津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■閏九月十五日の岩間六兵衛から長岡監物宛書状「綱利生母の素性」

2023-09-15 06:01:28 | 史料

武田信玄の嫡男・義信は、側近の者たちが父信玄の暗殺を企てた為罪を問われ、廃嫡の上幽閉された(28歳)。二年後には幽閉先で死去した。
岩間六兵衛はその義信の子だと綿考輯録は記す「武田信玄嫡孫之由、甲州没落之時幼年にて母つれて立隠れ、兼て小笠原殿御懇意故育置れ候由、武田六兵衛と申候、今度(千代姫入輿)御附被仰付候事御断候得は、秀忠公より一通り六兵衛を御旗本並に被召直、其上ニ而御輿入の御供可仕旨御諚二而御請申上候、此節より岩間と改候と也 (綿考輯録・巻二十八)」
他にも異なる説があるが綿考輯録の説を採用して置く。
その六兵衛が、光尚の側室が懐妊したことを家老の長岡監物(米田是長)に知らせた書状だが、側室(清光院)の素性について記されている。

(寛永十九年)閏九月十五日の岩間六兵衛から長岡監物宛書状(抜粋)
    懐妊之者御満足ニ被思召候通被仰下候、親ハたいかうのそうせふ様御内ニ而内海但馬と申候、
    此そうせふの儀ハ只今之広橋大納言御舎弟ニ而御座候、すしょうもあまりあしき物ニてハ無
    御座候間、先々大慶ニ存候、以下略

「すしょう(素性)もあまりにあしき(悪い)物ニてハなく」とし、その人物は「親は太閤の曽祖父(広橋大納言の弟)様の御内にて内海但馬」だとしている。
「御内」とは身内なのか、家来なのかよく理解できない。
細川家家譜においても「京都浪士清水道是女」としており、於豊前小倉御侍帳では「京都浪人・御客分・清水大納言」になっている。
広橋大納言は清水大納言になるし、「内海但馬はどこ行った?」という感じで、養女扱いにでもしたのだろうか、決定的な説明がなされていないように思える。

 光尚は当初、六兵衛から側室が懐妊したという報告を受け、堕胎を指示している。
六兵衛がこれを諫め、預かって、六丸(綱利)の誕生に至った。六兵衛は忠利の室・千代姫が小笠原家から嫁いできた時に付き添ってきて細川家臣となった人物である。
光尚の子綱利の誕生後もその功で、室の海津とともに力をもった。熊本城下の地図には、かっての第一高校があった現・九州郵政局庁舎裏手あたりに広大な屋敷があったことが判る。
懐妊した側室・清光院がその派手な金遣いに度々家老・松井興長の諫言を受けた人物である。

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■今年の流行語大賞はほぼ「あれ」

2023-09-14 21:21:58 | 徒然

 阪神タイガースが久々の「あれ」・・大阪の町は大騒ぎのことだろう。
私も珍しく8回の攻防をTVで見て「あれ」間違いなしとおもってTVを消した。
自分の部屋でTV観戦していた奥方が歓声を上げ、私の部屋に報告に来たので「あれ、そうですか」と答えて置いた。
今年の流行語大賞は間違いなく「あれ」ですね。
ジャイアンツの原監督も、もう引退せざるを得ないでしょう。去年身を引いておけば、敵地で胴上げを見る事も無かったろうにと思いますね。引き際が大切だということ・・・身に沁みて御感じになったことでしょう。
岡田監督「あれ」おめでとう。

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■吉田傳太復仇現聞録(4-了)

2023-09-14 10:45:59 | 史料

時二慶應戊辰ノ年余(筆者)護美公ニ扈従シテ上京シ外交兼務ヲ被命 益田勇外交生ナリ 勇或日大阪旅舎ニ於テ松(山)藩士某ト出會時事ヲ談合ス 某ハ本日本国ニ歸ント別ヲ告グ 将ニ艫ヲ解キ大阪川口ヲ出帆セントスルニ偶風雨■ニ起テ抜錨スル能ハズト再ビ上陸シ来リ 益田ニ向イ突然問テ云ニ頓斗尋タルヿ忘レタリ 時二尊藩ニ安田善助・黒瀬市郎助ト称スル人アリヤ否ヤト 益田アリト云 其故如何ト某云フ 両人幣藩ニ滞在セルヿ数年ナリ 時々両人ノ得色ノ英談ニハ僕等客年東京ニ於テ因循ノ留守居等ヲ斬殺シタル事アリ 一面来数年ヲ經ルモ人其事實ヲ知ラズト 真ニ此事アリタルヤ 益(田)答テ云実二此事アリ當時留守居ハ吉田平之助ト云 長男吉田傳太復仇ノ為メニ千辛萬苦焦思此万心探索スルトモ未タ讐敵ノ姓名ヲ聞テ其ノ■ノ居ル処ヲ聞知セズト 事ノ始末ヲ詳陳シ畢テ益田■事ノ他ニ洩露ナカランヿヲ固ク倚頼ス 某モ始終ヲ聞テ唯諾シテ帰藩ス 益田其事ヲ政府ニ内達シ又吉田ニ密報ス 傳太之ヲ聞テ雀躍限リナク數年ノ大望漸ク今日二達スト直ニ若黨ノ辰之助ヲ連レ松山藩ニ赴ク 同藩ハ官軍ニ抗敵シタルニ付偶本日開城ノ日二當リ藩内騒擾セリ 然共某違約セズ黒瀬ヲ放免セズ乗船セシメ将ニ鶴崎ニ送付セントスル 船中ニ逢フト時二安田ハ前ノ日病死セリト 黒瀬ノ一人ヲ陰ニ請取リ連レ来リテ鶴崎町龍興寺ニ伴ヒ出シ吉田傳太進ミ出黒瀬ニ向イ姓名ヲ述テ貴様黒瀬市郎助ハ正シク實父吉田平之助ノ讐敵也 直ニ勝負ヲ決セント云 黒瀬臆シテ姓名ヲ云ズ 偶鶴崎詰ノ郡代瀬戸熊助ハ其場二出役セシニ黒瀬ガ億シテ名乗出ザルヲ見テ瀬戸黒瀬ニ向イ今更ニ瀬戸ヲ見知ザルヤト云 黒瀬俛首シ答サリシガ暫時ニシテ姓名ヲ述ブ 吉田尚進ミテ黒瀬ニ向イ然ハ勝負ヲ決セント云テ終ニ斬之 嘗テ黒瀬ハ瀬戸熊助物頭ヲ勤居タル時ノ隊下ナルヲ以テ如此叱言セシナリト 故ニ黒瀬其言ニ服セリト 于時慶應戊辰ノ年二月ノ三日也 主此都合七ヶ年間星霜ヲ踏テ漸ク本望ヲ達シ首級ヲ亡父吉田平之助ノ墓前二供シ憤霊ヲ慰安セシメタリ 人皆之ヲ快トセザルハナシ 尋テ従政府傳太ノ復仇ヲ遂タルヲ以テ家禄如元恩下シ賜リト也 誠ニ天道恢々疎ニシテ漏サズトハ此謂也
     于時明治三拾年三月四日           真藤安正記ス

                    (了)

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■後塵を拝した肥後の維新

2023-09-14 07:01:02 | 歴史

                                                        内田健三氏      

 前回書いた■内藤濯と竜北のわらべ唄に登場する内藤濯の妹の男子が、内田健三氏である。
つまり内田氏は、小楠の弟子で医師の内藤泰吉の娘の子、つまり泰吉の孫にあたる。

近代史家・花立三郎熊本大学教授は「熊本歴史叢書5、細川藩の終焉と明治の熊本」に、「もう一つの明治維新」を書かれているがその冒頭に、内田健三氏の平成12年12月29日の熊本日々新聞の「肥後=細川藩は明治維新に乗り遅れた」という記事を取り上げて居られる。
我々は徳富蘆花の「熊本の維新は、明治三年に来ました」のフレーズが頭から離れない。
研究者の先生方も、これに勝るオリジナルな表現が出来かねるのか、どなたも一様にこのフレーズを引用される。
立花氏も長い間蘆花のこの言葉に「不信をもった」とされる。
先の内田氏のこの「熊本藩が乗り遅れた明治維新」とは、「維新の大業は、薩長土肥に推進され、肥後は後塵を拝した」と書かれている。
つまり四藩の主導によりなされた維新の大業には、肥後ならずともその他大勢の藩も乗り遅れたという事になる。
蘆花がいう熊本の維新とは、主語として「実学党による」と言う言葉が冠されてしかるべきなのだろう。

               (未完)

 

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■内藤濯と竜北のわらべ唄

2023-09-13 15:55:25 | 先祖附

 サン・テグジュベリの「星の王子様」の翻訳者・内藤濯は、横井小楠に薫陶を受けた医師・内藤泰吉の三男である。妹が一人いた。
その妹は八代郡話鹿島村(1954年竜北町になる、現在八代市)の素封家・内田家に嫁いだ。
濯は晩年、この妹が歌っていたという「わらべ歌」を諳んじていて、「私の読書遍歴」にその歌詞を紹介している。竜北の方々でご存知の方が居られるだろうか。

    向えのザボンは梅の花 朝はしぼんで昼ひらく 晩はしおれて門にたつ
      門に立つのは千松か万松か まぁだ七つにならんさき お馬の上から飛びおりて
        具足の袂に矢をうけて 姉からもらった笙の笛 弟からもろうた小刀(むしゃがたな)
     姉御のお部屋においたれば まま母さんから探されて おお腹立ちや腹立ちや
       そのよにお腹が立つならば 紙と硯を引きよせて 思う事を書きつけて
         紫川に泳がしてみれば 浮いては沈み浮いては沈み アラ面白の浮き草やぁ浮き草やぁ

このわらべ歌にどのような曲が付けられていたのだろうか?
その地方独特の俗謡が次第に失われていく。内藤濯の没年は昭和52年(1977)だから録音などの資料が存在しているのかもしれない。

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■吉田傳太復仇現聞録(3)

2023-09-13 06:05:28 | 史料

時二堤坐ニアリ進ミ出テ身分不肖ナリト雖モ幣藩ヨリ出タル横井小楠ヲ斬殺戮スル何ゾ他藩ノ人ノ手ヲ借ランヤ吾請フ 先ツ往テ横井ヲ刺ン諸子ハ余ガ後ユヨリ来リ援セヨト云 堤ノ決心顔色ニ顕ル 一座皆其議ニ賛同ス 堤即夜登上ス 安田外長土之浪士ノ数名ト同行昼夜兼行東京ニ着シ日夜横井ノ動静ヲ窺フ時ニ黒瀬市郎助外様之足軽東京留守居ノ書記吉田平之助附属也 モ同ク尊王攘夷ノ志ヲ有スル同志ノ者也 故ニ黒瀬ヨリ前ノ横井ヲ初メ吉田・都築ノ者共或夜酒楼ニ登リ愉快ヲ尽ス事我既ニ探知スト 此ノ事ヲ堤ニ密告ス 堤聞テ時至レリト歓躍シ彼日ヲ待テ三名ト共ニ彼ノ酒楼ニ駆ケ来リ前陳ノ通リ退散シタリト 初メヨリ都築・吉田ハ殺害スル存念ハナカリシモ横井上座ニ連席スルガ為メ二如斯次第ニ立至リタリト 時二戸外ニ應援ニ来リ居タル長土ノ内浪士等堤等ノ出来タルヲ見テ事遂ケタルヤ如何ト尋ネタルニ堤云フ 余過リテ残念ニモ横井ハ足早クモ逃去リト 長土人云今前キニ手拭ヲ肩二掛テ手ヲ下ケ腰ヲ屈メ声ヲ低メ御免下ダサレト云テ通リ行キシハ真ノ町人ト思イシニ彼者ガ横井ナルカ僕等早クモ横井ナルヿヲ覺ラバ逃サシモノヲ彼等ガ運命盡ズト云 堤ハ横井ヲ討洩ンタルヿヲ悔恨シ安田・黒瀬ニ向テ云フニ余何ノ面目アリテ長土ノ同志者ヲ見ンヤ 従是西京南禅寺山中二赴キ割腹シ死謝セント 安田・黒瀬ノ両人君死セハ倶ニ死ヲ同セント 堤ハ両人ヲ止メテ君等必後日大志ヲ遂ケヨトテ堤又云 我自謂フニ横井ハ實ニ国賊ト云ト雖モ世禄之士也 吉田モ亦同シ 我卑賎ノ身分ヲ以テ不憚上殺害ニ及ビタル其罪亦輕カラザルナリ 今也上ニ 上トハ正四位韶邦公ナリ 上京南禅寺ニ在陣マシマス 同所ニ赴キ遥拝萬謝屠腹死謝セハ罪少シク補フ處アラント云 訣別シテ去リ馳セ行キテ同寺観音堂ニ至リ辞世一首ヲ詠 其歌失念 遥ニ君公ヲ三拝九拝シ畢テ従容刀ヲ抜キテ咽ヲ刺ス 殊エズ堂上ヨリ土上ニ轉落シ流血淋■ニ溢レ惣身血ニ塗ミレ倒レ居タルヲ南禅寺在陣番士隊ノ家僕等ガ山中二採薪ノ路上ニ此形況ヲ見て驚愕シ帰リテ番士等ニ告グ 皆疾歩シテ往テ之ヲ見レバ現ニ家僕ノ告ク処ノ如ク満身血ニ浸リ顔色容貌異形立テ正視スル能ハズト 後長州ノ人士ナラント然ル二後考ルニ前キニ堤ノ横井ヲ殺害スル時應援ニ来リシ長州人某ガ堤ガ自裁シタル事ヲ聞テ来タリ見シニ果シテ言フ処ニ違ハザルヲ憐ミ感シテ斯ク埋葬シタルト 必スヤ然ラン 今ヤ安田・黒瀬ノ両人ノ居処ヲ知ラズト云 穿鑿役具ニ健太郎ノ申出タル始末趣ニ聞取り之ヲ政府ニ達ス 政府ヨリモ又傳太ニ内報ス 此二至リテ初テ吉田傳太モ父ノ讐ハ全ク安田・黒瀬タルヿヲ確知シ益以テ切歯扼腕一日モ早ク復仇シ本望ヲ遂ケント八方探索セシモ時運等未到来セズ徒ニ怨ヲ含テ空ク光陰ヲ送ル数年
                 (つづく)

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■「天道覺明論」を読む

2023-09-12 10:27:58 | 徒然

       
 もう14・5年にもなろうか、ある会合で隣り合わせになった方が一枚のコピーを取り出して、目を通して居
られる。脇からではそれが何であるのかはうかがい知れない。

しばらくすると、私の方に首を廻して「こぎゃんとば読みよります」と言って見せてくれたのが、まさにこの
コピーである。

最近「横井小楠遺稿集」を読んでいたら、その本の最末尾にこの文章があるを見つけて、そのとき見せられた
コピーがまさにこれだったことを知り驚いてしまった。

当時私は小楠の「天道覺明論」など見たことも読んだこともなくて、その時初めて目にしたようなものだった。
「わたしゃ、こら横井小楠が書いたって思いますばってん、お宅はどぎゃん思いなはっですか?」と聞かれる。
初めて見たとも言えなくなって「勉強不足でよく判りません」と答えて逃げた。話はこれっきりである。
いまでは、偽書だとされているようだが、本物だとされる研究者もおられるようだ。
私は小楠先生の文章だとおもったりしているが、皆様如何・・・・
山本夏彦氏がその著「完本文語文」で言われるように、口語文は本当に格調が高い。「文語文にすればこの格
調は保持できない」と言われることだろう。

「読書百遍意自ずから通ず」というが、まだ読みようが足りない。

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■強力コンビ

2023-09-12 06:03:05 | 歴史

        

             細川斎護                松井章之(てるゆき)

 蓑田勝彦氏の論考熊本藩主=細川護の「実学連」排除ー「学校党」は存在したかを読むと、実学党に対する頑なな細川齊護の実像が浮かんでくる。
併せて堤勝彦氏の論考肥後藩における「実学」の形成と展開ー藩主細川齊護と藩家老長岡監物の場合ーを読むと、蓑田氏の論考とは若干の差異が認められるが、より理解を深めることが出来る。
藩主齊護に追従して、実学派(後の坪井派)の長岡監物(米田是容)に相対したのが、三卿家老筆頭の松井章之である。
藩主と筆頭家老がタッグを組むのだから、実学派の活動はひこばえが頭を切られるように成長を止められた。
齊護は先代・齊樹の急養子でその遺蹟相続にはいろいろ問題が起きた。
齊樹夫人の実方の人物に決定しかかった処に、細川家の正統を継承させるべきだという声が上がり、急遽使者・杉浦仁一郎が8日間で江戸へ走った。
正統を強く主張したのが、是容の父・米田是陸であったことからすると、齊護にとって是陸は恩人ともいえる人物である。

かって、齊護公御家督一件之事(一)及び齊護公御家督一件之事(二)でご紹介してきたが、相続問題は齊護にとってはある意味重圧であったろうと思われる。
まだ先々代藩主で実叔父である齊茲も健在であった。その意を伺う必要もあったかもしれない。

松井章之と米田監物(是容)は歳もあまり変わらず、家老就任も同様である。強いライバル意識が有り是容が家老職を辞任し野に下った時の悲痛な思いは如何ばかりであったろうか。
かってご紹介した是容の歌「閑居燈」はそんな時期のものではないかと思っている。
しかし実学派の台頭により遅ればせながら肥後の維新がやってきた。是容は弟子たちの活躍ぶりを見ることが出来ないまま死去したが、一方章之は長生きして明治20年75歳で死去した。
肥後の維新をどういう想いで見たことだろうか。

一方、齊護の「実学派嫌い」は継嗣・慶順(韶邦)にも継承された感があるが、こちらは実学派の士と共に藩政改革を目指した弟護久・護美兄弟によって隠居させられている。実学派と新政府の力を借りての静かなクーデターともいえる。
齊護の「実学派嫌い」は実の子護久・護美兄弟によって覆った。まさに時代が求めた結果であろう。

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■吉田傳太復仇現聞録(2)

2023-09-11 06:51:56 | 史料

却説平之助ニ男子二人アリ 吉田已久馬當年十九歳 后傳左衛門後ニ傳太ト改名ス 二男平太郎ト云 幼少 傳太奮慨復讐ノ念ヲ起シ若黨田中辰之助 辰之助ハ一季抱ノ若黨ニテ平之助召連上京変後平之助怪我ヲ手厚介抱行届キ又傳太復仇ノ際迄始末附添イ専助力致タルニ付後従政府其志操ヲ被賞特別ヲ以一領一疋ニ被召加タル也 夫ヨリ津本又助ト變名シ 或ル時ハ平民ノ姿トナリ或ハ又深編傘ヲ冠リ虚無僧ノ形トナリ種々ニ容貌ヲ變態シ国中ハ云ニ及バズ東西ノ兩京ヲ初メ邊出口ニテ所衆人ノ輻轃スル處ハ往テ探ラザルハナク親族等ノ者共ニ至ルマデ同心協力百方手ヲ分ケ探索スルモ一向相分ラズ 時二上羽清八ハ平之助實方ノ甥ナルガ復仇念ノ切迫ノ情ヨリ発狂家出其終ル處ヲ知ラズト云 傳太ハ清八ノ脱走スルノ情ヲ察シテ復仇ノ念益ニ切ナリ時ニ客年東京白金邸ニテ軽輩ノ者ニ入江某ト云者故アリテ同役ノ某ヲ誤リテ邸内ヲ脱走シ竊ニ熊本ニ連レ立戻リ妻ヲ連レ長男健太郎ハ其侭残シ置キ其妻ヲ連レ立去リタリ 偶文久三年九月兩公子 護久公・護美公 上京セラル 當時天下ノ形勢不穏ニヨリ無塞者多人数召連ラレタリ 安野小屋之助モ其人数ニ加リタリ 同人右謙(健)太郎ヲ供人ニ連レ上京シタルニ健太郎一日洛中ヲ見物ニ行キ居タル処不斗両親ニ行キ逢イ互ニ歓ビ其場ヨリ謙(健)太郎モ両親ニ連ラレ京地ヲ立退キ豊後国府内ニ行キ相暮居ル内同所ハ其當時旧幕ヨリ諸浪人ヲ厳密ニ探索シ或ハ放逐スル等厳敷如何ニモ潜伏シ成ク難カリシニヨリ両親ハ逸早ク立除キシ二健太郎一人残居タルニ依リ直ニ捕縛セラル 於同所被糺明タル処健太郎ハ決テ諸浮浪躰ノ者ト交接等シタル自分ノ者ニハ無之段逐一素性迄モ明白ニ申出タルニ付府内ヨリ熊本藩廳エ護送セラレ直ニ熊本監獄へ入監セラレタリ 依テ精々穿鑿等被遂タル処結局健太郎ハ他藩ノ浪士共トハ一行ニ出會セズ肥後国脱走之者安田喜助・黒瀬市郎助ト於府内ニテハ専ラ出會致居タルト重テ穿鑿役ヨリ安田・黒瀬ノ両人者如何ナル者ニテ如何ナル譯ニテ府内ニ参リ居タル歟ト尋問タルニ此両人ハ客年於東京表吉田平之助ヲ殺害シ其後各所ニ潜伏シタルト 尚穿鑿役ヨリ吉田平之助ニハ何ノ遺恨ヲ以テ殺害ハ致タル歟ト詰問セラレタルニ依リテ健太郎委細申出タル次第ニハ先ツ根元ノ大趣意ハ旧藩脱走ノ者堤松左衛門 外様足軽 ハ兼テ尊王攘夷ノ志ヲ抱キ亡命シ長州ニ赴ク 當時轟武兵衛・川上玄斎同席ス 同所ニ於テ土州長州其外諸藩脱走ノ勤皇家大勢集會シ時躰ヲ論スルニ議論逼々ニシテ一決セザリシニ決局ノ論ニ説ニ別レ一説ニハ兵庫開港ノ御運ニ至ラハ皇国ハ終ニ外夷ノ為ニ厭別セラル事必然ノ勢也 然ニ兵庫ニ異国舩碇泊スルノ機ニ投シ艇身刀ヲ揮テ醜虜ヲ掃擾スルニ加カント 又ハ一■ニ開港ヲ主張する巨魁横井平四郎ヲ斬害シセンカ此二策ノ内一二決スルヨリ他謀ナシ 併シ五六軰ノ醜夷等ノ討戮スルニ如カズト議ニ一決ス
                  (つづく)

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■国を去る人・帰る人

2023-09-10 08:51:17 | 歴史

 今日9月10日は、年は変われど日本の歴史上にその名を残した人たちの運命の日であった。

(1)その一人は、ガラシャ夫人のキリスト教への傾倒の橋懸りを作ったとされる高山右近で、慶長19年家康の
   キリシタン国外追放をうけてマニラに向け出国するに当たり、忠興に別れの書簡を送っている。
   教養ある武人のその心情を吐露する書簡の内容には心打たれる。
   マニラに於いては、スペイン総督の歓迎などを受けているが、失意と旅の疲れ等が重なりわずか二か月足
   らずで死去している。

            

                    近日出舟仕候
                    仍此呈一軸致進上候
                    誠誰ニカト存候志耳
                      帰ラシト思ヘハ兼テ
                      梓弓ナキ数ニイル
                      名ヲソ留ル
                    彼ハ向戦場命墜
                    名ヲ天下ニ挙 是ハ
                    南海ニ趣 命懸天名ヲ流 
                    如何六十年之苦
                    忽散申候 此中之御礼ハ
                    中々申上候/\
                    恐惶敬白
                            南坊
                      九月十日   等伯 花押
                     羽越中様
                      参る人々御中


(2)徳川家康の二男・結城秀康の子・松平忠直は大坂冬の陣で戦功をあげるものの論功行賞に不満を抱き、その
   後酒色に溺れ、家臣などを殺害するなどの乱行を重ねた。参勤さえも拒否するようになったため、元和9年
   豊後に配流となった。豊後に於いては人が変わたようになり穏やかな生活をつづけた。
   慶安3年9月10日に忠直は死去する。豊前で側室に二男一女が誕生し、忠直の死をうけて越前からの迎えによ
   りこの人たちが帰国している。次子(三男)永見長良は後に起こる越後騒動の渦中の人物として知られる。
              ■大分の松平忠直配流の賄領・・番外編 

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■事件に巻き込まれた人々

2023-09-10 06:12:41 | 歴史

 「神風連の志を自らの志」と言ってはばからない、荒木精之氏の著「近代への叛逆」を読んでいる。
「神風連の墓について」とこれに関連する記事が数十頁あるが、氏は神風連の乱で亡くなった方々のお墓を自ら歩き回ってそのすべて確認されている。終戦前の話である。
その情熱はこの著書にも現れていて、「熊本新聞」の当時の記事などもすべて書留め、この中に紹介されている。
それを見ると、意外な事件の内実が見えてくる。
パラパラ頁をめくっていたら、裁判を受けた人たちの判決の内容が記されている。
そんな中に「三渕永次郎」の名前を見付け、少々驚いてしまった。
石原醜男氏著の「神風連血涙史」は完璧にとはいかないが一応は目を通している中で、氏の名前は見かけなかったように思う。

細川家に近いご親族ともいえるご大身の家柄のお人が何事と思い記事を精読する。

                    第二大区九小区高橋町 士族 三渕永次郎
 其方儀太田伴雄ヨリ熊本鎮台ヲ襲撃セントノ談示ヲ受ルト雖モ同意セサルヲ以テ其罪ヲ問ハス

その他11名程が同様の処分を得たようだが、その中には神風連の人々に「脅迫されて参加」した人が半分ほどいる事が記されている。
「罪は問わず」とはいえ裁判を受けたのだから、一応容疑を掛けられたことは間違いないのだろう。
脅迫された人たちは、人を殺めることがあったならばそれ相当の罪を得ることに間違いない。
熊本には「郷党」の強いきずながあり、死した人の中にも止む無く参加して人もあるのではなかろうか。
荒木氏のこの資料の開示は大きな意味合いを持つ。

 

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■ロシア皇太子の入れ墨

2023-09-09 07:25:50 | 歴史

 観光地で入浴する外人観光客の入れ墨の問題に、関係者が困惑しているニュースをよく聞くが、日本でも若者や女性などの間でも「Tattoo」として広がりを見せている。
かっては「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始めなり」などといって、入れ墨等はもっての外であり、罪を得たものが罪として入れ墨をいれられ「入れ墨者」と言われた。
やくざの世界やチョット粋がったお兄ちゃんたちが、入れ墨を入れて不幸者となった。
現代の若者にとっては「Tattoo」としてファッションアイテムの一つとして捉えられているのであろう。
又、船員などに多かったのは、船が遭難した時の目印にするためだとも伝えられる。

 作家・吉村昭氏の著に大津事件で襲撃されたロシア皇太子の事を題材にした「ニコライ遭難」という一文が有るそうだが、同氏の「史実を歩く」にこの作品を書くに当たっての経緯が書かれている。
氏の「丹念な調査を進めて歴史の真実に肉薄して作品に反映させる」という姿勢が明らかにされている。

 事件は明治24年5月11日、滋賀県大津の街中でロシア皇太子ニコライの通行の警備をしていた巡査・津田三蔵がサーベルで切りつけるというものである。
ニコライは数十メートル走って逃げたという。津田がサーベルをかざして追いかけてきたが、有栖川宮を始めとする日本の随行員は一人として止めに入る者はいなかった。ゲオリギオスがお土産に買った杖で津田を叩き、取り落としたサーベルを拾った車夫が津田に切り付けて取り押さえた。
ドナルドキーンの「明治天皇(下巻)」には、第42章に「ロシア皇太子襲撃」(p122~143)という項が立てられているが、明治天皇は事件の10分後有栖川宮から電報による報告を受けると、すぐさま天皇は自ら見舞いに行くことを決意する。翌12日の早朝天皇は汽車で出発する。
すぐさまニコライを訪問するが、ロシアの随行団がこれを拒否している。翌13日ゲオリギオスの案内でようやく対面することが出来て深い遺憾の意を表した。皇太子も又、東京で再開することを約した。
しかし、本国からの連絡を受けて皇太子一行は帰国するとの報告を受ける。天皇は晩餐の席に招待するがこれも拒否され憂慮された。しかし、逆に皇太子の方から晩餐の招待が有り天皇は快諾して、政府重臣たちの心配を振り切って出席し、その席は大きな笑い声が聞こえるほど打ち解けたものであったという。

 話が脱線してしまったが、入れ墨に話を戻そう。
実は事件前の4月27・8日らしいが、寄港した長崎で彫り物師を招き、入れ墨を施したというのである。
吉村氏は長崎の図書館で偶然展示されていたロシア皇太子の来航の史料からこの事実を発見されている。2~3日彫り物師を船内に招き入れ「両臂(かいな)に刺繍を為し居らるゝよし」というという新聞記事も残されているという。同時に船員の多くも入れ墨をしたらしい。
下絵帳をしめしてこれから選ばれたらしいが、皇太子の入れ墨は「龍」ではなかったかと、吉村氏はスケッチさえしておられる。

作家の著作に関する資料収集は出版社の助太刀を頼む場合が多いそうだが、吉村氏の夫々の作品のディテールの確かさは、自らの徹底的な取材によるものだとされる。
それは読んでいて実感する。

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■熊本史談会9月講演会の御案内

2023-09-09 06:51:04 | 熊本史談会

  昭和29年5月「宮崎滔天・民蔵・孫文追悼集会」が熊本で催されるに当たって、その前日、
  柴垣邸「大凡荘」に集合した日本の著名人の集合写真67人の経歴などを辿りながら、当会
  会員の田辺氏がこの「大凡荘主人ー柴垣隆」の人物像に迫ります。
  興味ある多くの皆様にご参会いただきたくご案内を申し上げます。
  どうぞよろしくお願い申し上げます。

                 記

期日:令和5年9月16日(土)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
演題:「知られざる人 大凡人・柴垣隆」の出自と彼を取り巻く人達
講師:熊本史談会会員 田辺 元武氏

                     

一般参加自由:
    会場がウエルパルくまもとになって居りますのでご注意くださいませ。
    事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190 眞藤)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。

    又、マスクの着用は随意と致しますが、ご記名をお願いいたします。

 

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■歴史は悲しい「小篠四兄弟と義犬・虎」

2023-09-08 11:01:18 | 歴史

 本妙寺参道の両側に並ぶ塔頭の左側の奥に位置して「雲晴院」がある。
ここに「神風連の挙」に参加して果てた小篠(おざさ)四兄弟の墓地があるが、脇に四男・源三が愛した「虎」が埋葬されている。
桜山神社には「義犬虎」という碑が建立されている。明治九年十一月廿ニ日出版の熊本新聞・第百卅号には次のように記している。

    哀れにも又珍らしき一話あり、第一大区三小区高麗門士族小篠某は兄弟四人共凶徒の内なりしが、某
    末弟小篠源三幼少の時肥前嶋原へ渡海せし折一疋の狗児を見て遂に連れ帰り、やゝ成長に従ひ、一家
    挙つて是を愛し殊に兄弟四人の内若他行すればいつも行衛を尋ぬる有様なりしが、本月初に至り兄弟
    の人々自尽せし折柄此狗魚類の料理捨を喰わんとするを、家僕が戯れに狗に向ひ、斯迄汝を愛せられ
    し主兄弟共に死に就給ひしに今此魚肉を食うに忍ひんやと云を聞、狗は忽ち首を垂れて退きしが、其
    後行衛しれされば一家不思議におもひ一両日を過ぎて兄弟の墓所なる寺へ参詣したるに、犬(ママ)
    数日食を断たる有様にて痩せ衰え、彼の墳墓を守り居たり、皆々涙にくれて呼へとも更に応せず、拠
    なく縄を付屋敷へ曳帰り、門を出さる様気を付ありしか夕暮に至り猶行衛を失ひ、方々捜索すれ共知
    れす、一家心を痛めしか翌日に至り屋敷の隅なる大樹の本に此狗自ら舌を喰切り斃れ居たりと云。旧
    藩の昔忠利公のお鷹二羽は火葬の火に飛入、重賢公の御寵犬は犬牽の津崎五助と共に殉死を遂たりし
    は、本県の人口に膾炙する処なるか小篠氏の犬(ママ)も亦比類なるへし。

四人兄弟が想いを一にして志の為に若い命を捧げたこと自体に涙に誘われるが、「虎」のこの逸話はさらに悲しさを増幅させる。
神風連資料館・収蔵品図録には「餓死」とあるが、此の記事では「舌を喰い切った」とあり、これはどうやら脚色くさい。

花園に住んでいたころ、本妙寺を散策するとお寺の角の低い塀越しに四兄弟のお墓が望むことが出来たので手を合わせたことだが、「虎」のお墓には気付かなかった。
仁王門下の参道の道路環境が随分変わったと聞く。ぜひとも本妙寺周辺を掃苔したいと思っている。

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■吉田傳太復仇現聞録(1)

2023-09-08 06:51:50 | 史料

古人云天道(網)恢々疎ニシテ不漏トハ信ナル哉 吉田傳太去慶應元(四)戌辰ノ年(1868)某ノ日旧藩主細川公旧領地今ヤ豊後國大分縣鶴崎龍興寺ニ於テ復讐ヲ原ルニ傳太ノ父ヲ平之助ト云 實ハ上羽蔀ノ第三子ニシテ 蔀ハ感公在世ニ用人ヲ勤メタル一ノ人物ナリ 吉田某ノ養子トナリ禄百五十石ヲ領ス 平之助天資明敏吏事ニ長ス 初メ穿鑿役トナリ郡代トナル 功績アリ 平之助築キタル所ノ新地今尚下益城郡松橋ニ在リテ新地嚆矢トス 累進シテ東京留守居役ヲ勤ル中文久二年(1862)十二月九日ノ夜当時用人ノ谷内蔵之允・中小姓頭ノ都築四郎・横井平四郎
   其砌越前春嶽公平四郎ハ通穪號小楠維新ノ初メ聘セラレ居
参與職ニ被任明治二年一月一日参内ノ途上郡山藩士柳田直藏ヨリ殺
   害ニ遇フ
直蔵懐中ノ書アリ其趣意ニ云 横井平四郎此者是迠ノ奸計ハ不遑枚挙候得〃舎之今般夷賊ニ同心天主教ヲ海内エ蔓延
   セシメントス 邪教蔓延致候節ハ皇国ヲ外夷ノ物ト相成ス事顕然朝廷御登用ノ人材ヲ及殺害候事深ク奉恐入候得共賣國之姦臣
   要路ニ塞リ居候得者前条ノ苐ニ立至候故不得止加天罰者天下有志人 又小楠ノ所著ノ天道革命アリ 其ノ論ニ云 夫レ宇宙ノ間山
   川草木人獣之属アル 猶人身四支百骸有ルガ如 宇宙ノ理ヲ不知者ハ首足ノ具アルヲ不知ニ異ナルヿナシ 然ハ宇宙ニアル所謂万
   國皆是一身体而無人我無親疎ノ理ヲ明シ内外同一ナルヿヲ審ニスベシ 古ヨリ英明ノ主威得宇宙ニ溥ク万国帰嚮スルニ至ル者
   ハ其旨闊達物トシテ容サルナク事トシテ取ラサルナシ 其他慈化慈育心口天下異ナルヿ能ナキナリ 如此ニシテ世界之主蒼生之
   君ㇳ可云也 其身小ニシテ一体一物ノ理ヲ知サルハ猶全身ノ痿テ疾痛疴痒ヲ覚サルト同シ 百世身ヲ終ルマデ觧悟ナスヿ能ハス
   亦可不憐乎 抑我日本ノ如頑固固陋世々帝王血脈相傳エ賢愚之無差別其位ヲ犯シ其國ヲ私シテ如此無忌憚嗚呼是私心浅見ノ甚
   シキ 可勝慨嘆乎 然ル二堂々タル神州三千年皇統一系万国ニ卓越ス國ナリト其心實ニ愚昧猥ニ億兆蒼生之上ニ居而己ナラス僅
   ニ三千年ナル者ヲ以テ無窮トシ後世又如此トシ思フ 夫人生三千年ノ如キハ天道一瞬目ノ如シ 焉三千年ヲ以大數トシ又後世無
   窮ト云ヿヲ得ンヤ 其興廃存亡人為ヲ以加計知乎 今日ノ如キ実二天地開闢以来興廃気運ナルカ故ニ海外ノ諸国ニ於テ天理自然
   ニ本キ悔悟発明文化ノ域ニ至ラントスル國不少 唯日本蕞示タル孤島ニ拠テ帝王不代汚隆ナキノ國ト思イ暴悪愚昧ノ君ㇳ雖モ
   堯舜鴻武ノ禪譲放伐ヲ得ヿ能ハズ 其亡滅ヲトル心セリ 速ニ固陋積弊ノ大害ヲ擾除シ天道無窮大意ニ本キ菰見ヲ看破シ宇宙第
   一国ㇳナランヿヲ欲セズンバアルベカラズ 如此ノ理ヲ推窮シテハ遂ニ大活眼ノ域ニ至ラシム者乎 方今改進自由ノ兩黨派タル
   者多クハ横井ノ門ニ出ル
四名ト東京府下酒樓ニ於テ平之助ノ出京ヲ命セラレタル離盃ノ宴會ヲ催シ居タル内内藏之允ハ突然御用ノ事起リ前キニ帰リシニ平之助平四郎四郎ノ三人ハ残リ居テ酒汲シ酒宴ノ最中何者カ面躰ヲ隠シタル者三名ノ者抜刀ニテ駈込ミ来リ斬リ懸リタルニ平四郎ハ逸シ早クモ逃走シ四郎ハ手ニ負イナガラ遁走シ平之助ハ踏ミ止リ相働キ所々ニ重創ヲ蒙リタルニモ不屈奮闘シタルゾ 三名者共モ其侭退散シタリト 平之助ハ一旦宿所ニ帰タルモ無程重創ノ為メニ死亡セリ 誠ニ其場ノ事タルヤ不慮ノ出来事ニテ何者ノ何ノ遺恨ニテ如斯狼藉ニ及ビタルヤ其事實一切分明ナラズ 其後平四郎ハ士道忘却致シ国辱ニモ係ル譴責ヲ蒙リ士席被差放都築ハ知行被没収平之助ハ前条ノ通リ相働キ死亡致タルニヨリ特典ヲ以テ家族扶助米八人口ヲ被下付セラレタリ
                  (2に続く)

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