津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

けたくざか にぎめかちゅしてもくすれば にぎめごろごろ さかひょごまえ

2012-10-18 13:38:22 | 徒然

 熊本人でも理解しかねるが、熊本弁でもない不思議な歌である。
参勤交代の行列は花畑邸を出ると城内に入り、桜の馬場から慶宅坂を登って二ノ丸に入り、北の御門を出た。まっすぐ進めば豊前街道であり、急坂の観音坂を下ると豊後街道へ至る。現在はあまり知る人も少なくなったが、熊本城周辺から京町台にかけて、多くの坂があり日常に使われていた。

この歌はその慶宅坂を主題にしている。作者は尾藤甚左衛門と伝えられる。秀吉により切腹させられた尾藤甚右衛門一成の子孫だが、人物の特定が出来ないで居る。大意は、急坂である慶宅坂で人に出会い目礼をしたら、懐の握り飯が落ちころころと転がり坂崎兵庫の家の前で止まったというのである。
相手の人に「慶宅坂 握り飯懐中して目礼すれば 握り飯ごろごろ坂崎兵庫の屋敷前」と一首を興じれば、随分字あまりではないかといわれ、どうだこれならよかろうとばかりにはぐらかしたという。慶宅坂はもちろん「けいたくざか」である。

坂崎兵庫とは坂崎家(嫡家)初代・清右衛門成政の父・兵庫助成方であろう。(兵庫助も細川家の禄を拝領しているが、何故か息清右衛門を初代としている)
上の地図は時代が新しいものだが、坂崎兵庫の家は動いていない。前方の道が慶宅坂、右下が花畑邸である。
慶宅坂の名の由来は高本慶宅の居宅があったことに由来する。

 【細川家臣。医師。慶宅の父李宗閑は、朝鮮の役に南條元宅に捕えられ、豊前に移る。慶宅は忠利に召出され高本姓を拝領、十一歳にて医師を命ぜられ、十三歳の時知行百石。廿三歳で嶋原出陣、鉄炮傷をうけ、歸陣後二百石加増、側医を命ぜらる。寛文五年三月駿河島田宿にて歿。(先祖附)】
 
 

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またまた地震の間

2012-10-17 22:04:35 | 史料

 熊本縣史料 近世編第二「部分御舊記二」の御書附并御書部・二十(p133)に地震の間に関する記述がある。
いつの時期のことか書かれていないこの書状だが、より具体的で興味深い。
                                   ママ
                一 熊本地震之事少つゝ切々陶候へ共此程ハ遠のき候
                  あふなく候て庭のなき本丸にハ被居不申候本丸ニハ
                  二条敷と有之庭ハ無之四方高石垣其上矢倉・天主
                  中/\あふなき事にて候事
                一 罷下得 御意地震屋を仕候庭を取不申候ヘハ本丸
                  ニハ被居不申候此由を柳生殿へ物語可申候事
                  以上
                       五月十一日          (忠利)
                           狩野是齋 

忠利が熊本城に居住し、急遽花畑邸に転居するのは二回記録されている。その後城内で居住することはなかった。
この事については 初期の御花畑邸 で書いたのでご覧いただきたいと思うが、寛永九年~十年にかけての熊本入国直後、次は参勤から帰国した十三年頃のことである。いずれにしても忠利が地震を恐れ城内には住めないことを物語っている。

                   

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絵図に熊本の変貌を見る・・(5) 明治26年

2012-10-17 10:31:36 | 地図散歩

坪井川・井芹川の流路が変更されるのにはまだまだ時間が掛かるし、磐根橋下が開鑿されるのにも至っていない。それでも大きな変化が見えたのは九州鉄道(現・JR鹿児島本線)の開通である。
小泉八雲(ラフカディオハーン)が、第五高等学校(現・熊本大学)の教師となって来熊したのは、明治24年(1891)11月のことである。西南戦争から14年経過し街中は復興しつつあるが、西洋化される町並みに八雲は不快感を隠せないで居る。明治29年(1896)4月には夏目漱石が八雲同様第五高等学校の教師として来熊、池田駅(上熊本駅)に下り立ち、急坂を京町台へ上がった。四年に及ぶ在熊中「草枕」や「二百十日」といった作品を残した。森鴎外が訪れるのは明治32年(1899年)9月27日のことである。

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mino阿弥氏コメント・・「加藤氏」その二

2012-10-16 13:42:59 | 史料

mino阿弥さまから引き続き「加藤氏」についてのコメントをいただいた。御礼申し上げ、ご紹介申し上げる。


「美濃国諸家系譜」 (東大史料編纂所蔵)から

「美濃国諸家系譜」には、加藤氏之家譜と加藤清正系図の2本あります。加藤清正系図は、光高から書かれていますが当初からつなぎ合わせますと下記の系図となります。(加藤光泰・貞泰伊予大洲藩と同祖になります)
藤原利仁-叙用-吉信-重光(加藤次郎・兵衛尉・豊後守・従五位下・加藤氏祖)-貞正(紋蛇の目藤之丸)-正重(忠正)-景通-景清-景信-景員-景廉(加藤次・検非違使大夫・伊勢守・従五位下)-景朝-景村(加藤七郎・美濃国恵那郡岩村住)-景光-光高(美濃国恵那郡福島村住人・加藤源太・伊勢守・一説加藤伊勢守長頼三男)-光虎(或いは三虎・加藤三郎四郎)-虎時(加藤宮内少輔・二条関白太政大臣良基公に仕)-義時(加藤伊勢守・二条関白左大臣師良公に仕)-正時-正吉(加藤四郎太夫・美濃国宮䑓又は加茂郡住)-頼方(明智修理大夫頼常四男・桔梗・蛇の目紋・尾州愛知郡中村住)-清方(母は加藤正吉女・尾州丹羽郡篠木辺に住)-清信(尾州丹羽郡犬山城に住・斎藤道三に属す・天文三年犬山に於いて織田信秀と戦い討死)-清忠(尾州愛知郡中村住・織田大和守信武に仕)-清正(加藤虎之助)-忠廣-光正
ご参考まで。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追伸
二条良基の側室又は後室は、土岐頼康(美濃・尾張・伊勢の三国守護)の娘です。
土岐頼康の娘は、良基の次男師嗣と三男経嗣の母であり、三男経嗣が一条家に養子となっています。
経嗣の次男が、関白一条兼良(美濃への紀行文藤河之記著者)であり、二条良基の孫で土岐頼康の曾孫となります。
当時の状況を考慮すれば、加藤氏の先祖が二条家に仕えていたとしても、まったく荒唐無稽なことではないと思います。
土岐頼康は、後光厳天皇、足利義詮等を南朝勢力から避難させるため美濃に行宮を置いています。
行宮となった瑞巌寺では現在でも二条家により連歌の会を催されています。
また、土岐頼康は守護職を下記のように務めています。
美濃守護(1342-87)を46年間
尾張守護(1351-87)を37年間
伊勢守護(1361-66、79-87)を16年間

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初孫の死

2012-10-16 09:03:00 | 史料

 光尚の嫡男・某は寛永十三年十月二日に生まれ、十二月十二日亡くなっている。生母禰々も産後の肥立ちが悪く、十月十四日に死去している。
この事に関し、忠利や三齋の直接的な思いを伝える史料を知らないでいたが、ようやく忠利の心中を吐露する書状を見つけた。

    熊本縣史料 近世編第二「部分御舊記二」の御書附并御書部・廿一(p179)

       以早打申候孫之事肝をつふし候 肥後(光尚)ニ心得可申候
       打續加様之事稀成事にて候 此上者何ほとも祝候て可然候
       此方も其分ニ候 頓而祝候様ニ人を下可申候 何とそ肥後ニ
       たゝり候去年ハ年と存候間此春より祝候事せんにて候 又奥
       のつき/\の女の事も我等下候て可申付と右ニも申候 左様
       ニ心得申候 替事候ハゝ跡より可申候 次ニ何もより飛脚なと
       参候事可有之候 度々承迷惑かり申候間必人も不参様ニと
       随分心得可申候 謹言

          (寛永十四年)正月四日    越 忠利御判
                小笠原備前殿
                松野織部殿
                町三右衛門殿
                横山助進殿
                浅山修理殿


三齋の書状は知ることが出来ないが、禰々の産後の状況を知らされていなかった三齋は、その死を知って激怒し、お付の宮本次郎大夫夫妻と、三齋江戸屋敷の留守居・町源右衛門と神戸喜右衛門両名は扶持を召し放たれた。三齋に知らせなかったのは光尚の配慮によるものとされる。

その後忠利は光尚の継室について行動を起こしているが、いろいろ問題を抱え難儀する中、嶋原一揆の勃発によりこの話は頓挫している。
                 光尚の再婚話・・書状-1  
                光尚の再婚話・・書状-2  
                光尚の再婚話・・書状-3
                光尚の再婚話・・書状4 
                光尚の再婚話・・書状-5

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pdf 細川家略系図

2012-10-16 07:27:44 | 史料

 以前細川家略系図を作成したことを申し上げた。熊本史談会の皆様には配布をしたところだが、どこから伝え聞かれたのか欲しい旨のご要望があったので、pdfにてご提供しようと思う。A3版の原稿だが私はA2版に拡大コピーして使用している。
随分校正をしたつもりだが、100%にはいたっていないように思う。その点はご承知おきいただきたい。その故をもって無断転用はお断り申し上げる。尚製作に当っては、熊本藩年表稿所収「細川家系図」、光永光煕氏編「平成宇土細川家系譜」、その他私が所有する諸資料などを参考にした。

                                                     http://www.shinshindoh.com/pdf/hosokawa_tree02.pdf

                     

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mino阿弥氏コメント・・「加藤氏」

2012-10-15 16:43:25 | 史料

mino阿弥さまにはいろいろご教示をいただいているが、再度のコメントをいただいた。ここに御披露申し上げる。

・コメント
加藤氏は、ごく普通に考えれば加賀の藤原氏であり、加賀の武士団の主流は藤原利仁流だと思います。
蛇の目紋は加賀の藤原利仁流、桔梗紋は土岐明智氏流に由来するのではないかと推測されます。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」によれば明智国篤の室は尾張修理大夫義種女とされていますが、斯波義種女ではないかと思います。斯波義種の娘の子である明智頼秀は長禄元年卒とされています。この年、斯波義敏と守護代甲斐常治の被官が騒乱を起こし義敏の被官が幕府と甲斐常治の兵に討たれています。
頼秀の弟明智頼方(母斯波義種娘・頼秀と同母)の養父加藤正吉は、この斯波氏と甲斐氏との間の長禄合戦か、または美濃国七代守護土岐持益と守護代斎藤氏が推す土岐成頼(のちの八代守護)との相続争いで討死したのではないかと考えられます。
いずれにしても明智(加藤)頼方は母の縁により尾州に移り斯波武衛家に仕えると書かれていますから、明智、加藤氏ともに斯波氏と関わりがあったのではないかと思います。
また、加藤氏は、農民や鍛冶屋であったなどと諸説ありますが、もともと美濃の目代であった守護代斎藤氏(藤原利仁流)や後斎藤氏(斎藤道三)に仕えた武家であったと思われます。美濃には新田義貞討死後、弟の脇屋義助とともに加賀の武士団が美濃根尾谷に落居していますが、それ以前からも北陸から多数の人々が美濃に移住していると思います。

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新史料発見

2012-10-15 08:24:52 | 史料

佐久間半丞召出しに関わる初出の史料発見
 熊本縣史料 近世編第二「部分御舊記二」の御書附并御書部・廿二(p213)の、西郡要人佐・浅山修理亮あて光尚の書状の猶々書である。

       猶/\佐久間半丞と申者様子候て召拘候 春ハ追付其元へ差下にて

       可在之候 知行ハ三千石ほとゝ相心得可申候屋敷入可申候間其心得
       を仕可然所を屋敷奉行共と令相談書付可越候 已上 
           (寛永二十年)
            十二月廿七日          肥 光尚 御判

 その後の事は以前記した 細川家家臣・佐久間氏 に書いたのでご覧いただきたい。

 

坂崎勘右衛門(清左衛門三弟?)は、某資料によると嶋原一揆(寛永十五年)の際死亡した(25歳)とあるが、以下の二件の史料により間違いだと思われる。 
 (1)熊本縣史料 近世編第二「部分御舊記二」の御書附并御書部・廿二(p224)の、西郡要人佐・浅山修理亮あて光尚の書状(抜粋)である。

       坂崎勘右衛門儀天草城番仕候處ニ又■(宀ニ取・最)前之煩指發候ニ
       付清左衛門承付呼取勘右衛門知行を差上勘右衛門儀は清左衛門知
       行取へ遣置候由其意得候 年寄共かたより何とも不申越候付不存分ニ
       候間可有其心得候事
           (寛永二十年
             七月廿九日          肥 光尚 御判
 

 (2)熊本縣史料 近世編第二「部分御舊記二」の賞賜并選挙部・二(p367)

       坂崎勘右衛門ニ知行高三百石分之物成蔵米ニ而相渡者也 
           寛永十九年十月十四日御印
                            奉行中 



 

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尾藤家の桔梗紋

2012-10-14 13:27:00 | 徒然

先に美濃源氏フォーラムの mino阿弥さんの 加藤家「桔梗紋」について をご紹介したが、思いがけない反響に驚いている。

いわく、「加藤家の桔梗紋は尾藤家の家紋ではない」と言うのが、大方のご意見である。其の根拠はまさしく mino阿弥さんが示された土岐氏明智家に遡る加藤家の出自であり、いまひとつは尾藤家が桔梗紋を使用したという事実が見受けられないという二点である。

一方、レファレンス協同データベースにある、香川県立図書館への問い合わせ「旧讃岐領主尾藤知宣の改易の際、豊臣秀吉の命により、尾藤家の武具などが加藤清正に渡ったとされるが本当か。また、尾藤家の家紋は桔梗紋か。」の答も興味深い。
               http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000067291
そして加藤家が使っているいまひとつの紋「折墨紋」も又、尾藤家のものとしている点をどう考えるかである。

明智氏の分流とされる加藤氏が、明智の家紋と尾藤氏の家紋が同じであったため、尾藤氏の武具・調度品などを受け入れたとは考えられないか、いずれにしろ謎の深い話ではある。 

私自身が「加藤家の桔梗紋は尾藤家からそのまま受け継いだもの」と思い込み、ブログでもそう書いてきた。修正をしなければならないだろうかとも思うが、これは冷静に考えなければならないだろうと思っている。
清正公については先人たちが、いろいろな書物を上梓しておられる。講談めいた話が史実の如く語られ現在に至っているものも多い。
加藤家の人間関係については、水野勝之・福田正秀両氏の研究によって、真実があきらかになりつつある。この家紋の問題も決着がつく日が訪れるであろう。


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高見武之家の明治 (四・了)

2012-10-14 10:30:47 | 史料

                                一、同(明治)廿二年三月十三日
                                  三位様御墓参として東京御発途東海道御通行

                                  神戸より御乗艦小倉御上陸之旨御報知有之候同月
                                  廿七日山鹿より御着被極候ニ付毎之通御滞縣中御附
                                  家従之場相勤候様被 仰付候ニ付日勤諸御用相勤候内
                                  戸下温泉御湯治中も詰切相勤申候御帰殿後不相変
                                  相勤居申候五月二日御帰京として爰許御発途被遊候
                                  ニ付御臺所向取纒メ當前之御奉公相勤申候六月
                                  十八日勤労として金子拾圓外ニ月俸割合同貮拾
                                  四圓五拾銭下約候其後當前之御奉公相勤居候内

                                  當春来 御帰縣中出精相勤且此節ニ■思召之旨
                                  有之別段を以金子拾円別段七圓五拾銭下約候其後
                                  當前之御奉公相勤申候
                                一、明治廿二年五月十三日御婚禮御式を為在候得共下地御滞
                                  留として御日喜越被為在候御事ニ付諸御道具御使
                                  者を以御送り其外御手数向ニ而御取替ハ表向御當日より
                                  右御用懸面々何連も罷出候處萬事御無御滞御舅入も
                                  目出度被為■諸も使者引続相勤候

                                一、右御婚禮被為済候ニ付今般
                                  嘉壽子様御婚禮首尾能被為済候ニ付被遊
                                  御祝葉櫻御紋附七々子袷御羽織一金子拾圓
                                  下賜候其後當前之御奉公相勤申候明治二十三年
                                  三月七日
                                  三位様御帰縣として東京御發途之電報至来
                                  付而兼御雇入人負御臺所向御用之衆等夫々御整候処
                                  同廿五日長崎御立山鹿御昼同所前十時御発車ニ而

                                  后三時過被遊御着邸候右ニ付御供松崎廸・相賀壽雄
                                  御滞縣中御附家従之場相勤候様被 仰付諸御用
                                  壱人ニ而相勤居申候
                                  奥方様御跡東京御發途伊勢御参宮・・・・・・・・・・・・
                                                             寄等ニ而四月廿九日御着縣就而は
                                  御二所様御用相勤候内戸下温泉御同道ニ而御湯治
                                  夫より阿蘇殿江御初入等被為在御供申上御帰邸後
                                  當前御奉公相勤申候同年六月十三日

                                  御二方様御同行ニ而御上京として御発途同十九日
                                  御着京之電報参着同廿日
                                  御二所様下縣中出精相勤候ニ付旨を以重拾弐圓五拾銭
                                  月俸遠目弐拾四円五拾銭下約候
                                一、御側御女中春竹村ニ自宅求相成候ニ付同廿六日移転致   護久側室・深水氏女・縫
                                  御居間御守衛として御居間次御間住居被              護成・嘉壽・宣・志津生母
                                  仰付家族共引越居住いたし候
                                一、同年八月

                                  御二所様御滞縣格別骨折出精相勤候ニ付御慰労
                                  いたして重拾圓別段同拾圓下約候
                                一、同廿三年十月
                                  嘉壽子様御凶変ニ付同六日夜半より東京表             男爵細川興生室・10:06死去(22歳)
                                  御方々様上申として早打ニ而差立十一日着京御容
                                  體委細言上御用相済十一月一日着縣仕候

 

                                                   了 

                                   

 

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我が家検索リスト・3 (68-3 熊本所分絵図 高田原之絵図)

2012-10-14 10:29:58 | 地図散歩

          左上「厩」とあるのが現在の市役所の位置である。地図上部が現在路面電車が通る、熊本を代表する道筋である。
          図面中央から左側、有吉市左衛門屋敷から真下に伸びる道が、下通りアーケード街である。

1段目
   有吉市左衛門
   宇野貞雄、 堀内三■

   林九八郎、 愛敬四郎助、 白石清兵衛、 前田善之允、 森脇金次郎、 山戸仙蔵、 武田一蔵、 児玉太郎左衛門、 落合弥次兵衛

   村上善九郎、 古庄八太、 清水数馬、 有吉市左衛門、 赤星典蔵、 松本杢十郎、 野村左源太、 宮村庄之丞、 井上加左衛門、 尾藤金左衛門、
                                                                                          真藤義人
   連政寺 野田弥三左衛門、 小野又兵衛、 吉川伝之允、 木原嘉四郎、 柏木文右衛門、 城允、 永田八兵衛、 三野喜右衛門、 坂本仁兵衛、
                                                      三池尉右衛門、 水野源助、 入江平之允(鶴屋百貨店一帯)

   山崎伝右衛門、 平野八十郎、 沢村新蔵、 平野丹右衛門、 隈部彦四郎、 

2段目
   益田弥一右衛門、 末松勘右衛門、 藪作右衛門、 高琳寺、 長尾安右衛門、 磯田十郎右衛門、 塩山隠岐、 建山林右衛門
   松村新三郎 

   奥村次郎右衛門、 岡本嘉津次、 田中鋭之助、 松尾三郎右衛門、 高橋壽彦、 吉岡甚之允、 千原熊之助、 中村新太郎、 小野太左衛門
                                                                                      井上才七

   小笠原平馬、 戸田儀兵衛、 野田長助、 有吉市左衛門、 飯田熊之助、 児玉喜一郎、 和田金左衛門

   中西喜一郎、 隈部左内、 郡勘右衛門、 宇田四右衛門、 緒方藤三郎、 杉角左衛門、 大塚権三郎、 中島伝九郎、 益田団之進
   上田八左衛門、 河添弥右衛門、 高田武助

   井戸勘兵衛、 丸山運助、 芦田七右衛門、 菅野左一郎、 馬渕慎助、 津村兵八、 武田作左衛門
   高野嘉平衛、 大野弥八郎、 今朝洞庄■、 大洞五右衛門

   浅井新九郎、 吉見半之丞、 志方逸次、 粟津忠太郎、 
   松崎次郎、 後藤吉右衛門、 森山章之允、 木村次右衛門

西側田畑沿い縦列(左列)
   坂梨曾太郎、 田中臘五、 藤木伝作、 中島嘉■、 石井懋助、 岡本久助、 矢津直助、 清田新兵衛、 駒井弥三次、 山田十郎
   大野伝之助、 相良又助、 多田角十郎、 牧杢左衛門、 上野貞八、 井出九蔵、 金津助之允、 上野四郎作、 堀次三郎、 小橋恒蔵、 牧文四郎

    同上     (右列・下通り左側)
   河喜多大平、 今井勘兵衛、 平川駿太、 石橋陽太郎、 甲斐多喜次、 武藤長兵衛、 北村甚十郎、 間部源左衛門、
   久野玄敬、 下田格助、 古閑作左衛門、 東次郎左衛門

三段目(下通り右側)
   村井直之允、 徳永所右衛門、 田中多右衛門、 宮崎円次、 瀬良章之助、 岩間清次、 塩山唯之丞、 大畑角兵衛
   佐藤仙右衛門、 宮崎円次、 池辺久助、 森川又助、  

四段目(下通り右側)
   八木田新右衛門、 久野万之助、 吉田新次、 馬場彦左衛門、 井川弥次兵衛、 松見太郎八、 財津弥太郎、 渋谷源左衛門、 

五段目(下通り右側)
   右田儀三、 斉藤平右衛門、 河田尉助、 安養寺・西岸寺、 奥田章右衛門、 倉重五左衛門、 永原甚助、 長嶺範助 

  

    

    

    

    

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大垣藩主・戸田家

2012-10-13 16:44:26 | 新聞

                           ≪ウィーンに六段の調≫の画像

                        大垣市守屋多々志美術館・「生誕100年記念展守屋多々志の世界」展の案内から
                                  http://www.city.ogaki.lg.jp/0000002008.html

 

 毎日新聞のウェブサイト 毎日JP に 「ブラームス:琴を演奏した日本の伯爵夫人…子孫が絵と対面」という記事が掲載されている。
              http://mainichi.jp/select/news/20121013k0000e040228000c.html

最後の大垣藩主で、オーストリア全権大使になった戸田氏共(うじたか)の妻極子(岩倉具視の三女)のこととあって興味を引いた。
細川家十五代当主・護成の室・孝子(こうこ)がこの氏共の長女である。

忠興・忠利と親交があった戸田氏銕(うじかね・大垣藩初代藩主)からすると、280年ほどの時間を経ての縁戚関係となった大垣藩最後の当主である。
細川家に於いては護成に子がなかった為、男爵家を創家していた弟・護立が養子となり宗家を継いだ。

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外聞笑止

2012-10-13 10:20:00 | 史料

 寛永十六年(1639)九月十五日忠利は、息・光尚に対して長文の書状を発している。父・三齋の八代城普請に関することや、立允・刑部の禄を自らのものの如く管理することに対してのやりきれない嘆息が聞こえるようである。そして相手が息子であるとはいえ「(幕閣に対し)三齋年よられ色々被申候由年よられ外聞笑止ニ存候」とまで言い切っている。藩主である忠利を飛び越え、幕閣に対し直接書状を発する三齋をもてあまし、また幕閣の三齋に対するあまり良くない空気を感じ取ってのことである。あまりの長文に「自筆ニて返事可申候へ共方々江之数好(ママ・多ヵ)候間他筆にて申候」と断りを入れているが、内容は右筆にも憚られるものである。その後十八年(1641)三月十八日、忠利は熊本において没した。三齋も正保二年(1645)十二月二日八代において亡くなる。
そして忠利が頭を痛めた八代領の解体、宇土支藩の創立と新藩主光尚の小気味よい施策が、新しい熊本の時代を作り上げていくことになる。 

                                 (あまりの長文のため読み下し文をスキャンしてご紹介しました・・・・・) 

 

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放送予定二つ

2012-10-12 08:10:18 | 徒然

NHKの「歴史秘話ヒストリア」で熊本城、「BS歴史館」で宮本武蔵と、今月熊本がらみの放送がダブルで予定されている。

NHKプレミアム『BS歴史館』
            「ヒーロー伝説 巌流島の決闘400年 宮本武蔵の実像と虚像」

        番組HP予告 http://www.nhk.or.jp/bs/rekishikan/ (スタジオ討論)渡辺真理・高橋英樹・魚住孝至・加来耕三

            放送日 本放送 10月18日(木) 20:00~21:00
                  再放送 10月26日(金)  8:00~9:00

NHK総合テレビ『歴史秘話ヒストリア』第126回
            「熊本城400年の謎をめぐる旅―愛して、守って(仮)」

        番組HP予告 http://www.nhk.or.jp/historia/
            放送日 本放送 10月24日(水) 22:00~22:45
                  再放送 10月31日(水) 16:05~16:50
            国際放送 10月24日(水) 22:00~22:45(日本時間)NHKワールドプレミアムで熊本城が世界に紹介されます。


「宮本武蔵」と「熊本城」、共に熊本在住の歴史研究家・福田正秀氏の御著が主な参考文献の一つとして使用されているらしく、福田氏の出演場面も拝見できるようだ。「歴史秘話」は126回目の放送になるそうだが、HPの「ヒストリアマップ」によると、熊本が舞台となったのは昨年2011年2月24日放送NHK『歴史秘話ヒストリア』「宮本武蔵」だけらしい。
          http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/78.html 

さてどのような形で福田氏が登場され、氏の御著から番組がどのように作り上げられていくのか大変楽しみではある。


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高見武之家の明治 (三)

2012-10-12 08:09:53 | 史料

 

                    一、明治十七年一月十八日隠居上長男高見純一郎江
                      家督仕度段届書戸長手元迄差出候
                    一、同年六月
                      三位様御墓参として被遊御下縣候ニ付毎之通諸

                      御用相勤居候内■ニ発病引入七月十日より出勤十日
                      程相勤候處病気再発尚又引入■御発途之段
                      漸御機嫌伺出殿候處御下縣中心配いたし候ニ付御慰
                      労として金子千疋下賜候
                    一、明治十七年十月廿一日数年出精相勤候ニ付葉櫻御紋
                      附紬袷御羽織一ツ下約候
                    一、嘉壽子様 志津子様明治十九年三月より東京
                      御方々様御機嫌伺として御上京御供申上同六月

                      御供ニ而下縣仕候右相勤候ニ付紬縞壱反下賜候
                    一、明治十九年
                      志津子様 阿蘇惟孝様より御縁約御内談被遊御整候ニ付
                      御用懸被 仰付同年十二月十三日御輿入御供相勤御■
                      諸御用相勤十六日開■
                    一、明治二十年三月一日
                      志津子様御輿入目出度被為済候ニ付御祝九曜御紋附
                      羽二重御小袖一金子拾五圓下賜候 

                    一、三位様御滞縣中出精相勤候ニ付同二十年三月金子
                      千疋別段千疋下賜候
                    一、志津子様御日喜越被■済候ニ付退職内意奉願候處         ごにっきこし 
                      内意之趣ニ付御■被免多年出精相勤候ニ付九曜御紋附
                      縮緬丸御羽織一ツ八丈縞一反金子五拾圓賜金貮百
                      五拾圓
                      奥方様より浮泉梅御紋袷羽織一金子三拾圓
                      御子様方より金子拾圓下賜候

                    一、明治廿年二月廿一日北岡邸御住居跡并奥向守衛安達
                      休を隔日宿直被 仰付月報八圓支給セラレ候■而座班     ■異体字・己ノ下ニ十 
                      高岡一太郎口ニ被附置候
                    一、同年二月廿二日より安達休を■番宿直相勤居候         ■阝ニ侖トアル、輪ヵ
                    一、明治廿一年十月十六日
                      於嘉壽様御婚禮御用懸被 仰付候 

                                                       次回(四)で完了 

 

                     

 

                                  

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