津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

藤崎八旙宮秋の例大祭

2013-09-16 18:17:45 | 熊本

「歳序雑話」に登場する「藤崎宮大祭」に係る記事である。(旧暦の八月の項に登場している・・抜粋・・)
これによると七日から十五日までの長期であることが判る。大変な賑わいぶりが想像できる。

      十五日府中鎮守藤崎宮之祭日也、為放生会、従七日至今日社参之尊卑不可勝計矣、茶店売買之美、猶増祇園会祭日、有御幸於段山行在所、
      興申楽能、御幸之体、先持榊枝、次以火水風三王鬼之首、貫鉾持之、神輿銀珠玉、氏子咸潔斎而舁焉、跡牽神馬、以金鞍、錦泥障、大惣鞦等
      飾之、飼口著布衣、神輿之体皆同焉、神主・禰宜・社僧悉刷衣冠、袈裟等、乗駿馬供奉、歴々焉、行程有両勢屯、見物貴賤、無容錐毛地、此屯
      之中始乎神馬、供乗駿馬悉馳入、走東西馳南北、宛如蜘蛛之子散風矣、又好事之族、猶附馬後奔走矣、挂蹄或蒙疵、或死者間有之、無懲之
      打手敲竹動馬、皆是年少所成也、神護法印乗駕供奉、又一騎帯火威甲冑相具歩卒百人、是又皆介者也、緋与朽葉色昇之指物也、次鶏毛長
      柄之鎗百本、殿馳士長両騎、整其行列、備不虞矣、上下桟敷之結構、翠簾花■(毛ニ亶)之美麗、又是希代之見物也、有庶寔其盛哉、神輿到於
      段山、則成申楽、其式如祇園会、楽以五番為限矣、環幸規式准右 

 今日の藤崎八旙宮秋の例大祭、街中は飾馬が飛び跳ねて大賑わいしていることだろう。私の年代は「ボシタ(祭)」などと、なんとなくいってしまう。他意はない。かって馬を追う勢子たちは、「ボシタ/\」と掛け声を掛けていた。随分以前は「滅ぼした」とも言っていたが、何時の頃からが秀吉の朝鮮侵攻に由来するこの掛け声は禁句となってしまった。毎度のことだが当事者たちはこの「ボシタ」については、黙して語らない。
しかしながら状況証拠は残されていて、小泉八雲が友人に送った手紙などで明らかである。

        『没したり、朝鮮没したり』を口々に叫びながら、興味深い馬飾りをつけた馬たちを町通りに駆けるのです。

余り隠し立てをするからよろしくない。 

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お安く読む・講談社現代新書 「黒田官兵衛 作られた軍師像」

2013-09-16 06:46:12 | 講演会

 

        黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書 2225)

 
                        講談社


内容紹介

来年の大河ドラマの主人公黒田官兵衛。その有能さは、豊臣秀吉、徳川家康をも恐れさせたと言われる、戦国から江戸前期にかけての大名です。本能寺の変で、信長が斃れ悲嘆にくれる秀吉に、「天下を取る好機です」とささやき、有名な中国大返しを実現させたなど、多くのエピソードが残っています。しかし、それらは主として江戸時代に作られたものがほとんどです。官兵衛といえば、「軍師」という言葉がついてまわりますが、この「軍師」という言葉も、戦国時代にはなく、後世につくられたものだったのです。本書は、信頼できる史料をもとに、黒田官兵衛の実像に迫る一冊です。
コメント (3)
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細川忠興譜に見る「関が原の戦い」

2013-09-15 18:18:34 | 歴史

慶長五年の今日・九月十五日は関ヶ原決戦の日である。細川忠興譜から其の一日をみる。

十五日未明ニ諸隊聊動揺ノ光景アリ忠興訝カシク思ヒ軍隊ヲ糾合シテ後諸軍ヲ巡視シ正則ノ陳ニ至ル 正則忠興ヲ見テ手招シケル故如斯ノ時密語スル寸ハ一軍猜疑ヲ生スルモノナリ声高ニテ述ラルへシト云ケル 寸正則云吉川ヨリ黒田へ告越ケルハ昨日東軍ニ属セント約束シケレ共今夜治部少俄ニ大垣ヨリ関ヶ原へ兵ヲ出シ東軍へ迫ルノ聞へアリ 昨日密約ノ事ナレハ東軍ニ嚮テ撃戦スル事ハ決テアルヘカラス サレト内應ハ成難シト云贈リタル由ナリ 忠興云夫ニテサツト済タリ進テスル合戦ヲ受テスルハ易シ急キ陳前ニ人数ヲ立ラレヨト云捨テヤカテ人數ヲ率テ垂井宿ノ方へ押行ク 先驅ノ諸将各関ヶ原表へ人數ヲ進ム 此時朝霧深クシテ物色辨シ難シ 忠興嘉明ト相議ルニハ南宮山栗原山ニ備タル安藝宰相吉川廣家ハ内府ニ欵ヲ納ルト雖共其心中量リ難ク殊ニ軽忽ニ人數ヲ進メ敵前後ヨリ襲ヒ懸ラハ一軍ノ敗ハ全軍ノ潰トナランモ測リ難ク内府ノ中軍間断ナク前軍ニ引續カルゝ様請フへシトテ其旨ヲ澤村才八ト嘉明家士田邊彦兵衛ニ含メケル両人既ニ兵刃接スルノ時ニ臨ミ後陳ニ立歸ラン事本意ナキ次第ナリト辭シケレハ忠興両人ニ向ヒ内府出馬ナキ内討死センモ詮方ナキ事ナリ然レハ此時ノ使ハ戦功ヨリモ忠節ナラント云ケル故両人承服後陳ニ馳行ケル處垂井ノ邊ニテ井伊直政ニ行逢主命ヲ述ケレハ直政ノ答ニ其趣我等ヨリ急キ中軍ニ請ヘキナリ先ツ我ト本多中務ト前軍ノ後ヲ継クヘシト云ケル内中軍ノ隊列漸々進ミ来リ内府ノ旗幟見ヘケル故澤村・田邊直ニ馳歸リ其段反命ス 是ヨリ先黒田長政・後藤又兵衛ヲ斥候ニ出シケルカ忠興・正則・嘉明等居ケル所ニ立歸リ敵ハ敗軍ト見ヘケルト云忠興否敗軍ニテハ有へカラスト云 長政彼ハ後藤又兵衛トテ武事熟練ノ者ナレハ容易ニ見損スヘキ男ニ非スト云 忠興何故敗軍トハ見ヘケルヤ又兵衛答フ騎馬隊ノ間ニ雑人等混入規律ナキ故敗軍ト見タリト 忠興ナル程見ル處面白シ福島氏人數ヲ進メ襲テ見給ヘト云 正則尤トテ三備ノ内一備ヲシテ進撃セシム 忠興何ト見テモ敗軍トハ見へス引揚ラルへシト云正則麾テ退カシム 忠興大ニ其號令ノ速ニ整ヘルヲ感ス サテ忠興ハ我人數ヲ纏メ伊吹山ニ續タル山際ニ進メ又先へ乗脱ケ合戦初ルマテハ嘉明・長政・金森ノ三将ト一所ニテ両軍ノ機ヲ察シ扣ヘタリ 斯テ漸々霧モ霽レ敵ヲ見渡シケレハ関ヶ原表ニハ宇喜田中納言秀家石原嶺ヲ背テ巽ニ向ヒ山ノ尾崎ニ陳セリ 其左ノ方ニ小西行長・島津義弘ヲ初メ西軍ノ諸将次第ニ陳列セリ 石田三成ハ小関山ニ陳ヲスヘ先手ハ北國街道小関野ニ出張シ小池村ノ前ニ二重柵ヲ立テ先手六千餘人柵ノ前ニ陳列ス 秀家ノ右ノ方ニハ河尻肥前守・有馬修理・戸田武蔵守・平塚因幡守等其他數隊一面ニ陳ヲ布ケリ 其右ニハ大谷刑部少輔父子・木下山城守・朽木河内守・小川土佐守・脇坂中務少輔・赤座久兵衛等各松尾山ノ麓へ周廻シテ備ヲ設ケ松尾山ハ中納言秀秋南宮山・栗原山ハ毛利秀元・吉川廣家・完戸備前守・安國寺恵瓊・長束正家・長曽我部盛親・鍋島勝重等ノ陳 南ハ南宮山ヨリ北ハ伊吹山ノ麓待て家々ノ旌旗馬幖等霧ノ晴間ニ見へ渡リ總勢十二萬八千六百餘人トナリ 東軍ノ先鋒福島正則ハ関ヶ原二至り大関村ニ人數ヲ立乾ニ向テ陳ヲ設ケ忠興・嘉明等ハ街道ノ北ニ出八幡宮ノ森ノ邊ヨリ合川ノ方ニ押出シ黒田・竹中は合川ヲ渡テ丸山ト云處ニ取登ル 此所號信の狼烟場ナリ 是等は何レモ小関ノ敵ヲ討取ントナリ 正則ノ左ノ方ハ藤堂・蜂須賀・京極・有馬・山内・生駒・寺澤・織田ノ數氏其餘松尾山ノ麓マテ軍ヲ進ム 関ヶ原茨谷ハ徳川忠吉・井伊直政備ヲ設ケ十九女カ池ノ邊ハ本多忠勝陳列シ其他小藩ノ諸将モ引續人數ヲ碁布セリ 少シノ接戦は數多有ケレ共機會ヲ察して■ニ進マス 敵方ハ内府南宮山ヲ後ニ成シ軍ヲ進ムル時前後ヨリ馳萃リ討取ヘキ為ニ備ヲ固メテ戦ヲ挑マス 斯テ両軍際ヲ進テ諸手漸ニ接戦ス中二モ田中吉政人數ヲ指揮シ螺ヲ鳴シ一番ニ軍ヲ進ム 加賀山少左衛門コレヲ見テ我人數ヲモ進メサセ然ルヘキ哉ト問忠興少シ扣へヨ時宜ヲ見テ下知ヲ加ント云フ 此時本多忠勝諸軍ヲ望見テ細川ノ軍鋭気ヲ蓄メテ妄ニ進マス競兵ヲ拒キ固キヲ破ランコト必ス此軍ニアルヘシト云ケルトナン 吉政ノ勢ハ七八町モ棹ノ如ク立並テ進ケルヲ忠興見テ長懸リスル程ニ駈崩サルヘキト云シカ果シテ石田カ先軍ニ突崩サル時ニ吉政馬乗廻シ今度ハ真丸ニ成テ蒐リシカ敵又大勢ニテ突蒐リ二三町程モ追立ル 此以前ヨリ當手人數は玄蕃興元ヲ初メトシテ山ヨリ下リ二三町敵方へ進ミケル時入江平内ヨリ使トシテ人數速ニ馳入ルヘシト下知シ忠興真先ニ敵中へ乗込ケレハ加賀山少右衛門忠興ニ暇乞シテ猶先へ進ンテ敵ヲ追立テ首ヲ取ル 其外騎馬歩立ノ差別ナク我劣ラシト真驀ニ成テ勝誇リタル敵中へ横ヨリ突蒐リ難ナク敵ヲ追靡カス 井伊直政ハ下野守忠吉ト共ニ嶋津ノ陳ニ突入本多忠勝等モ島津・小西ノ陳ニ向灯福島ノ先鋒ハ秀家ノ先鋒ト接戦し或ハ進ミ或ハ退ク 藤堂高虎等ハ大谷・戸田・平塚ナト勝負ヲ争ヒ加藤・黒田・田中ノ三氏忠興等其外先手ノ諸将一同ニ麾ヲ振リ自身手ヲ砕キ奮戦アル故士卒悉ク死ヲ顧ミス奮闘セリ 忠興槍ニテ突伏タル敵ヲ嫡子忠隆進テ首ヲ取ントシケルヲ忠興制シケレハ直ニ其場ヲ駈通リ槍ヲ揮ヒ激戦ス 有吉與太郎・米田與七郎等ヲ始トシテ各粉骨シテ高名シ又者中間マテモ手ニ合ハサルハナク總而東軍ノ諸将勇ヲ震ヒ戦ヒ敵方モ今日ヲ限リト格闘シ勝負未タ決セサル處ニ松尾山ノ麓にて筑前中納言秀秋兼テ謀リシ如ク内應西軍ニ向テ合戦アリ 彼表ノ関東勢殊ニ競ヒヲ益シ其外諸将一同ニ喊声ヲ發シ猶縦横奮撃セル故敵次第ニ粉乱戸田・平塚・太谷等ノ勇将追々ニ戦死東軍ノ諸将鋭気充満終ニ敵将宇喜田・石田・小西等四方ニ潰散シ總軍敗績ニ及フ 

此時島津ノ軍ハ旗本ノ勢ヲ以テ差向ヒタル敵ヲ打拂ヒ諸勢ノ後殿シテ烈ク防キ遂ニ土岐多羅ノ山ニ懸リテ退ケリ 忠興ハ尾撃シテ五六町程進ミケルカ黒田長政跡ヨリ忠興ヲ呼カケ先時衆軍ヲ率ヒ大勢ノ中へ乗込ミ自身ノ血戦人數ノ指揮勇々シキ有様見届タル次第内府へ告ヘキナリ我等ノ働キモ足下見分アラハ報告玉ハルヘシト云フ 忠興答テ我等ノ戦功瑣細ノ事ナリ足下ノ働我等見受サリシト云ヘルニ澤村才八是ヨリ四五町程後ニ小キ森アリ彼我両軍三四千程對陳セル處ニ一番二番ヲ乗込敵ヲ追崩シタル武者振り見事ナリシカ唯今立物ヲ見ル二甲州公ニテアリシヨト云ケレハ長政一段能見ラレタリ其如ク少モ相違無ト云フ 忠興然ラハ我等ノ家士見及ケルト言上スヘシ 時ニ金森出雲守・外川肥後守・岡田将監等追々ニ集會皆々血戦ニ及シ躰ナリ 忠興ハ猶モ敵ヲ慕ヒ玉藤川ノ邊マテ進ミケル處向ノ山ニ引揚タル敵ノ勢一隊見へケレハ若立直ス事モヤト人數ヲ敵ニ對シ北向ニ備ヲ立堅メケルニ敵ハ戦ニ及ハスシテ退散セリ 今日ノ戦己ノ刻ニ始マリ未ノ刻ニ勝敗決セリ 忠興手ニ獲首百三十餘討捨ハ數知レス生捕十七人總而東軍戦死三千七百餘人西軍ノ死亡ハ二萬八千餘人トナリ 斯テ敵悉ク敗散致シケレハ忠興諸将モロ共中軍ニ参リ内府ニ謁シ勝利ヲ祝シケレハ内府我等ノ手ヲ下シタル合戦ニテナシ 専ラ諸将ノ武威ヲ以テ勝算ヲ遂ケタリ感荷喜悦二勝サルトノ挨拶ナリ 此時忠興ハ以前二約セル如ク黒田甲斐守働キノ様子近臣見及ヒケル由言上セシカハ其如クアリツラン貴殿働キノ様子モ甲斐守申述ラレ感入ルトノ事ナリ 此時諸将ノ内ヨリ凱歌ヲ揚ケラレ然ルヘキ由云ヒケレハ内府陸戦勝利其場ニ於テ凱歌ヲ唱ル事恒例ナリ然レ共各證人トシテ大坂ニ差置タル妻子ノ安否ヲ聞カサル内ハ心中安カラス近日上國二登リ妻子ヲ全フシテ各将二引渡シ其上ニテ凱歌ヲ揚クヘシトノ事ナリ 各感涙ヲ催フシ命ノ辱キヲ拝セリ 初メ或ル諸侯策ヲ獻シテ一向宗門跡ヲ誂シテ宗派ノ徒ヲ嘯聚シ西軍ノ跡ヲ擾サシムル時は労セスシテ功速カナルヘシト云フ 内府其可否ヲ忠興ニ問フ 忠興答テ云此策一時ノ勝ヲハカルニハ寔二妙ナリ然共天下安危ノ戦助ケヲ門二假ルハ武門ノ威ヲ損スルニ似タリ且後ノ患ヲ如何ン唯武威ヲ以テ勝算ヲ決センニハ如クへカラスト云ヘリ内府深クコレヲ嘉納ス 忠興兜ノ指物ハ銀ノ中クリナリ世ニ銀ノ半月ト唱フ 十五日合戦前ヨリ軍散スルマテ兜ヲ蒙リ指物ヲ徹セス也ノ将ハ多ク指物ヲ人ニ持セケルヨシ 或時秀忠内府へ加藤肥後守カ馬藺ノ指物カ羽柴越中守カ銀ノ中クリカ二ツノ内懇望ナリ何レ二極メ申スヘキヤト問ハレケルニ内府指物ハ其形容ノ宜キヲ好ムノミナラス其ヲ持ツ人物ヲ似カルモノナリ 肥後守健気者ニテ指物モ善ケレ共太閤ノ世ハカリ競ヒナリ越中守ハ信長以来數度ノ事ニ合ケル上先年小牧表ノ退口殊ニ見事ナルシ 越中守指物然ルへシトテ土井大炊頭使ニテ忠興指物ヲ望マレ後ハ纏居トナリ銀ノ半月ト號シ大坂陳二モ持セラル 大炊頭云ケルハ武勇ヲ似カラルゝ事ナレハ其節ノ甲冑ヲモ呈セラルへシトア新タニ綴替ヘテ後ニ呈シケルナリ

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猪飼隆明先生評「肥後藩参百石米良家」

2013-09-15 11:03:09 | 新聞

 今日の熊本日日新聞に掲載された、猪飼隆明先生の「肥後藩三百石米良家」の読書評である。「読み応えがある」との評は、著者にとってはかけがえのない評価であろう。波乱万丈の米良家の歴史が明らかになり、苦労を重ねられたそれぞれの皆様も報われ、新たな歴史が始まって行く。
著者のお二方の御苦労に改めての敬意を表するものである。 

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未練です・・・

2013-09-14 15:00:12 | 徒然

 未練がましくいまだこんな本を買い込んでいます。本棚の俳句に関する本の数も相当増えましたが、俳句の腕は比例しません。
最近は体調のせいもあって、あまり外に出ないことも有り全くと言っていいほど、句が浮かびません。
それならば人様の名句を勉強して、いささかなりとも吸収できればとの考えなのだが、所詮このような小賢しい考えでは身に付くものではありますまい。
ただただ感心しながら、偉いもんだと感心するのみです。 

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拾遺和歌集から

2013-09-13 06:41:45 | 史料

これは過日オークションで手に入れた「御先祖御由来・全」の表紙裏に書かれていた和歌である。
この冊子には「家村蔵書」なる朱印が押されているが、書写した人物のについては、最末尾に 天保九戊戌年三月日写之 (花押)と有るが人物の特定に至るヒントはない。
何方の筆によるものかといろいろ調べていたら、末尾にやはり朱書きで 長岡佐十郎どの 図書便 とあった。筆跡は一緒である。この和歌は図書なる人物が書いたものだろう。図書を名乗る人物で時代から推定されるのは、刑部家八代・興礼(信次郎)の可能性が高い。
佐十郎どの なる人物が同一人物である可能性もあるが、これはなんとも判らない。 

さてこの和歌
                    者類堂川といふ計にや
                             三吉野ゝやま毛
                                霞帝今朝ハ
                                    見ゆら舞              とある。

調べてみると拾遺和歌集・巻一の壬生忠の歌であることが判明した。

                    はるたつといふ計にや
                             三吉野の山も霞て
                                   今朝はみゆらむ 

謎解きの楽しい時間であったが、佐十郎なる人物を特定することが次の課題である。

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体調よろしからず

2013-09-12 18:48:21 | 徒然

ここ数日どうも体調がおかしい。顔がほてって仕方がない。
台風一過から九日目、昨日まで六日真夏日(30~32℃)が続いたが、乾燥した風が気持ちよく吹き抜けるので冷房オフで過ごしてきた。
今朝は朝から体がだるくて仕方がなく、午前・午後一回ずつ昼寝をする始末である。午後は二時間ばかり昼寝をして起き上がると、顔のほてりが尋常ではない。温度計を見ると31.5℃あったのであわてて冷房を入れた。(熊本の気温は33.5℃だったらしい)

妻は外出しているし病院に出かける気力もなく、ぐうたらしているがどうやら血圧のせいらしい。
病院嫌いの私としてもさすがに診察を受けずばなるまいと思ったことだ。いろいろやることが多いのだが、現在すべて滞っている。

 

追記:症状をインターネットで調べていたら「熱中症」ではないかと思い至った。 22:08

                                          熱中症のサインは?

                   こむらがえり(足がつる)が起こる。     
                   ●顔が赤くなり、ほてる。             ◎ 
                   ●だるさを訴える。                ◎ 
                   ●体温が上がる。                 △ 
                   ●体がふらつく。                 
                   ●気分が悪くなる。                 △


 

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参勤ということ 2

2013-09-12 08:48:02 | 徒然

   前回にひきつづき松寿庵先生の講義について、タウン紙すぱいすの記事から・・・

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未だ高し

2013-09-11 16:51:14 | memo
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サイトご紹介「歴史よもやま話」

2013-09-11 14:48:30 | 徒然

                            http://nrkymt1217.blogspot.jp/2013_09_01_archive.html

HNちゃちゃさんの新しいブログが始まりました。ちゃちゃさんは日下部与助のご子孫で、メールのやり取りを通じて随分親しい感じなのですが、まだお目にかかったことがありません。日下部(志水氏)与助については永く研究を続けておられ、その成果などお聞きしたいと思います。
御船町にお住まいですが、お父様のご出身地であり又お仕事の関係もおありの山都町や、お母様のご実家の甲佐町など周辺地域の濃密な情報を発信していただけるものと思っています。

期待をしておりますが無理をなさらぬようおつづけ下さい。
 

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善悪ニ不構

2013-09-11 07:47:11 | 徒然

 大日本史料近世史料・細川家史料の第一巻は慶長五年から元和七年いっぱいの326点に及ぶ書状が収められている。
関原の戦い・大坂の陣の情報など、書状の内容は多岐に亘りこの時代の息吹が感じられる。いろいろの人達の栄枯盛衰や、将軍家や幕府要人の動き、有力人物の縁辺の消息など、詳細な情報が飛び交っている。そんななか先に書いた「ゑんじやごのみ」などの話も登場してくる。
一方忠興は将軍家の意向により疎遠であった弟・興元(頓五郎・玄蕃)と仲直りをすることになる。

              忠興君と御間能御成候儀は、慶長十三年春忠興君・興元主御一同に家康公御前江被為召、御直之上意ニ
              兄弟不和不可然候、自今和睦可被仕との旨ニより御請被仰上候

しかしながら、興元は元和五年(四年とも)三月十八日死去する。
その後の興元家のことを案じた忠興は、子息・息女の縁辺について積極的にかかわって行く。元和六年六月八日の書状である。(213)

                    尚々、玄蕃むすめをも善悪ニ不構遣申度候、是又御才覚奉頼候、以上
              卯月十三日之御状令拝見候、玄番縁邊之儀井上主計殿息女數多御座候間、御才覚之由候、兎角大炊殿
              江被仰入候而之御様子承度候、若先日御上り以前ニ被仰入事不成候は、御下次第御相談候而御吉左右
              奉待候、彌頼存候、恐々謹言
                    六月八日                                 細越中
                                                              忠(花押)
                         曾又左様
                         谷羽州様
                         内記殿

忠興は玄蕃(興元)娘については、「善悪ニ不構遣申度」と極言している。しかしながら、これ等の話はなかなか進展しない。
以降度々二人の縁邊に関する忠興の書状が見える。

「熊本県史料・近世編(一)」p395、元和八年三月廿六日付・魚住傳左衛門宛忠利書状(抜粋)に次のように有る。

              同名玄蕃殿・井上主計殿息女縁邊之儀調間敷様ニ又左御申候様子者又左より可有御申候
              又玄蕃殿姉子佐久間延との縁辺(ママ)之義(ママ)も于今不被得御意候和泉殿肝煎ニて御座
              候間御状被遣へく候哉

どうやら井上主計(正就-老中)息女との話は壊れたらしい。娘・鶴についてもなかなか進展しないでいたが、佐久間勝之の息・勝友に嫁し、後高辻宰相遂良に再嫁した。それぞれ「善悪ニ不構」という形容はあたらない良縁であったのではないか・・・・
         
          佐久間勝之---因幡守(勝友)
                     |
              +-------
              |      |
              |  高辻宰相遂良(再嫁)
              |
 玄蕃頭(頓五郎)---+--玄蕃(興昌)---興隆---→(茂木細川家)
                  |
 加藤左近大夫貞泰-------女      

 

            

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思えば遠くへ来たもんだ

2013-09-10 18:35:53 | 徒然

 さきのブログを読んだ悪友が電話をしてきた。「10年経ったって、御祝いもんだな・・・・酒でも飲むか」という。
いろいろ話のなかで感想を求められ、「思えば遠くへ来たもんだ という感じだな」と返事をした。
「うん/\10年たぁ凄いこった・・・褒めてやるよ」と今回は殊勝なコメントをもらった。

話が「思えば遠くへ来たもんだ」に及んだ。悪友曰く、武田鉄也か中原中也かどちらだと聞いてきた。
なにかよく理解できないまま、「あれは武田鉄也の歌だろうが」というと、「あーー」と電話の先で嘆息している。
「武田鉄也の歌詞は中原中也の詩のパクリだぜ・・・あーー、お前の教養の具合はそんなものか」とのたまう。
「インターネットで調べて見な」と長嘆息を残して電話が切れた。

何を言ってるのだと良く理解できないまま調べてみると、中原中也の「頑是ない歌」が出てきた。一読して理解したのだが・・・・恥ずかしながら知らなかった。
「お前の教養もインターネットから仕入れたもんだろう」と悪態をつきたいところだが、残念ながらこちらの負けである。

武田氏は盗作ではないとしているそうだが、誰が見てもそうとしか思えない。「実は・・・」と云いかねられたのだろうか。
お蔭で一つ知識(雑学?)が増えた。 

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2020年を目指す

2013-09-10 12:09:33 | 徒然

 2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催決定のニュースは、日本中を喜びの渦に巻き込んだようだ。
子供たちはオリンピック出場を夢見て、目を輝かせていることであろう。東京のみならず日本の更なる発展が見込まれることが、国民の心に明るい気持ちをもたらした。あと七年でなにがやれるのか、それぞれの立場の人たちが精いっぱいの努力をされることだろう。

何の脈絡もないのだが、私も2020年を目標にしようと思い至った。
我がサイトは2003.8.22にスタートした。今年でちょうど10年が経過した。(一人祝杯を上げようと思っていたが、当日はすっかり忘れていたのだが・・・・)
ここ最近、いつまでやれるか、いつ辞めようかという想いが募ってきたのだが、17年目となる2020年を目標に健康にも留意して頑張ろうと思い至った。
このサイトに於いては、本来唯一の目的であった「新・肥後細川藩侍帳」の整備である。私事としては、「擬作百石・我が家の歴史」を書き上げることである。
この二つに尽きる。
前者は1,000軒を超える諸家の先祖附の読破という難事をともなう。出版もしたいという思いもあるが、それはその時次第である。
後者は子・孫に対しての義務感みたいなものだが、余り深刻なものではない。ただ正確は期しておかなければならない。
もし元気にその日を迎えたら、それ以降はまさに余生としたい。重圧から解放され長生きするかもしれない。

オリンピックの成功に拍手をし、ささやかながらの自らの17年を顧みて一人祝杯をあげることにしよう。

それぞれが目指す2020年、目指す道はちがうけれど大きな目標を達成するべく努力しましょう。

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御恵贈御礼

2013-09-10 10:13:31 | 史料

                                         

芦屋市在住の畏友・寺井正文氏から多くの資料を拝受した。いつもながらのご厚意に感謝申し上げる。
氏は田邊城籠城衆寺井道運・吉右衛門父子のご子孫であり、当サイトの レポート 田辺籠城衆の子孫について も氏のご尽力によるものである。
サイト立ち上げの頃からの古いお付き合いであるが、事有るごとにいろいろ資料をお送りいただいている。
仕事の第一線から身を引かれたのち、お好きな歴史研究の為に大学の聴講などを続けておられ、その熱意には頭が下がる思いである。
今般お送りいただいた資料を拝見しても、氏の幅広い勉強・活動の一端が垣間見える。

                    ・歴史懇談   第26・27号      大坂歴史懇談会
                    ・舞鶴地方史研究 第44号     舞鶴地方史研究会
                    ・遊心     会報・第24号     伊丹・古文書を読む会  (左から)

それぞれの会の積極的な活動ぶりが羨ましく感じられるとともに、会員の皆様の質の高い論考に頭が下がる思いである。

歴史懇談26号に於いては、氏が 武家社会と「花押」 -正宗絶体絶命- を書いておられる。正宗の鶺鴒の花押の逸話と共に、花押の持つ意味について述べられている。
舞鶴地方史研究会にも積極的にかかわっておられ、舞鶴地方史研究会応援ブログ などの活動もされている。こちらの会は舞鶴における細川家の活動について積極的にとりあげられ、多くの成果が認められているところである。今般の会報における廣瀬邦彦氏の論考「細川幽齋、丹後拝領期居所表」には驚かされるとともに、ご努力に敬意をもうしあげる。

「遊心」に於いては、「旗本鈴木兵九郎のことなど」に興味をそそられた。

それぞれの会の今後のご活動を注目していきたい。

又別途、我が家の先祖・磯部氏に係る史料などもお送りいただいた。お心遣いに深謝申し上げる。

 

 


 

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秋の熊本をお楽しみください

2013-09-09 11:00:31 | 熊本
 


歴史研究会創立55周年記念 
第29回全国大会肥後熊本大会ご案内
2013年


★と  き 平成25年10月18日(金)・19日(土)・20日(日)=二泊三日
★第一日目 式典・記念講演・祝宴=[会場]熊本市「熊本交通センターホテル」
★第二日目 見学会①加藤・細川家が遺したもの(甦った熊本城、水前寺、細川家泰勝寺、五高散策、武蔵の霊巌洞)
★第三日目 見学会②古代ロマンの宝庫くまもと(西南の役・田原坂、装飾古墳、八千代座、旧細川家お茶屋跡など街道散策)

◎皆で歓迎申し上げます
 熊本は加藤家・細川家の文化を色濃く遺した城下町です。
 加藤清正公が築城した熊本城は、年間二百万人近くの皆さんが訪ね、復元なった本丸御殿などで楽しんで頂いてます。
 清正公のあとは、細川家の入国で熊本の文化は一層花開いてきました。能、茶道、「肥後六花」など熊本の豊かさを創りだしています。
 細川忠利公の招きで、客分として仕官した宮本武蔵は『五輪書』を始め、多くの芸術品を遺してくれました。
 清冽な湧水に囲まれた水前寺公園には、全面復元された細川幽斎公の「古今伝授の間」が四百年余の歴史を伝え、静かな佇まいを見せています。赤煉瓦が残る第五高等学校には、若い教師・夏目漱石や小泉八雲がやってきました。
 明治最大の内戦であった西南の役の古戦場「田原坂」は、訪ねる私達に何かを語りかけてくれます。
 古墳時代の装飾古墳は、全国の約半数が熊本県内に点在しており、お国自慢の一つです。
 皆さんの熊本の歴史探訪がご満足いただけるよう努め、心より歓迎申し上げます。
                            肥後熊本大会実行委員長  吉丸良治
              (熊本ルネッサンス県民運動本部会長/熊本県文化協会会長)

◎大会要項
◎大会要項
【一日目】式典・記念講演・祝宴=10月18日(金)
      ★会  場 熊本交通センターホテル
     (熊本市内の中心部に位置し熊本城や繁華街にもっとも近いホテル)
      〒860・8577 熊本県熊本市中央区桜町三の十
      ℡096・326・8828
        JR九州新幹線熊本駅よりバス又は市電で15分
        熊本空港よりリムジンバスで50分
      ★受付開始 午後12時30分より
■式  典 午後1時30分~午後2時20分
■記念講演 午後2時30分~午後5時
      稲葉継陽先生(熊本大学文学部教授)
        「加藤・細川家が遺したもの」 
      島津義昭先生(熊本歴史研究会会長)
        「古代ロマンの宝庫くまもと」
■祝  宴 午後6時~午後8時
■アトラクション 郷土芸能
■見 学 会
【二日目】見学会①=10月19日(土)貸切バス 熊本センターホテル集合・出発→水前寺公園(記念撮影)─熊大(五高)漱石・八雲─細川家泰勝寺─武蔵旧居(NHK車窓)─城見櫓(昼食)─熊本城─城彩苑─本妙寺─武蔵の霊巌洞─ホテル(午後6時着予定)
【三日目】見学会②=10月20日(日)貸切バス 熊本センターホテル集合・出発→上熊本駅 漱石下車地 池田駅(車窓)─田原坂古戦場─装飾古墳館(山鹿市)─八千代座、細川家御茶屋跡散策─山鹿市内(昼食)─鞠池城跡公園─菊池神社(車窓)─ホテル(午後3時30分着予定)
▼参加費
①コース(10/18)式 典+記念講演……………………………2千円
②コース(10/18)祝 宴…………………………………………1万円
③コース(10/19)見学会①(昼食付)……………………1万2千円
④コース(10/20)見学会②(昼食付)……………………1万2千円
▼宿泊は会場と同じ「熊本交通センターホテル」をご用意しておりますが、先着順にさせていただく都合で、満室になった場合には、会場より徒歩6分の「三井ガーデンホテル熊本」(熊本市中央区紺屋今町1の20 ℡096・352・1131)をご用意いたします。
▼宿泊代金は、「熊本交通センターホテル」は⑤シングル7千5百円⑥ツインお二人で1万3千円となります。また、「三井ガーデンホテル熊本」の場合は、⑦シングル8千円、⑧ツインお二人で1万4千円となります。いずれも朝食付、税・サービス料込みですが、夕食は付きませんので各自おとり下さい。
*前泊・後泊ご希望の方は、事務局まで早めにお問い合わせ下さい。

★申込方法=左記まで葉書・TEL・FAXで「熊本大会に参加」と、お申し込み下さい。
 折り返し、大会参加申込用紙をお送りします。
★申込締切=8月10日(土)まで。
★申込先=〒141・0031
東京都品川区西五反田2の14の10の504
歴史研究会 全国大会本部事務局
TEL03・3779・3127
FAX03・3779・5063

【主催】全国歴史研究会
本部運営委員会
現地実行委員会

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