何人もの人が久馬を名乗っているため、資料が出てきても人物の特定が出来ずまことに困る。
この人は嘉永五年の日付から、八代もしくは九代目であることが判るが特定は難しい。
下に記するように下津家は久我右大臣家の流れである。初代将監の弟は、東久世家の祖・通簾である。
各代が細川家中にあって重職についている。
差し物の「七段ザイ」の「ザイ」の意味が解らずにいたが、某サイトに「彩祓(ザイ)の作りかた」 という記事があり、「木遣の方々が用いる祭具の一つ」と判明した。
感謝・・・
■ 下津縫殿 (南東51-1)
久我右大臣道堅(道興) ・・・先祖附には久我右大将道興とある
棒庵(三男 将監 宗秀 捧庵トモ)
(織豊大名家臣団辞典西国編-細川氏-下津氏)
元鹿苑寺僧、還俗して加藤清正臣(加藤家侍帳:弐千二十七石四斗九升)
1、将監(内記宗政・有安)
(1)人持衆、番頭并組外衆 千石
(2)千八十三石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(3)△八十三石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・ママ
(4)御知行御合力米御御扶持方被遣衆・現米十三石余 (寛文四年六月・御侍帳)・・有安
弟・東久世家祖-通廉
2、縫殿・休也 人持衆併組迯衆 千石 (真源院様御代御侍名附)・・清吉
沢村宇右衛門組 千石 (寛文四年六月・御侍帳)・・縫殿助
3、久馬・通久 人持衆併組迯衆 小笠原組 千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
4、久馬・宗顕 千石 着座御備頭 十番 屋敷・宮内
5、久馬(吉次郎・通政)
下津久馬 名は通政、質直人を愛し、剣槍射法に長じ、又茗利に深し。
最も俳諧を嗜む。
安永七年十一月三日没す。年五十六。
6、政之助(久馬・将監)
明和八年六月~寛永元年十月 小姓頭
寛政元年十月~寛政九年十一月 御留守居大頭
7、久馬 寛政十二年九月~文化五年七月 小姓頭
文化五年七月~文化六年五月 奉行(大奉行助勤)
文化六年五月~文化八年一月 大奉行
8、勇熊(久馬) 文政十二年九月~天保三年十一月 番頭
天保三年十一月~天保十年二月 奉行
天保十五年九月~弘化五年二月 番頭
弘化三年四月~弘化四年四月 鶴崎番頭
9、熊人(久馬・縫殿・工馬) 千石
嘉永七年四月~文久三年三月 番頭
文久三年三月~慶応三年三月 小姓頭
慶応二年二月縫殿ト改名
慶応三年十月(大組附)~明治二年五月 番頭
明治元年閏四月~明治二年二月 大奉行