津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■うたた寝

2022-08-23 17:16:14 | 徒然

 高校野球も終わり、楽しみがなくなって時間つぶしが一つ消えてしまった。
今日は左肩に痛みが有り、手には若干のしびれがある。手を振ると痛いので腕を抱えて歩かねばならず、散歩は控えた。
土曜日にリックにPCを入れ資料や本を三冊などつめこみ、あまりにも重いので手提げにも入れて出かけたので、どうもこれが応えている。
キャリーに乗せて行けばよかったと後で思い、まさしく後の祭りである。
2回目のワクチン接種後あたりから痛みが激しく成ったが、其勢ではないと今では思っているのだが・・・
寝ていても左手を置くために毛布で場所を作ったり、また左には寝返りが打てず、睡眠不足がつのり今日は昼食後は長い時間午睡ならぬうたた寝をしてしまった。
パソコンのタイピングも左手首に違和感があって、いつものようには参らぬ。

            足音にめざめうたた寝つくろいぬ  津々

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■森鴎外『阿部一族』の一考察

2022-08-23 08:30:50 | 小川研次氏論考

  ご厚誼いただいている小倉在住で「小倉藩葡萄酒研究会」の小川研次さまには、過去に於いても細川家にかかわる数々の論考をお寄せいただいた。
この度は【森鴎外『阿部一族』の一考察】をご紹介申し上げる。光尚の側近であった林外記は、光尚の死後、佐藤傳三郎一族に屋敷に踏み込まれて死亡している。
この原因については私も色々調べているがよく判らない、不可解な事件である。
林家においては一人妻女が隣家の医師・明石某の屋敷に逃げ込んで助かったが、この明石氏を含めての考察である。

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         森鴎外『阿部一族』の一考察       小川研次


     大正2年(1913)に発表された『阿部一族』だが、主人公阿部弥一右衛門の殉死と一族の上意討ちによる滅
    亡を描いた歴史短編小説である。

    弥一右衛門の隣人栖本又七郎の証言に基づいて書かれたという『阿部茶事談』(以下茶事談)を底本としている。
    現在、『茶事談』は史実と異なっていることは知られている。そもそも『茶事談』成立の意図はなんだろう。
    細川家が史実を歪曲してまでも成立させなければならなかった理由である。それは、当時の時代を反映した事
    件簿と考えられる。
事件は寛永20年(1643)2月17日の妙解院(細川忠利)三回忌の折に起きる。 
    発端は弥一右衛門嫡子権兵衛が、焼香の際に髻を切り、位牌の前に置いたことにより、捕縛されたのである。
    このわずか四日後に権兵衛の四人の弟とその家族全員は上意討ちにより殺害、そ
して権兵衛は縛首となった事
    件である。
さて、『茶事談』は、この事件を正当化するために書かれたとみる。

    細川家において、既に阿部一族滅亡のシナリオができていたと思える。妙解院に殉じた弥一右衛門は己の因縁
    を断ち切る覚悟と子らへの跡式相続を願うものであったのではなかろ
うか。それは阿部家の安泰を意味する。
    しかし、それは細川家にとって許されることでは
なかった。では、その因縁とは何であろう。

    『茶事談』の登場人物である阿部弥一右衛門と大目付林外記の共通点であるが、殉死に遅れた弥一右衛門と阿
    部一族滅亡を画作した外記も追腹をしないという悪評の的になってい
る。さらに二人を相反させている。実に
    巧妙に作為的である。
また、この二人の共通点は藩主没後に起きている事件である。妙解院の場合は阿部一族
    上
意討ち、真源院(光尚)は外記父子殺害(鴎外本では不記載)である。それは各々に藩主の擁護という意志が働い
    ていたことに他ならない。

    『茶事談』は弥一右衛門殉死に始まり、一族上意討ち、そして外記殺害で幕を閉じるのである。
    江戸幕府が編修した『寛政重修諸家譜』に事件の真相に迫る記録が記されている。
    それは「細川肥後守家臣林外記某が妻」であり、その妻の母は「豊臣家の臣明石掃部助全登が女」であったこ
    とだ。敬虔なキリシタンであった明石掃部の孫が外記の妻であり、そ
の母は掃部の娘レジイナであったのであ
    る。
また、「弥一右衛門初ハ明石猪之助と云」(「綿考輯録・巻五十二」)とあり、明石姓であった。

    慶長20年(1615)の大阪夏の陣で敗北した豊臣勢であったヨハネ明石掃部と男子パウロ内記の生存説がある。
    事実、内記は生き延びていた。(「イエズス会日本年報」)

    もし、内記が弥一右衛門であったならば、妹レジイナが幼子と共に兄を頼って豊前国に入ったと考えられる。
    推定だが、内記は宇佐郡山村の惣庄屋与右衛門の養子となる。もちろん、中津にいた忠利の計らいである。

  寛永9年(1632)、肥後国へ転封となった忠利が農民身分であった弥一右衛門を侍身分としてまでも連れてたかっ
  たことの理由はその出自もあるがキリシタンであったことだろう

  忠利は母ガラシャの追悼ミサを行なっていた。寛永13年(1636)に側近二十七名がキリシ
タンから仏教徒に改宗
  したことが物語っている。(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』)

  しかし、忠利は阿部一族を守った。当然、嫡子光尚にも申し送りをしていたと思われる。
  明石一族という因縁を背負った弥一右衛門は忠利に殉じた。その二年後の惨劇を予想できただろうか。また、
  権兵衛が髻を切るという行動は一族に忍び寄る危機を回避するために
嫡子としての侍身分を返上し、宇佐郡山
  村で帰農する覚悟であったのではなかろうか。

  忠利の義兄小笠原忠真の父秀政と兄忠脩は大阪夏の陣で討死している。忠真自身も瀕死の重症であった。
  徳川家康の鬼孫と言われた忠真は決して明石一族を許すことはできなかっ
た。

  明石一族は敵将一族であり、敵討ちの相手であったのだ。忠利が生きている間は手出しをしなかったが、忠真
  は忠興の許しを得て細川家により上意討ちを果たしたのである。

  光尚は阿部一族を守ろうとしたが、祖父忠興の存在は絶対であった。
  「明石一族」である林外記を討たないとの条件があったかもしれない。
  阿部一族上意討ちの時、光尚は松野右京邸にいた。右京の父は大友宗麟嫡男義統である。
 「施薬院全宗養女伊藤甲斐守娘、義統妻少納言ノ局ナリ」(「大友家文書録四」)その子が右京(正照)である。
  右京は細川家家臣であった大友宗麟の三男親盛の養子となる。特に親盛は加賀山隼人亡き後、豊前国のキリシ
  タン柱石と目されていた。当然、右京もキリシタンであった。(共に寛
永13年転宗)

  実は、阿部一族上意討ちの同年一月に親盛は没している。その後の上意討ちを考えると親盛の何らかの力が作
  用していたのかも知れない。
光尚が右京邸に身を寄せていたのは、恐怖心と懺悔の念からだろうか。

  その六年後の慶安2年(1649)12月、光尚は三十一歳の若さで急逝する。嫡子六丸(綱利)はわずか七歳であったた
  めに、領地返上の遺言を遺していた。しかし、家
老らの働きにより、翌年の四月に幕府は相続を認めた。
  その条件は小笠原忠真の監督だっ
た。細川家存続の黒幕となった忠真の宿願は明白である。

 
 六月二十八日、忠真と幕府目付が肥後国に入る。細川家家臣佐藤伝三郎は目付にお供した。
 そして三日後の七月一日、伝三郎は林外記邸に討ち入る。(『熊本藩年稿』) 外記と二人の息子は殺害されたが、
 妻は隣人の医師明石玄碩邸に逃れ、八月八日には熊本を去ったと
ある。「(細川家日帳)」

 ここで明石一族は全滅となったのである。伝三郎は当然の如く無罪放免であった。
 キリシタンと徳川家の宿敵という運命を背負った明石一族は歴史の闇に葬られたのである
 しかし、事件から三百六十年後、鴎外はいみじくも『阿部茶事談』というパンドラの箱を開けたのである。

                   (了)

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■資料を片付ける

2022-08-22 17:19:44 | 先祖附

 土曜日の史談会での講演を終わり、その晩から日曜にかけてどっと疲れが出てしまった。
80爺様が立ちっぱなしでマイクなしで1時間45分の長丁場で、おまけに1年半ぶりのことだから、予想せぬではなかったが、それにしても草臥れた。
日曜日はさすがに朝散歩もお休み、今日は3.3㌔を45分というスローペースであるいたが、暑さもあってグロッキー気味。
それでも今日は、一ㇳ月ばかりのこのための勉強に引っ張り出して積みあがった本や資料の小山を本棚の元の位置に戻した。
ブログの方もしばらくは「善蔵さん」から離れようと思っている。

「大日本近世資料・細川家史料」などを取り出して、最晩年の忠利の行動を詳細に眺めてみようと思っている。
「家紋」のほうもしばらくお休みしたので再開を予定しているが、随分古文書の方も離れているので図書館へ出かけて古文書史料の面白そうなものを発見したいと思っている。
明日は図書館はお休み、明後日は本も返さなければならないからその予定、あまり暑く成りませんように・・・

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■埋め立てられた熊本城の堀

2022-08-22 06:32:08 | 徒然

 土曜日の熊本史談会が終わった後、ビジターの若い方が声を掛けてこられ、昭和28年の水害で埋めたてられた空堀の元の状態を知る古い写真を知らないかとのお尋ねを受けた。
そういわれると、28年以前の状態は良くしらない。お尋ねは某教授の論考にこの石垣になにやら施設があったらしいと仰る。(それが何かはよく判らない)
当事者の某教授にお尋ねしたら「ある史料にそうあったから書いただけ」との回答だったそうだ。(????・・)
こうなると、こちらも気に成ってくる。
そもそもどこにどれだけの高さの水害廃土を盛り土したのだろうか。
過日の報道では宇土櫓石垣下を調査試掘されたら、石垣が2m新たに顔を出したとあった。そんなものなのだろうか。
去年は薬研堀に水がたまって水堀になったという報道があった。
ここも水害廃土で埋め立てられているが、ここも2mくらいのものか?。その下には往時の排水施設などがあったのではないかと思われる。
場所はある程度特定できるが、その高さがどの程度なのかさえよく判らない。
お尋ね頂いた方の疑問は、熊本城が文化財施設であるため簡単に掘り返すことが出来ないから、将来共に疑問のままに終るのかもしれない。

 かって、古城のまわりにあった水堀・空堀は完全に埋め立てられ現在では古城公園に生まれ変わっている。
地元では、元に戻したいという思いがお有りのようだ。

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■私の高額書籍の入手法

2022-08-21 13:03:36 | 書籍・読書

            

 この書籍の左手は、熊本県立図書館から借りたもの、右はこの内容を確認したうえで購入したものである。
前者は返却時期が迫っているので、返しに出かけなければならない。
「熊本藩からみた日本の近世」は吉川弘文館の発行、値段は11,000円(外税)という高価なものだから、内容を確認できなければ少々躊躇してしまう。
このコロナが留まるところを知らない時期、本屋さん迄出かける気に成らない。
そこでまずは熊本県立図書館で内容を確認し、どうしても手元に置きたいときは中古書を探して購入するのが私の手法である。
現在7,744円(税込み・郵送料無料)というものが一番安いようだが、私は随分安く手に入れることが出来てラッキーだった。
それぞれの論考が興味深いが、高祖父・上田久兵衛も登場する「肥後藩きょうと留守居の役割変遷」は座右しておかないとまずいだろうという思いである。
宮地正人氏(当時・東大史料編纂所教授)編の「幕末京都の政局と朝廷ー肥後藩留守居役の書状・日記から見たー」と並べて本棚に入れた。

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■自民党統一教会派

2022-08-21 09:03:36 | 徒然

 安倍元首相銃撃死事件以来クローズアップされた旧統一教会の支援を受けた議員が数多くいることに驚愕しているが、これらの方々は派閥の名を冠せずに自民党統一教会派とされることを提案したい。

 事件は一転、弔い選挙となり自民党は大勝利した。しかし結果として安倍元首相の父祖三代にわたる統一教会との関りがクローズアップされ、また多くの安倍派の議員がこのオカルト集団との関係が明らかになってきた。
どうやらこの集団は安倍派の集票マシンであったらしい。
夫れと共に集団の理念を日本の保守派の手を借りて定着させようとしている。このオカルトに日本がコントロールされようとしていたと思うと、まことに寒気立ちおぞましいことではある。
国会は休会中だが、岸田首相は参院選の大勝利の結果が思わぬ方向に進展したが、自民党統一教会派にたいする指導力も発揮することが出来ず支持率も低下してきた。
国会が開催されると、観桜会や森友事件などを凌駕する攻撃を受けることになるだろう。

 安倍氏の強引な手法は危なっかしくも見えたが、しかし長期政権となりその死により多くの疑惑も真実を知り得なくなった。
岸田氏は国葬を早々に決定したが、明恵夫人にとっては迷惑なことかもしれないが、ビッグマザーであるお母上からしたら大きな喜びであろう。
しかし国民の半分が反対だというその数は、このオカルトとの関りが白日の下になり、ますます反対の数が増えるだろう。
かって小泉氏は「自民党をぶっ壊す」といって、結果としてブルドーザー田中派にダメージを与え弱小化させた。
今回の自民党統一教会派は、なにやかや言い逃れをするのだろうが、国民は次の選挙では賢明な判断をするであろう。
自民党の勢力地図がかわるのではないかと密かに思っている。

 それにしても野党の体たらくや、弱小政党の萌芽が今後どうなっていくのかも興味深い。

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■川は流れる「肥後銀行本店」の傍を・・・

2022-08-20 06:37:04 | 歴史

 今日は熊本史談会の8月例会、私が講師を務めることになった。
その中で、「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」が存在は認められているものの、研究者の間ではあまり扱いはよろしくないことに触れてみたいと思っている。
内容は豊かだが、なにせ昭和の時代に書写されたと思われる史料だからという故がある。
一方、研究者の先生方が熊本の中世を知るうえで「茶臼山ト隈本之絵図」は特別扱いをされているが、これとて現代の用紙に書き写されたもので、その原本は見当たらないらしい。
片手落ちではないかと私は言いたいのである。
この資料については私の勉強不足でつい最近まで、四木社(後の代継神社)の位置が坪井川の川向うにあって、つじつまが合わないぞと雄たけびを上げていた。
今回の講演に当たり、5・6冊の本を読破して氷解した。
これは中世の絵図である。ここに描かれている坪井川の位置は中世の流路であり、現在の坪井側はその支流を拡幅したとある。
現市役所の前あたりから、かっての花畑邸の裏の追い回し田畑から下通あたりを流れ、肥後銀行本店辺りから白川に落ちていたという。
某先生のお説だが、「肥後銀行本店」が出てくるとは思わなかった。
よくよく考えると、この流路はいわゆる白川の大蛇行による坪井川への流れ込みのルートとほぼ同じではないのか?
たったあのくらいの絵図で、よく流路を特定されたと、さすが大先生の眼力には畏れ入ってしまった。
在野のただ物好きで歴史を勉強している者には、考えも及ばぬ論理の展開である。

一番最初は「隈本古城史」にある森下功氏の論考「茶臼山ト隈本之絵図について」だろうと思われ、これにはそんなおふざけ(失礼・・)は見当たらない。
上記のような解説は色々な書物によりそのように解説されている。「肥後銀行本店」の先生の名前は伏せておこう。

 一方、考古学者らしい科学的根拠を以て、富田紘一先生は「白川・坪井川流路考」を発表され、驚きを以て迎えられたのはその11年後の平成7年(1995)の事である。
富田先生は、上記のような話には組しておられないようだ。先生は坪井川の中世の流路についてどうお考えか、お聞きしてみたいと切に思っている。

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■御座敷芸

2022-08-19 16:54:00 | 徒然

 土曜日に熊本史談会でお話をさせて戴くにあたって、その中に「えいとう節」の事が出てくるので、松野国策先生の貴重な記録「熊本城築城地搗音頭」を読んでいる。
読みながら若い頃の楽しい思い出がよみがえってきた。

 私は長く建築設計の仕事に携わってきたが、御施主さんや建設会社その他のお付き合いで、随分お酒の付き合いがあった。
ある年などは、12月の忘年会を20日ほどやったことがある。一ト月ほとんど二日酔いであった。
昔は「御座敷」で飲む機会も相当あって、いろんな人たちの御座敷芸を楽しませていただいた。
勢いこちらにも出番が回ってくるから何かご披露しなければならない。
そこで仲居さんにお願いして、一升瓶、はたき、長めの麻ひもを準備してもらう。
昔は料亭や旅館には掃除用に「はたき」は必需品でおいてあった。この柄の端っこに麻ひもを結び柄の方から一升瓶に落とし込む。
指名がかかると、仲居さんに頼んでこれをうやうやしく持ち出してもらい、机の上に置いてもらう。
麻ひもを低い位置でひっぱると、「はたき」は上り、緩めると下に落ちる。そしてはたきの布は御幣の如く踊り出す。
これで地搗き歌「えいとう節」を歌うのである。幸い仲居さんが「えいとう節」をいくつかご存じだったから大いに助かった。
これが受けて私は大いに面目を施した。
これはある病院の落成の時の話なのだが、あとで聞いた処によると、これを病院長がレバトリーに入れられたそうで、麻ひもを4・5本にして皆で引っ張ってもらうとおおにぎわいになったと得意げであった。
ご自身は、眼鏡状に五円玉に紐を通したものを鼻に付けられて、見事な安来節を踊られた。

 その他、割り箸をタクト代わりにして、人が歌い出すと指揮をしたり、「ちょちょんがちょん」の振り付けを只ひたすらに何遍も繰り返す踊りを披露したりした。
参加者全員が私の後ろに並び、仲居さんも交じって座敷を何周もして座は盛り上がった。
ある時は、熊本城の花見に出かけ二の丸広場でこれをやったら、大いに受けてみて居た人が踊り出したことがある。
これをやり出すと「家元」と呼ばれたが、残念ながら最近はこういう機会がなく、私のこの御座敷芸?をご披露する機会はない。
20代のころには、通っていたお茶の先生主催の新年会で「何かやれ」といわれて、座布団を三枚程重ねて落語の小噺をやったが、これは見事にはずし赤っ恥をかいたことも忘れ得ぬ思い出である。

すっかり時代が変わり、新年会や忘年会さえ若い人たちは嫌うというし、ましてや御座敷で何か披露しろなどとなると、噴飯ものなのだろう。
要請があればご伝授したい。



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■善蔵と「ぬしがえのおとっつあん」

2022-08-19 07:29:43 | 歴史

 「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」を書き残した人物は善三郎とある。
善蔵と善三郎の関係はというと、善三郎の父親(ぬしがえのおとっつあん)が同僚であったようだ。
「ぬしがえのおとっつあん」は「主(あなた)が家のお父さん」だから敬語だとも言えなくもない。
上記資料に於いては「わるがえの・・・」ともあるが、これは「吾が家の・・・」だろう。
天正・文禄の役では共に朝鮮に渡って苦労しているから、築城にもかかわったのだろう。
清正は、西生浦城・蔚山城を築城した。蔚山城は四ヶ月でそろそろ完成というところを攻められて、一万程が孤立籠城した。
その中に善蔵と善三郎の父親も入っていたかもしれない。約10日間籠城、15㌔離れた西生浦城にいた清正らが駆け付け明朝連合軍は敗走した。
善蔵らはここで城の築城についての知識を得たのであろう。熊本城の縄張りは蔚山城によく似ている。
帰国して二人は、清正に安土城・大阪城に赴き研究するよう命を受けている。「図引き」は「ぬしがえのおとっつあん」がしたという。

 山田貴司氏の論考「文禄・慶長の役と加藤清正の領国支配」(中世熊本の地域権力と社会所収)には、朝鮮へ渡海した職人の一覧がある。
鍛冶職・檜物師・大工・大鋸・鞘師・塗師・紺屋・矢作職人・諸職人・おんなとも・眼医者等々が渡海している。
その中の大工職をみると、文禄2年5月29日付書状では、「かち五人・大工廿人」と大鋸十丁とともに丈夫な道具をもたせて至急派遣せよとしている。
同年8月8日書状では、これらの者が未だ到着しないと怒っている。
文禄3年3月12日書状では、大工が到着次第、在陣中の大工を帰国させるとする。
同年の事かと思われるが、大工13人・大鋸引き5丁を帰国させたとある。2年以上在陣したらしい。
慶長の役に於いては2年の正月、鍛冶や大工などが到着したが「下手」が含まれていると叱責する書状がある。

 善蔵と善三郎の父親は、文禄3年の帰国組だろうか?。
慶長3年朝鮮から持ち帰った材木で「高麗門」を作事したのが善蔵である。

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■チョット観音の引っ越し先

2022-08-18 08:32:54 | 徒然

 熊本城築城前の茶臼山の頂上にあった「クワンノン堂」は、鋤身崎(西子飼町)の正蔵院近くの慈性庵という観音堂にしばしの間お引越しをいただいた。ゆえに「チョット観音」と呼ばれた。
そのチョット様、その後どちらへお出でになったのだろうか?

 参勤交代では花畑邸をご出発になった一行は、熊本城内を通り二の丸御門から、京町口に出ると氏家家の屋敷を廻って観音坂を下られ、内坪井から立町を通り豊後路を初日の宿泊地の大津へ向かわれる。
観音坂の名前の由来は、この坂を下り切った左手に観音堂があったことによる。
ここに鎮座して居られた観音様も、茶臼山の観音堂のご出身?だと伝わる。チョット様がここに来られて落ち着かれたのではないか。
どんなに資料を探しても両方のつながりを思わせる資料はない。

 我が熊本史談会会員の福田晴男氏の名著書「くまもとお大師まわり」にも、両方登場するが、つながりには触れて居られないところを見ると、資料には現れないのだろう。

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■細川光尚宛、従兄弟・蜂須賀忠英書状

2022-08-18 06:28:48 | オークション

  寛永19年(?) 書状 折紙形式 計1点 徳島藩 第2代藩主 蜂須賀忠英 花押 熊本藩主 細川肥後守あての返書 滞在先からの発信 阿波国        
        

 阿波徳島藩二代目藩主・蜂須賀忠英(蜂須賀小六の曾孫)から、肥後細川藩二代目藩主・細川光尚にあてた書状である。
それぞれが挨拶状を交わしている。忠英は腫物が出来たらしく光尚はこれにもふれているが、どうやら全壊している。
二人の親し気な文通は、忠英の生母が徳川家康養女・敬台院(小笠原秀政女・万)であり、光尚生母も又家康養女・保壽院(小笠原秀政女・千代)であり従兄弟の関係である事による。
小笠原秀政室は徳川家康嫡男信康の女登久姫(峯高院)であり、長女が万姫、次女が千代姫である。
男子は忠侑(嫡男長次が中津藩主)、忠真(小倉藩主)、忠知(杵築藩主)、松平重直(出羽上羽藩主)などそれぞれが大名となった。

商品説明が詳しいが、寛永19年の書状と比定して居られる。光尚は前年3月17日に死去した後5月5日遺領相続、5月19日に江戸発駕、6月14日熊本着。ひょっとすると18年かもしれない。

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■子飼商店街は白川だった説

2022-08-17 08:37:07 | 熊本

 肥後国誌を読むと「白川」の項に「里俗ノ説ニ」としていくつかの白川の流路が紹介されている。
これには五説あり、富田紘一氏は「加藤清正-築城と治水」の中の「加藤清正の熊本城と白川・坪井川大改修」に於いて図にして紹介しておられる。
その第一は「今ノ千反畑正蔵院ノ南ヲ流レ末ハ田畑ヨリ長六橋ノ上流ニ出タリト云」とある。
これは現在の子飼橋あたりから、鋤ノ身崎あたりへ誠に不思議な道筋があるが、現在「子飼商店街」として庶民に愛される小さな道筋である。
これがまさに、その白川の流路であったというのである。そういわれると、この不自然に走る道筋が川の跡だとすると、大いに納得できる。
そういう理解でこの町周辺を眺めてみると、また視点がかわっていろいろな発見があるかもしれない。
ここに出てきた「正蔵院」の脇には、かっては「チョット観音」があったとされる。
これは熊本城築城に際し、茶臼山の頂上にあった観音堂とここに御移り頂いたと伝えられる。チョットの期間であったのだろうか、その行方は知れない。

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■インターネット復帰まで

2022-08-16 13:57:40 | 先祖附

 インターネットがつながらない原因は、NTTの機器の不具合が判明、ソフトバンクのコールセンターに電話をして待つこと約30分、縷々説明する事約7分、ソフトバンクからNTTに連絡を入れてもらい機器を交換してもらうことにする。
そこでNTTからの連絡待ち、いつ電話が入るのかもわからないから携帯を常時持っておかなければならない。
電話は二回までだそうで、着信に気が付かなかったでは少々まずいことになる。
急遽充電して準備万端連絡待ちである。
私は携帯のテザイングからWiFiを可動してインターネットを動かしているが、奥方のPCが動かすことが出来ずにいる。
買物情報を眺めることが出来ずにいる。
今日中にはNTTから連絡があると思うが、機器の交換は明日だろうか、明後日だろうか?
待ち遠しい事ではある。それにしてもNTTの機器に不具合が生じるとは・・・??

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■文章のニュアンスから察せられること

2022-08-16 06:37:44 | 徒然

 熊本城顕彰会の会誌は現在「復刻第126号」まで来ている。復刻1~41号分は「合本」を購入して持っている。
その他は68号からしか持っていないので、42~67号は持っていない。42~90号までは合冊№2が出ているから購入しようと思っている。
2・5・8・11月の季刊で送られてきた時精読すればよいのだが、なかなかそれが果たされず、今読み返しを行っている。
そして新たな発見をするのである。

    富田紘一先生の最近の「茶臼山ト隈本之絵図」に対するコメントは、その文章のニュアンスから、絵図に対して疑問をお持ちのような感じが察せられる。その文章は以下のようなものである。

  「茶臼山ト隈本之絵図」と題する鳥観図が「新熊本市史絵図地図帳」に収録されている。その中には千葉城も古城も
  なく、その築城以前の中世絵図として一時注目された。しかし、その後判明した、白川の大蛇行が描かれておらず、
  あまりに「肥後国誌」などの記述と合致するため、地誌の成果を絵にしたものと考えられる。話題にはなるが、これ
  を基礎資料として歴史を考えると間違いになる。描いた用紙も便箋で、近代の描写といえる。今のところ中世の確実
  な資料はなく、第Ⅰ期のおける具体的な状況を知る手立てはない。

 第一高校のグランドあたりから、桜馬場、竹の丸あたりは坪井川(蛇行した白川)の河岸であり、後背地は切り立ったがけ地であったろうに、そのような描写もなく、私は大いに疑問をもち、なんとかその崖地の状況を書き加えてみようと頑張ったことがある。徒労に期したことはひとえに私の才能のなさの故である。
考えてみると単純な絵で、坪井川が白川の長六橋当たりに流れ込み、左手に井芹川が縦方向に書き込まれている。
坪井川が新たに開削される前の状態(大蛇行の入込を埋め、白川が直流化した状態)とも見て取れる。

 先生は御病気だとお聞きする。是非お目にかかってお話を伺いたいと思うし、私たちの疑問もぶつけてみたい。

 

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■WiFiのトラブル発生

2022-08-15 09:06:33 | 徒然

 朝っぱらからWiFiのトラブルです。しばらくWiFiの電源を落としたり復帰に向けて頑張りましたが現況復帰しません。
ルーターなどをゴミをかぶらないようにと、段ボールの覆いをしていましたから熱による可能性もあります。
しばらく様子を見ることにしました。
そこで携帯のデザリングを利用してWiFi接続し急場をしのいでいます。
しばらく利用していませんでしたが、20日の熊本史談会では会場で資料としてインターネット接続が必要となりましたから、予行演習みたいなこととなりましたが、これはさすがに傘寿爺さんでも簡単に接続が出来ました。
少々トラブル気味の無線マウスも買い替え準備万端ですが、肝腎の講演内容のチェックがまだ完了していません。
とんでもない史料をテーマにしたなと、少々公開気味です。・・・頑張りましょう・・・

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