年代からすると四代・助之允だと思われる。
中瀬家初代は松下助三郎・豊長、のち母方の姓に改め中瀬助九郎・豊長と称している。
この松下氏、遠祖は豊臣秀吉が最初に仕えたとされる松下嘉兵衛である。
その二男が石見、その子源太左衛門は加藤式部少輔(明成)の臣であったが会津騒動の節か浪々の身となり、嫡男豊長と共に官途を求めて江戸に出んとする。
旅の途中父源太左衛門が不測の害にあい死去、寛文九年、豊長十二歳の時である。豊永は剣の修業を積み十四歳の時仇敵を打ち取った。
その勇名を聞きつけ仕官の誘いが多かったとされるが、姓を母方の中瀬氏に改めたうえで細川家に仕官している。
平四ツ目結紋は松下氏(宇多源氏佐々木氏泰綱流)の家紋である。
■ 中瀬助一郎 (南東26-2)
松下石見守 遠州久能城主16、000石 松下之綱 武家家伝-松下氏
松下外記 (石見二男)
松下源太左衛門 加藤式部少輔・臣
1、助九郎・豊長
元禄六年九月(廿挺頭)~元禄十二年六月 中小姓頭
元禄十二年六月~宝永二年十一月 小姓頭
宝永二年十一月~正徳三年八月 用人
正徳五年九月(御側番頭之触組)~享保十年七月(隠居)大御目付
2、助之允
中瀬柯庭 名は長徳、助之允と称し、柯庭また文山と号す。細川藩に仕へ禄千二百石、
番頭たり。別業を南郊に作り惟適園といふ。徂徠東涯等記文を贈りて之を
賞賛せり。愼庵五畏友の一人なり、明和五年正月十七日没す。年八十一。
墓は萬日山如意庵。
3、助之進 比着座 千弐百石 宝暦二年申二月廿七日
寛延元年七月(廿挺頭)~宝暦二年二月(免)
中瀬適叟 名は長徳、助之進と称し、白蝶と号す。芍薬花栽培の元祖にして之に関する
著述あり。寛政十二年七月十日没す、年八十五。
➡ 4、助之允 大組附 千石
5、助五郎 千弐百石当時千石
6、助三郎 御番方・松下清蔵組 九百石
細川斎護公御書出(文政九年九月)九百石
7、辰三郎(助之進・適叟) 御番方十二番須佐美権之允組
同上 (弘化四年二月)八百石
8、辰三郎(助一郎) 八百石
参考 中瀬家伝略(上妻文庫-42)
参考 近世畸人伝 「僧南谷(附録・中瀬助九郎)」