甲戌十一月十二日」

    長沼藩初代藩主勝之。「風」は「鳳」が正しいと思われる。「光禄」は唐名で

    大膳亮のことである。勝正という諱(いみな)も持っていたのであろうか。

    墓所は駿府・顕光寺と言われている。この人が寛永年間に寄進した大灯籠が東京・寛永寺、名古屋・熱田神宮、京都・南禅寺にそれぞれ現存している。

  

  「剛岳善金大禅定門   勝正の兄  十日」

     この戒名は盛政らの父、佐久間久右衛門盛次のものである。

     尾張国御器所城主であったが、永禄十一年(1568)足利義昭上洛の折、

六角氏との戦いで、近江・箕作城攻めで討ち死にしたと言われている。

「金道剛国大居士」や「善金」とも。

 

  「多福院殿前日州輝雲宗光大居士  佐久間日向守  十二日」

     飯山二代目藩主安長。安政の二男で室は徳川秀忠三臣の一人、井上正就

     の娘である。「輝」は「蓮」が正しいと思われる。寛永九年(1632)

     四月十二日没。二十二才。江戸高輪・泉岳寺の戒名は「蓮雲宗光多福院」

     となっている。

  「大龍院殿関叟玄鉄大居士  佐久間大膳嫡子  三日」 

     勝之の長男の勝利(年)。父に先立ち寛永七年九月二十八日に没した事に

     なっている。幡岳寺に埋葬されたそうだが確認することができない。

 

「正覚院殿直心伝性居士  佐久間織部  元禄辛未  一月一日」

   織部となっているが勝之の二男で長沼二代目藩主となった蔵人勝友である。

   寛永十九年七月一日に没した。位牌も現存している。

   江戸高輪・広岳院での戒名は「直心伝性正覚院」となっている

   

「大通院智岩浄勝居士   佐久間織部  元禄辛未  一月二日」

   長沼四代目藩主となった織部勝茲(かつちか)である。

   元禄四年(1691)一月二日に二十三才で没した。秋月佐渡守種信の

   五男で三代目藩主勝豊の養子となった人である。位牌も現存している。

墓は奥州・二本松(福島県二本松市)の龍泉寺に現存している。     

 

「宗叟善智大禅定門   柴田帯刀  二十一日」

  柴田帯刀(たてわき)勝次である。佐久間盛次の三男で叔父柴田勝家の

  養子となった越前勝山城主、柴田三左衛門勝政(勝安)の次男。

  勝政は静ヶ岳ノ合戦で討ち死にしたと言われているが、その子勝重、勝次

  は北ノ庄城落城の前夜、お市の方の三人の娘共々逃れたそうである。

  徳川期には越前藩主・結城秀康、松平忠直二代に渡り二千石で仕えている。

  慶長年間に没し、叔父にあたる安政が供養のために建てた笏谷石の石塔が幡岳寺に現存している。この石は足羽山(福井市)が原産と言われるので、福井より持ってきたものであろうか。

 

「来応道本居士   吉原久左衛門   寛永十二年九月三日」

  安政の子と伝わっている。諱(いみな)は不明である。吉原家の過去帳には

  「元祖」と書かれているので佐久間家より分家したものであろうか。

  佐久間一門として柴田・佐久間氏と常に行動を共にしていたのであろう。

  筆者の十二代前の祖である。奥州・二本松(福島県二本松市)に全く同じ戒名が記された墓石が現存している。長沼藩に仕官していたのかも知れない。   

 

曹洞宗 金剛山幡岳寺(滋賀県高島市マキノ町中庄)  

開基は佐久間備前守安政。開山は無外桂言。慶長年間に建立された

と言われている。本堂や位牌堂は一般開放されていない。

 

        

これら幡岳寺過去帳の戒名の中に筆者が今まで知りえなかった意外な事実が含まれていたのである。それは、安政の室が正親町天皇の武家伝奏として織田信長と再三交渉にあたった勧修寺晴豊の娘と書かれている事である。その上、晴豊自身やその妻の戒名までかかれているのである。しかし、数ある史料の中では佐久間安政の室は紀伊の守護畠山氏の家臣で、後に信長に臣従した保田知宗の娘となっている。安政自身も保田安政と名乗って婿養子となっていた時期もあったのである。それを裏付けるように、安政の長子とされ元和二年(1616)に早世した勝宗は、その名に「宗」の一字が付いており母方の祖父にあたる保田知宗の一字を付けたとも考えられるのである。

史料によると、天正十八年(1590)の小田原・北条氏滅亡の後、安政・勝之は姓を佐久間に復しているので恐らくこの時までは、安政の室が知宗の娘であった事は間違いないのではないだろうか。そして、数年の後、従五位下備前守に叙任され徳川の大名となった安政は改めて晴豊の娘を正室に迎えたのではないだろうか。

勧修寺家も晴豊の代から後陽成天皇の武家伝奏となった子息光豊の代となり、益々佐久間家との繋がりも深まっていったのではないだろうか。安政の弟勝之の長沼藩三代目藩主となった勝豊誕生の折、姻戚関係にあった勧修寺家より「豊」の一字が与えられたと考えることもできるのではないだろうか。一方、晴豊の娘が安政に嫁いだという事は勧修寺家側の史料によっても確認する事ができ、それを幡岳寺の過去帳によって裏付けたと言う結果になったのである。そしてこの事が佐久間氏研究の今後の道標となる事と大いに期待をかけたいものである。

最後に、今回筆者の為に貴重な時間を割き全般にわたり御教示下さった元石川県立図書館史料編さん室の瀬戸薫氏に心より感謝申し上げたい。特に勧修寺家側史料による確認は瀬戸氏によってなされたものである。 

 

                参考文献

   「寛政重修諸家譜」巻第五百三十三第九 続群書類従完成会

   「寛永諸家系図伝 三」  続群書類従完成会

   「尾張群書系図部集 上」 続群書類従完成会

   「信濃佐々礼石 中」 橘鎮兄著  会真堂

   「飯山町誌 第五章 佐久間領の飯山」 飯山市教育委員会編

   「佐久間系図」 続群書類従巻第五百八十六 二十下

   「小林伝兵衛家々譜」 千葉県佐久間凡雄氏 提供

   「織田信長家臣人名辞典」 谷口克広著 吉川弘文館

   「マキノ町誌」 マキノ町誌編さん委員会編

   「越登賀三州志」 富田景周著 石川県図書館協会

   「系図纂要 第五冊上 藤原氏七」 名著出版

   「長野県史」 近世史料編第八巻

   「藩史大事典」 第三巻 雄山閣

   「郷土歴史大事典 滋賀県」 平凡社

   「天正十年夏ノ記」 岳 宏一郎著 講談社

   「佐久間軍記」 続群書類従完成会

   「結城秀康給帳」

「源忠直公御家中給帳」

   「三浦党の後裔」 多々良四郎著 丸井図書出版

   「三浦一族研究」 三浦一族研究会編

   「二本松市史」 福島県二本松市教育委員会編

   「二本松寺院物語」 平島郡三郎著 歴史図書社

 

            石川県郷土史学会々誌第34号掲載

 

 

  尚、以下に柴田・佐久間氏関係図が紹介されているが、表示不能である為、後日改めてご紹介する。 

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佐久間氏関係論考・三件

2011-04-12 09:09:37 | 歴史

 明日から三回に亘って佐久間氏に係る論考三件をご紹介する。金沢にお住まいの吉原氏は佐久間一族吉原氏のご子孫である。ご厚誼をいただいていたが当方のPCの不具合が生じた時、住所録やメールアドレスを失くしてしまい連絡をとれずにいたが、今般ご連絡をいただき旧に復した。

 熊本にも佐久間氏のご子孫が居られる。佐久間正頼なる人物が加藤清正に仕え、後細川家臣となっている。また茶人として高名な佐久間不干斎は、三齋忠興と大変親しく手紙のやり取りなどの消息が伺える。また不干斎の書状がオークションにかけられた際、内膳家のJHさまからご連絡を頂戴して、久野氏研究家にご連絡した処、宛名の人久野氏のご子孫にご連絡が廻り、この貴重な資料が久野氏の所有されることになった。見事な連携プレーであった。その経緯は何度かこのブログでもご紹介したが、主なるものをご紹介しておく。
http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/1a059e0ea82b92e6a3960431a41849ab     http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/bfb8dfb8cafea74b502e63bd9cfbb540

 佐々家といえば、熊本人はよく承知しているつもりでいるが、佐々勝之という人物については意外とご存じない。もともとは佐久間氏、佐々成政の養子となったが後離縁して佐久間姓に戻った佐々勝之である。この勝之が竹田永翁(豊臣秀頼重臣--松井家家臣竹田氏祖)を討ち取った人なのだが、いろいろ因縁浅からぬものがある。

ご紹介する論考には、「佐久間象山」が登場するが、これとて細川藩士河上彦斎の手により暗殺された巨人である。嗚呼・・・・以下ご紹介する論考は次の三点である。

   ■ 佐久間・柴田・吉原氏の系譜、近江高島幡岳寺資料を中心にして.
   ■ 佐久間象山の系譜、そのルーツを語る.
   ■ 金沢城主・佐久間盛政その名跡に関する一考察.

追記:その後二件の論考をお送りいただいたので、是も合せてご紹介する。
        ■江戸初期における近世小大名の実態 信濃飯山・長沼両佐久間家について
   ■金沢の歴史と歩んだ先祖たち

 

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鸚鵡籠中記

2011-04-11 11:07:29 | 歴史

 「鸚鵡籠中記」というものがある。詳細はウイキペディアに委ねることにする。
      ja.wikipedia.org/wiki/鸚鵡籠中記

 細川綱利が柳沢吉保の三男を、養子に迎えようとしていたという話の出所はここである。何故尾張藩の下級藩士である朝日重章の著にこの様なことが記されているのか、大変不思議ではある。養子の件は本当の話なのか・・・細川家に於いての資料が見えないので、いささか眉唾に思えてきた。先にご紹介した、東大史料編纂所の福留真紀氏の論考「諸大名からみた柳沢吉保の政治権力 : 柳沢家家老藪田重守宛書状から」を読むと、一段とその感を深めざるを得ない。
      http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/15/kiyo0015-fukutome.pdf

 しかしながら上記論考にもあるとおり、綱利が柳沢吉保に異常なほど接近していたことは事実であるし、吉保の肝煎りにより家老薮田重守の養子・外記を800石で召出したということも、その一端をうかがわせている。「火のないところに煙はたたぬ」の例え通り、何かがなければ尾張藩の一介の下級藩士が記録に留めることは無いのではないか・・・

 この養子一件については過去においては、いささか断定的な事を書いてきたが、上記論考を拝見していささかの後悔の念を強くしている。恥ずかしながら「鸚鵡籠中記」を直接読んでいないということも、気がとがめるところではある。

       蛇足:六義園の枝垂れ桜は今頃が満開なのだろう。一度拝見したいものだ。

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Webで東大史料編纂所所報から「細川家史料」(解説)を読む

2011-04-10 09:12:13 | 歴史

大日本近世史料「細川家史料一」
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/04/pub_kinsei-hosokawa-01.html

大日本近世史料「細川家史料二」
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/05/pub_kinsei-hosokawa-02.html

大日本近世史料「細川家史料三」
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/07/pub_kinsei-hosokawa-03.html

大日本近世史料「細川家史料四」
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/09/pub_kinsei-hosokawa-04.html

大日本近世史料「細川家史料五」
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/11/pub_kinsei-hosokawa-05.html

大日本近世史料「細川家史料六」
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/13/pub_kinsei-hosokawa-06.html

大日本近世史料「細川家史料」七
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/15/pub_kinsei-hosokawa-07.html

大日本近世史料「細川家史料」八
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/17/pub_kinsei-hosokawa-08.html

大日本近世史料「細川家史料」九
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/19/pub_kinsei-hosokawa-09.html

大日本近世史料「細川家史料十」
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/21/pub_kinsei-hosokawa-10.html

大日本近世史料「細川家史料」十一
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/23/pub_kinsei-hosokawa-11.html

大日本近世史料「細川家史料」十二
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/25/pub_kinsei-hosokawa-12.html

大日本近世史料 細川家史料 十三
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/27/pub_kinsei-hosokawa-13.html

大日本近世史料 細川家史料 十四
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/29/pub_kinsei-hosokawa-14.html

大日本近世史料 細川家史料 十五
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/31/pub_kinsei-hosokawa-15.html

大日本近世史料 細川家史料 十六
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/33/pub_kinsei-hosokawa-16.html

大日本近世史料 細川家史料 十七
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/35/pub_kinsei-hosokawa-17.html

大日本近世史料 細川家史料 十八
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/37/pub_kinsei-hosokawa-18.html

大日本近世史料  細川家史料 十九
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/39/pub_kinsei-hosokawa-19.html

大日本近世史料 細川家史料 二十
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/41/pub_kinsei-hosokawa-20.html

大日本近世史料 細川家史料 二十一
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/43/pub_kinsei-hosokawa-21.html

■加藤秀幸 細川三齋忠興の衣料等よりの考察
     http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/21/syoho0021-kato.pdf

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Webで東大史料編纂所紀要を読む

2011-04-09 20:13:21 | 歴史


1、福留真紀  諸大名からみた柳沢吉保の政治権力 : 柳沢家家老藪田重守宛書状から
      http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/15/kiyo0015-fukutome.pdf

2、金子 拓   室町幕府最末期の奉公衆三淵藤英
      http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/12/kiyo0012-kaneko.pdf

3、小宮木代良  松井文書」写真帳仮目録の作成
      http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/06/kiyo0006-komiya.pdf
      
4、保谷 徹   熊本藩士木村鉄太渡航談聞書 : 万延元年遣米使節随員への聞取書
      http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/05/kiyo0005-hoya.pdf

5、橋本政宜  関白近衛前久の京都出奔
      http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/04/kiyo0004-hashimoto.pdf

6、山本博文  近世初期の老中発給文書と月番制
      http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/02/kiyo0002-yamamoto.pdf

  

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講演会出席

2011-04-09 20:00:53 | 熊本

                 水野勝之・福田正秀共著 加藤清正「妻子」の研究

昨日来の雨は上がってよいお天気、沢山の皆さんが花見がてらであろうか、熊本城を目指しておられる。「一億総逼塞」状態はよくない。こういう機会を得て大いに外出して、勉強することは大いに結構なことである。市民会館(崇城大学市民ホール)で開かれた、福田正秀氏の講演「加藤清正の妻と姫たちの戦国」を拝聴すべく外出した。氏の講演には何度か出席させていただいているが、度重なるごとに充実していることが伺える。熊本城顕彰会発行の機関紙「熊本城」(年四回発行・会費1,500円/年)に11回に渡り「加藤清正の妻子」を連載されてこられ、2/22号で最終回を迎えたが、今後視点を変えて又連載が始まるようだ。大変楽しみだし、皆様のご加入をお勧めする。

         財団法人・熊本城顕彰会
             熊本市花畑町3-1 熊本市役所花畑町別館3階
                                096-352-2975
             年会費1,500円(上記機関紙が送られてきます)

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永青文庫叢書 細川家文書 絵図・地図・指図編Ⅰ

2011-04-08 13:54:14 | 書籍・読書

 熊本大学の永青文庫研究センター編の、「永青文庫叢書 細川家文書 絵図・地図・指図編Ⅰ」が発売された。
             http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b81815.html

【中・近世屈指の大名家に伝来する最大級の資料群 細川家の政治活動と伝統文化を知る待望の第二冊!】
        25,000円+税 といささか高価であるが、是非とも手元におきたい書籍である。

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吉田傳太復仇現聞録(2)

2011-04-08 08:29:50 | 歴史

堤即夜登上ス 安田外長土ノ浪士ノ数名ト同行昼夜兼行東京ニ着シ日夜横井ノ動静ヲ窺フ時ニ黒瀬市郎助 外様足軽東京留守居ノ書記吉田平之助付属也 モ同ク尊皇攘夷ノ志ヲ有スル同志ノ者也 故ニ黒瀬■前ノ横井ヲ初メ吉田・都筑(築)ノ者共或夜酒楼ニ登リ愉快ヲ尽ス事我既ニ探知スト此事ヲ堤ニ密告ス 堤聞テ時至レリト歓躍シ彼日ヲ待テ三名ト共ニ彼ノ酒楼ニ駆ケ来リ前陳ノ通リ退散シタリト初ヨリ都築吉田ハ殺害スル存念ハナカリシモ横井上座ニ連席スルガ為メニ如斯次第ニ立至リタリト 時ニ戸外ニ應援ニ来リ居タル長土ノ同浪士等堤等ノ出来タルヲ見テ事遂ケタルヤ如何ト尋ネタルニ堤云フ余過テリ残念ニモ横井ハ足早クモ逃去リト 長土人云今前キニ手拭ヲ肩ニ掛ケ手ヲ下ケ腰ヲ屈メ声低メ御免下ダサイト云テ通リ行キシハ真ノ町人ト思イシニ彼者ガ横井ナルカ僕等早クモ横井ナル事ヲ覚ラバ逃サシモノヲ彼等ガ運命未タ盡ズト云 堤ハ横井ヲ討洩シタル事悔恨シ安田・黒瀬ニ向テ云フニ余何ノ面目アリテ再ビ長土の同志者ヲ見ンヤ 従是西京南禅寺山中ニ赴キ割腹シ死謝セント 安田・黒瀬ノ両人君死セハ倶ニ死ヲ同セント 堤ハ両人ヲ止メテ君等必後日大志ヲ遂ケヨトテ堤又云我自謂フニ横井ハ実ニ国賊ト云ト雖モ世禄ノ士也吉田モ亦同シ 我卑賤ノ身分ヲ以テ不憚上殺害ニ及ビタル其罪亦軽カラザルナリ 今也上(カミ)ニ 上トハ正四位様詔邦公ナリ 上京南禅寺ニ在陣マシマス同所ニ赴キ遥拝萬謝屠腹セハ罪少シク補フ處アラント云 訣別シテ厺リ馳セ行キテ同寺中観音堂ニ至リ辞世一首ヲ詠遥ニ君公ヲ三拝九拝シ畢テ従容刀ヲ抜キテ咽ヲ刺ス 殊エズ堂上ヨリ土上ニ転落シ流血淋■ニ溢レ惣身血ニ塗ミレ倒レ居タルヲ南禅寺在陣番士隊ノ家僕等ガ山中ニ採薪ノ路上ニ此形況ヲ見テ驚愕シ帰リテ蕃士等ニ告グ 皆疾歩シテ往テ之ヲ見レバ現ニ家僕ノ告ク如ク満身血ニ浸リ顔色容貌異形立テ正視スル能ハズト 後長州ノ人来リ見テ同所ニ埋葬スト 故ニ人ト評シ云前日屠腹シタル者ハ長藩ノ人士ナラント然ルニ後考ルニ堤ノ横井ヲ殺害スル時應接ニ来リシ長州人某ガ堤ガ自裁シタル事ヲ聞テ来リ見シニ果シテ言フ処ニ違ハザルヲ憐ミ感シテ斯ク埋葬シタルト 必ヤ然ラン 今ヤ安田・黒瀬ノ両人ノ居処ヲ知ラズト云 穿鑿役具ニ健太郎ノ申出タル始末趣ニ聞取リ之ヲ政府ニ達ス 政府ヨリモ又傳太ニ内報ス 此ニ至リテ初テ吉田傳太モ父ノ讐ハ全ク安田・黒瀬両人タル事ヲ確知シ益以テ切歯扼腕一日モ早ク復仇シ本望ヲ遂ケント八方探索セシモ時運未到来セズ徒ニ怨ヲ含テ空ク光陰ヲ送ル 数年時ニ慶應戊辰ノ年余護美公ニ扈従シ上京シ外交兼務ヲ被命益田勇外交生ナリ 勇或日大坂旅舎ニ於テ松藩士某ト出會時事ヲ談ス 某ハ本日本国ニ帰ント別ヲ告グ 将ニ■ヲ觧キ大阪川口ヲ出帆セントスルニ偶風雨■ニ起テ抜錨スル能ハズト 再ビ上陸シ来リ益田ニ向イ突然問テ云ニ頓斗尋ヌル事忘レタリ時ニ尊藩ニ安田善助・黒瀬市郎助ト称スル人アリヤ否ヤト 益田アリト云其故如何ト某云フ 両人ノ幣藩ニ滞在スル事数年ナリ時々両人ノ得色ノ英談ニハ僕等客年東京ニ於テ因循ノ留守居等ヲ斬殺シタル事アリ一面来数年ヲ經ルモ人其事ヲ知ラズト真ニ此事アリタルヤ 益(田)答テ云実ニ此事アリ當時留守居ハ吉田平之助ト云長男吉田傳太復仇ノ為メニ千辛萬苦焦思此万心探索スルトモ未タ讐敵ノ姓名ヲ聞テ其ノ■(モノ)ノ居ル処ヲ聞知セズト 事ノ始末ヲ詳陳シ畢テ益田■事ノ他ニ洩露ナカラン事ヲ固ク倚頼ス 某モ始終ヲ聞テ唯諾シテ帰藩ス 益田其事ヲ政府ニ内達シ又吉田ニ密報ス 傳太之ヲ聞テ雀躍限リナク数年ノ大望漸ク今日ニ達スト 直ニ若黨ノ辰之助ヲ連レ松山藩ニ赴ク 同藩ハ官軍ニ抗敵シタルニ付偶本日開城ノ日ニ當り藩内騒擾セリ 然共某違約セズ黒瀬ヲ放逸セズ乗船セシメ将ニ鶴崎ニ送付セントスル船中ニ逢フト時ニ安田ハ前ノ日病死セリト 黒瀬ノ一人ヲ陰ニ請取リ連レ来リテ鶴崎町龍興寺ニ伴ヒ出ン 吉田傳太進ミ出テ黒瀬ニ向イ姓名ヲ述テ貴様黒瀬市郎助ハ正シク實父吉田平之助ノ讐敵也 直ニ勝負ヲ決セント云 黒瀬臆シテ姓名ヲ云ズ 偶鶴崎詰ノ郡代瀬戸熊助ハ其場ニ出役セシニ黒瀬ガ臆シテ名乗出ザルヲ見テ瀬戸黒瀬ニ向イ今更ニ瀬戸見知ザルヤト云 黒瀬俛首シテ答ザリシガ暫時ニシテ姓名ヲ述ブ 吉田尚進ミテ黒瀬ニ向イ然ハ勝負ヲ決セント云テ終ニ斬之 嘗テ黒瀬ハ瀬戸熊助物頭ヲ勤居タル時ノ隊下ナルヲ以テ如此叱言セシナリト 故ニ黒瀬其言ニ服セリト 于時慶應戊辰ノ年二月ノ三日也 主此都合七ケ年間星霜ヲ踏テ漸ク本望ヲ達シ首級ヲ亡父吉田平之助ノ墳前ニ供シ墳霊ヲ慰安セシメタリ 人皆之ヲ快トセザルハナシ 尋テ従政府傳太ノ復仇ヲ遂ケタルヲ以テ家禄如元恩下シ賜リト也 誠ニ天道(網)快々疎ニシテ漏サズトハ此謂也
      于時明治三拾年三月四日          ■■安正記ス
 

                              (了) 

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陸上自衛隊第八師団/北熊本駐屯地「防衛館」

2011-04-07 13:07:52 | 熊本

             http://www.mod.go.jp/gsdf/wae/8d/sta/kitakuma/mein/mein.html       
 
 先にご紹介したが、陸上自衛隊第八師団・北熊本駐屯地内に、郷土資料館「防衛館」がオープンした。
北熊本駐屯地の公式ホームページのコンテンツに、その「防衛館」がUPされた。

今般の東北地方の大震災を受けて、熊本からも多くの隊員の皆様が派遣されて、懸命の支援活動をされている。天皇陛下のお言葉ではないが、私達は素直にそのご努力に感謝の意を表するべきではないのか。自衛隊がもっと身近なものと成るためにも、今般の郷土資料館「防衛館」のオープンは有意義である。熊本の歴史を経年的に見れるこのような施設は他に類を見ない。駐屯地は今桜が満開だが、恒例の観桜会も取り止めとなった。お花見がてら多くの皆様が足を運ばれて、御覧いただく事をお勧めする。

           ちょっとツイート
               ちなみに駐屯地司令は、細川藩家老有吉家の直系のご子孫、有吉登聖准将である。         

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春の難敵

2011-04-07 09:57:44 | 徒然

 この時期になると、私は家族のひんしゅくを買うことになる。花粉症による大くしゃみである。これは我慢してもらうしかないのだが、当人は鼻水だらだら(失礼)で、ゴミ箱はティッシュの山と相成る。一両日のうちに鼻の周りはがばがばとなり、皮がむけだすとなんとも無様な面容となり外出もままならない。目もしょぼしょぼ状態で、手でこするので眼球全体が痛くてしょうがない。言上に及ぶと「PCやめたらどう?」と奥方のクレームが付きそうなのでこれは禁句である。今朝は起き掛け早々にシャワーに及んだが、幸いなことにまだくしゃみに至っていない。風向きのせいでもあろうか。ただ・・目が痛い。間伐などで手入れが届いた杉山では、花粉の発生は少ないと聞いたことがある。輸入材が安く入り、林業が立ち行かなくなって山は荒廃が進んでいる。これがスギ花粉にも関係しているのだろうか。花粉症もそんな時代を反映した現代病なのであろう。あと一月ばかり我が家族には、私の天地を揺るがすようなくしゃみで迷惑をかけることになる。

                   小国なる杉の美林や大くさめ  津々

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吉田傳太復仇現聞録(1)

2011-04-07 08:25:19 | 歴史

古人云天道(網)恢々疎ニシテ不漏トハ信ナル哉 吉田傳太去ル慶應元戊辰ノ年其ノ日旧藩主細川公旧領地今ヤ豊後国大分縣鶴崎龍興寺ニ於テ復讐ヲ遂タル始末ヲ原ルニ傳太ノ父ヲ平之助ト云 實ハ上羽蔀ノ第三子ニシテ 蔀ハ感公在世ニ用人ヲ勤メタル一ノ人物ナリ 吉田某ノ養子トナリ禄百五十石ヲ領ス 平之助天資明敏吏事二長ス 初メ穿鑿役トナリ郡代トナル 功續アリ 平之助築キタル所ノ新地今尚下益城郡松橋ニ在リテ新地嚆矢トス 累進シテ東京留守居役ヲ勤ル中文久二年十二月九日ノ夜当時用人ノ谷内蔵之允・中小姓頭ノ都築四郎・横井平四郎 
其砌越前春嶽公平四郎ハ通穪號小楠維新ノ初メ聘セラレ居タリ参與職ニ被任 明治二年一月一日参内ノ途上郡山藩士柳田直蔵ヨリ殺害ニ遇フ 直蔵懐中ノ書アリ其趣意ニ云 
横井平四郎此者是迄ノ奸計ハ不逞枚挙候得姑■舎之今般夷賊ニ同心シテ天主教ヲ海内エ蔓延セシメントス 邪教蔓延致候節ハ皇国ヲ外夷ノ物ト相成ス事顕然朝廷御当用之人材ヲ及殺害事深ク奉恐入候得共賣国之姦臣要路ニ塞リ居候得者前条ノ第ニ立至リ候故不得止加天罰者天下有志人 又小楠ノ所著ノ天道革命アリ其ノ論ニ云夫レ宇宙ノ間山川草木人獣之属アル猶人身四支百骸有ルガ如シ 宇宙ノ理ヲ不知者ハ首足ノ具アルヲ不知ニ異ナル事ナシ 然ハ宇宙ニアル所諸万国皆是一身体而無人我無親疎ノ理ヲ明ニシ内外同一ナル事ヲ審ニスベシ 古ヨリ英明ノ主威徳宇宙ニ溥ク万国帰嚮スルニ至ル者ハ其胸闊達物トシテ容サルナク事トシテ取ラサルナシ 其他慈他慈育心口天下異ナル事ナキナリ 如此ニシテ世界之主蒼生之君ト可云也 其身小ニシテ一体一物ノ理ヲ知サルハ猶全身ノ痿テ疾痛疴痒ヲ覚ユルト同シ百世身ヲ終ルマデ觧悟ナス事能ハス 亦可不憫乎抑我日本ノ如キ頑固固陋世々帝王血脈相傳エ賢愚之無差別其位ヲ犯シ其国ヲ私シテ如此無忌憚嗚呼是私心浅見ノ甚シキ可勝慨歎乎 然ニ堂々タル神州三千年皇統一系万国ニ卓越ス国ナリト 其心實ニ愚昧猥ニ億兆蒼生之上ニ居而己ナラス 僅ニ三千年ナル者ヲ以テ無窮トシ後世又如此トシ思フ 夫レ人世三千年ノ如キハ天道一瞬目ノ如シ 正与三千年ヲ以テ大數トシ又後世無窮ト云事ヲ得ンヤ 其興廃存亡人意ヲ以テ可計知乎今日ノ如キ実ニ天地開闢以来興廃気運ナルカ故ニ海外ノ諸国ニ於テ天理自然ニ本キ觧悟発明文化ノ域ニ至ラントスル 国不少唯日本■示タル孤島ニ拠テ帝王不代汚隆ナキノ国ト思イ暴悪愚昧ノ君ト雖モ尭舜湯武ノ禅譲放伐ヲ得事能ハズ 甚亡滅ヲトル心セリ 速ニ固陋積弊ノ大害ヲ攘除シ天道無窮大意ニ本キ狐見ヲ看破シ宇宙第一国トナラン事ヲ欲セズンバアルべカラズ 如此ヲ推窮シテハ遂ニ大活眼ノ域ニ至ラシムル者乎方今改進自由ノ両黨派タル者多クハ横井門ニ出ル
四名ト東京府下酒楼ニ於テ平之助ノ出京ヲ命セラレタル離盃ノ宴會を催シ居タル内内蔵之允ハ突然御用ノ事起リ前キニ帰リシニ平之助・平四郎・四郎ノ三人ハ残リ居テ酒汲シ酒宴ノ最中何者カ面躰ヲ隠シタル者三人ノ者抜刀ニテ駆込ミ来リ斬リ懸リタルニ平四郎ハ逸シ早クモ逃走シ四郎ハ手ヲ負イナガラ遁逃シ平之助ハ踏ミ止リ相働キ所々ニ重創ヲ蒙リタルニモ不屈奮闘シタルゾ 三名者共其侭退散シタリト 平之助ハ一旦宿所ニ帰タルモ無程重創ノ為メニ死亡セリ 誠ニ其場ノ事タルヤ不慮ノ出来事ニテ何者ノ何ノ意恨ニテ如斯狼藉ニ及ビタルヤ其事實一切分明ナラズ 其後平四郎ハ士道忘却致シ国辱ニモ係ル譴責ヲ蒙リ士席被差放都築ハ知行被没収平之助ハ前条ノ通リ相働キ死亡致タルニヨリ特典ヲ以テ家禄扶助米八人口ヲ被下付セラレタリ 却説平之助ニ男子二人アリ 吉田己久馬當年十九歳 後傳左衛門後ニ傳太ト改名ス 二男平太郎ト云 幼少復讐場不■ 傳太憤慨復讐ノ念ヲ起シ若黨田中辰之助 辰之助ハ一季抱ノ若黨ニテ平之助召連上京変後平之助怪我ヲ手厚介抱行届キ又傳太復仇ノ際迄始末附添イ専助力致タルニ付後従政府其志操ヲ被賞特別ヲ以一領一匹ニ被召加タル也 夫ヨリ津本又助ト変名シ或ル時ハ平民ノ姿トナリ或ハ又深網傘ヲ冠リ虚無僧ノ形トナリ種々ニ容貌ヲ変態シ国中ハ云ニ及ハズ東西ノ両京ヲ初メ邊土口ニテ所衆人ノ輻輳スル處ハ往テ探ラザルハナク親族等ノ者共ニ至ルマデ同心協力百方手ヲ分ケ探索スルモ一向ニ相分ラズ時ニ上羽清八ハ平之助實方ノ甥ナルガ復仇憂念ノ切迫ノ情ヨリ発狂家出其終處ヲ知ラズト云 傳太ハ清八ノ脱走スルノ情ヲ察シテ復仇ノ念益ニ切ナリ 時ニ客年東京白金邸ニテ輕輩ノ者ニ入江某ト云者故アリテ同役ノ某ヲ誤リテ邸内ヲ脱走シ竊ニ熊本ニ立戻リ妻ヲ連レ長男健太郎ハ其侭残シ置キ其妻ヲ連レ立去リタリ 偶文久三年九月両公子 護久公・護美公 上京セラル當時天下ノ形勢不穏二ヨリ無足者多人数召連ラレタリ 安野小屋之助モ其人数ニ加リタリ 同人右謙(ママ)太郎ヲ供人ニ連レ上京シタルニ健太郎一日洛中ヲ見物ニ行キ居タル処不斗両親ニ行キ逢イ互ニ歓ビ其場ヨリ謙太郎モ両親ニ連ラレ京地ヲ立退キ豊後国府ニ行キ相暮居ル内同所ハ其當時旧幕ヨリ諸浪人ヲ厳密ニ探偵シ或ハ捕縛シ或ハ放逐スル等厳敷如何ニモ潜伏成リ難カリシニヨリ両親ハ逸早ク立退キシニ健太郎一人残居タルニ依リ捕縛セラレ於同所被糾明タル処健太郎ハ決テ諸浮浪躰ノ者ト交接ナシタル自分ノ者ニハ無之段逐一素性迄モ明白ニ申出タルニ付府内ヨリ熊本藩廰エ護送セラレ直ニ熊本監獄へ入監セラレタリ 依テ精ニ穿鑿等被遂タル処結局健太郎ハ他藩ノ浪士共トハ一向ニ出會セズ肥後国脱走之者安田喜助・黒瀬市郎助ト於府内テハ専ラ出會致居タルト重テ穿鑿役ヨリ安田・黒瀬両人者如何ナル者ニテ如何ナル譯ニテ府内ニ参リ居タル歟ト被尋問タルニ此両人ハ客年於東京表吉田平之助ヲ殺害シ其後各所ニ潜伏シタルト 尚穿鑿役ヨリ吉田平之助ニハ何ノ遺恨ヲ以テ殺害致タル歟ト詰問セラレタルニ依リテ健太郎委細申出タル次第ニハ先ツ根元ノ大趣意ハ旧藩脱走ノ者堤松左衛門 外様足軽ハ兼テ尊王攘夷ノ志ヲ抱キ亡命シ長州ニ赴ク 當時轟武兵衛・川上玄斉同席ス 同所ニ於テ土州長州其外初版脱走ノ勤皇家大勢集會シ時躰ヲ論スルニ議論區々ニシテ一決セザリシ 結句ノ論二説ニ別レ一説ニハ兵庫開港ノ御運ニ至ラハ皇国ハ終ニ外夷ノ為ニ壓制セラル事必然ノ勢也ト 然ル兵庫ニ異国船停泊スルノ機ニ投シ挺身刀ヲ揮テ醜虜ヲ掃壌スルニ加カシト 又ハ一■ニ開港ヲ主張スル巨魁横井平四郎ヲ斬害シセンカ此二策ノ内一ニ決スルヨリ他謀ナシ 併シ五六輩ノ醜夷等ヲ討戮センヨリ寧ニ開港ヲ主唱スル横井ヲ誅戮シテ其根元首謀者ヲ滅絶スルニ如カズト議 此三決ス時ニ堤坐アリ進ミ出テ身不肖ナリト雖モ幣藩ヨリ出タル横井ヲ斬戮スル何ゾ他藩ノ人ノ手ヲ借ランヤ吾請フ先ツ往テ横井ヲ刺シ諸子ハ余ガ後ヨリ来リ援セヨト云 堤ノ決心顔色ニ顕ル 一坐皆其議ニ賛同ス

                          (続く)

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