武田信玄の嫡男・義信は、側近の者たちが父信玄の暗殺を企てた為罪を問われ、廃嫡の上幽閉された(28歳)。二年後には幽閉先で死去した。
岩間六兵衛はその義信の子だと綿考輯録は記す「武田信玄嫡孫之由、甲州没落之時幼年にて母つれて立隠れ、兼て小笠原殿御懇意故育置れ候由、武田六兵衛と申候、今度(千代姫入輿)御附被仰付候事御断候得は、秀忠公より一通り六兵衛を御旗本並に被召直、其上ニ而御輿入の御供可仕旨御諚二而御請申上候、此節より岩間と改候と也 (綿考輯録・巻二十八)」
他にも異なる説があるが綿考輯録の説を採用して置く。
その六兵衛が、光尚の側室が懐妊したことを家老の長岡監物(米田是長)に知らせた書状だが、側室(清光院)の素性について記されている。
(寛永十九年)閏九月十五日の岩間六兵衛から長岡監物宛書状(抜粋)
懐妊之者御満足ニ被思召候通被仰下候、親ハたいかうのそうせふ様御内ニ而内海但馬と申候、
此そうせふの儀ハ只今之広橋大納言御舎弟ニ而御座候、すしょうもあまりあしき物ニてハ無
御座候間、先々大慶ニ存候、以下略
「すしょう(素性)もあまりにあしき(悪い)物ニてハなく」とし、その人物は「親は太閤の曽祖父(広橋大納言の弟)様の御内にて内海但馬」だとしている。
「御内」とは身内なのか、家来なのかよく理解できない。
細川家家譜においても「京都浪士清水道是女」としており、於豊前小倉御侍帳では「京都浪人・御客分・清水大納言」になっている。
広橋大納言は清水大納言になるし、「内海但馬はどこ行った?」という感じで、養女扱いにでもしたのだろうか、決定的な説明がなされていないように思える。
光尚は当初、六兵衛から側室が懐妊したという報告を受け、堕胎を指示している。
六兵衛がこれを諫め、預かって、六丸(綱利)の誕生に至った。六兵衛は忠利の室・千代姫が小笠原家から嫁いできた時に付き添ってきて細川家臣となった人物である。
光尚の子綱利の誕生後もその功で、室の海津とともに力をもった。熊本城下の地図には、かっての第一高校があった現・九州郵政局庁舎裏手あたりに広大な屋敷があったことが判る。
懐妊した側室・清光院がその派手な金遣いに度々家老・松井興長の諫言を受けた人物である。