津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■第二次長州征伐・小倉戦争と細川家 プロローグ

2023-09-23 06:52:22 | 史料

 吉村藤舟なる人物が著した「郷土物語」の第十六輯「小倉戦争」から、熊本藩の出兵と戦いを抜き出してご紹介しようと思っている。
又幼い世子・豊千代丸(4歳)の熊本への逃避行についても、若干の資料をもとに合わせてご紹介したい。


    右手猛火の中に在るのが自焼させた小倉城、小倉側は一方的な艦砲射撃を受けている。右下の島が彦島(山口県)である。

 幕府に於ける第二次長州征伐は、長州戦争とか四境戦争とかよばれる。そのうち、長州が小倉に上陸したいわゆる小倉戦争(長州では小倉口の戦い)は、慶応2年(1866)6月17日、高杉晋作等が率いる奇兵隊・報国隊などと、長州軍が関門海峡をわたって小倉藩を攻撃する。
幕府の命を受けた小倉藩・熊本藩・筑後柳河藩・肥前嶋原藩・豊後竹田藩などからなる幕府軍は、7月27日は赤坂・鳥越の戦いでは肥後軍が善戦して長州軍を圧倒したが、幕府の責任者・老中小笠原長行(唐津小笠原家の世嗣)が援軍を拒否したため不信感を強め、支援の諸藩は帰国した。
藩主・小笠原忠幹は慶応元年(1865年)に39歳で死去しているがその死は伏せられ、幼い世子・豊千代丸(後の藩主=忠忱)と忠幹夫人は熊本藩を頼りに逃避行を重ね、熊本に入るも特別の庇護を為す訳でもなく、城下の町宿に避難生活を過ごした。支援諸藩の撤退を受けて小倉藩は、8月1日、小倉城を自焼して香春へと撤退した。
長州軍は小倉藩領の企救郡一帯を占領した。慶応3年(1867)正月にいたり、和議が成立して長州戦争は正式に終結した。
幼い藩主・忠忱は慶應3年年4月7日、新政府に対し避難していた熊本藩領から本領に戻ることを申請して帰国した。

 

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■ボサノバ「印旛沼の娘」

2023-09-22 15:04:26 | 徒然

 最近 you tubeでよくジャズ音楽等を聴いているが、先に「イパネマの娘」のタイトルをみて30年ほど前の事が鮮やかによみがえってきた。
ボサノバという音楽はブラジル発祥と言われるから、例えば「イパネマの娘」などはポルトガル語で歌うべきですよと言いながら、その男は「私は駄目ですけど」と断ったうえで英語の歌詞で歌い始めた。
もう30年ほど前の事だが、大手の建設会社の現場監督さんと飲みに出た時の話である。
下請けの会社の社長の御誘いで、夫人が経営している小さなクラブという感じのお店に入った。
店の女性が歌い始めたが、プロではないかと思うくらい上手な人でしばらく聞き入っていたが、先の現場監督氏がやおら立ち上がって、マイクを要求して歌い出した。カラオケなしである。
これも上手だった。英語も見事な発音で上手だったうえに、とんでもない余興が付いていた。「イパネマの娘」を歌い終わると次に「印旛沼の娘」に変わったのだ。
                    イパネマ
        いつでもおいでヨ 皆の印旛沼ガール
          フナもドジョウもウナギも捕れるヨ
            コイ(恋)もとれるし アイ(鮎=愛)もつれるよ
         コイはささやき(笹焼)アイはつぶやき(粒焼)
           あの子さそってデートしようよ・・・・あ~~

こんな感じで、未だ長い歌詞がつづいたが覚えていない。大受けした事半端ではなかった。
店の女の子が歌詞を聞き出して記録し始めた。多分彼女たちのレパートリーに加わったことだろう。

良く調べてみると、地元の某氏が作詞されたものらしい。
宜しければ貴方もレパートリーに入れてお歌いになっては如何ですか。ちなみに英語歌詞もどうぞ・・・

          Tall and tan and young and lovely
       the girl from Ipanema goes walking
       and when she passes
       each one she passes goes - ah

       When she walks she's like a samba
       that swings so cool and sways so gentle
       that when she passes
                         each one she passes goes - ah

                                         (以下略)

 

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■九州文化研究所創設30周年記念シンポジウム

2023-09-22 06:31:52 | 催し物

                                

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■本日ブログ開設から7,000日と相成りました。

2023-09-22 06:10:28 | 徒然

 先に■自祝・サイト満20歳の誕生日を書いたが、今日はブログ開設から7,000日を迎えた。
現在約12,220回ほどの記事を書いているから、一日に1.7件ほどの記事を書いたことになる。
この8月・9月何となく区切りの日を迎えたような気がする。
おこがましい事だがまずは8,000日を目指して頑張りましょう。

あと三年ほどは頑張らなければ達成できない。健康第一で過ごしましょう。

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■長久手の戦いに於いて秀吉の感状を得た二人

2023-09-21 09:00:32 | 史料

先に■長久手の戦いと「楽只」なる枕を御紹介した。以下はその続きである。
長久手の戦いでは羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人だとされ、羽柴軍は完敗している。
五月朔日の戦いの中で敗色濃厚となる中で、一人細川勢は敵を押し返し、二人の細川家士の奮戦振りが秀吉の目に留まったらしく、直接感状を得ている。
西川与助と山本又三郎である。(綿考輯録より)

      去朔日、小牧表人数打入刻、家康於相慕者逐一
      戦可討果処、敵依備不崩無是非候、少々足軽共
      取出候処、抽諸卒、秀吉於眼前手柄之高名無比
      類候、因玆為褒美熨斗附刀脇差遣■、弥向後可
      比相励者也、恐々謹言
       五月十一日        秀吉御書判
        長岡越中殿手
           西川与助殿

西川与助はこれを受けて、忠興から100石の加増を受けた。その後丹後で700石、その後御暇申し上げ金吾中納言(小早川秀秋)に仕え、その後帰参1,000石・御鉄炮頭被仰付、綱利公の時代同名与助異学の禁止にて御暇、元禄三年妙解公50年忌にあたり、与助子弥兵衛御中小姓に召し出さる。
(有名なニ刀を構えた宮本武蔵像は、かって西川家の所蔵であったとご当代からお聞きした)

山本又三郎は米田家の家来か、これに対しても、殆ど同文の感状が同日渡された。
こちらは、「因玆為褒美熨斗附刀遣■」との違いがあるだけである。■は「言偏に乞=きっと」

 

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■ご恵贈御礼「2023東美ART FAIR」図録

2023-09-21 06:21:04 | 催し物

           

 随分長くご厚誼をいただいている東京・本郷の古美術商「ふじもと」様から、ART FAIRの御案内と共に出店115店の御品の図録(全121頁)をご恵贈給わった。深く感謝申し上げる。
まさに日本を代表されるような古美術商の皆様が「東京美術倶楽部」に一堂に会されての催しであり、拝見すれば大いに目の保養になるものと思うが、さぞかしにぎわう事であろう。ご盛会をお祈り申し上げる。
 一方、毎月お送りいただいている「ふじもと」様御取り扱いの御品書きもお送りいただいた。
酒井抱一の書状や一行もの、松平不昧や細川幽齋の書簡、驚いたのは徳川秀忠の「小唄」である。
全く知らなかった秀忠公の一面が伺える史料に触れる機会を得て、感謝である。
その他、いろいろなお茶の御道具が数点、いつも癒しの世界に誘っていただいている。
改めて感謝申し上げる次第である。

 

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■長久手の戦いと「楽只」なる枕

2023-09-20 07:31:01 | 歴史

 豊臣秀吉 VS 織田信雄+徳川家康に於ける小牧長久手の戦いの記録を見ると、細川家の働きぶりは余り見かけないように思える。天正十二年(1584)の春のことだから、忠興22歳である。
忠興は、総勢約3,000、弟・玄蕃頭興元、松井康之、米田是政、有吉立行、篠山五左衛門(飯河豊前こと)、荒川勝兵衛、佐川弥一郎、落合左近、銚子数盃介、西川与助、中嶋左近etc等と共に秀吉の許に参陣している。
長久手の戦いでは細川勢は蒲生氏郷らと秀吉の先手となり出陣、家康勢が池田勝入父子・森武蔵などを討ち取り秀吉勢は多くの死者を出し敗軍した。

 細川勢の働きについては、綿考輯録でもその詳細をうかがい知れないが、忠興はその働きに対し秀吉から感状を受けたらしい。この感状に関して面白い話が残されている。

  此感状ハ忠興君為家珍、御平生の御枕の内に入れはりこミ、御一生御身を御離し不被成候、
  此枕を人々に名を御付させ被成候へ共、御気二不入候を清巌和尚楽只と御附候を御用被成し成、
  於八代御逝去の節御遺言に任せ御葬送の場にて是を焼失す、御隠居の仰に、越中(忠利)ハ越中
  か涯生にて取り不取ハ心次第と被仰けるとなり、

若い忠興にとって小牧長久手の戦いは如何なる感慨が残ったのか、感状を枕に入れて終生これを使い続けたというのだから、思い入れ深い物であったことは間違いない。
5月に入り勝利を得たとはとても思えない秀吉は、陣を引き大坂へ帰っている。
秀吉は何と信雄の領地を攻めるという手に出た。
信雄は和睦を申し入れ信雄の領地が割譲された。家康も信雄に対する義理を果たして三河に帰ったが、秀吉の再度の三河攻めも想定される。秀吉の想いは天正大地震という思いがけない天災で止むことになる。

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■娣という漢字

2023-09-19 09:26:10 | オークション

 という漢字がある。「いもうと」と読むが、「実妹」ではなく「義妹」つまり「弟嫁」と言った処か。
対語としてがあるが当然「兄嫁」である。
実は今、ヤフーオークションに細川護美の書を三点まとめてた巻子が出品されている。
その中の一点に「御娣上さ満(ま)」とあて名書きした書簡があった。義妹に「御・上」の敬称がついている。
   
護美には弟はいない。ということは奥方の弟嫁であろうか?
護美の奥方は、大村藩の最期の藩主・大村純熙の六女・知久(大村家史料では三女)である。
実弟もおらず大村家は女に婿養子を佐土原藩島津家から二男・純雄を迎えている。
大村家の事はよく判らず、宛名の「御娣上さま」が何方なのか、よく判らない。
読み下しをしてもヒントはなさそうだが、チャレンジしてみようと思う。

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■薮小路屋敷の収公

2023-09-19 06:11:35 | 歴史

三斎の愛宕下屋敷があった薮小路について、江戸名所図繪は次のように記す。(巻一 p189)

 藪小路 愛宕の下通り、加藤侯の邸の北の通りを云。同所艮の隅裏門の傍に少しばかりの竹叢あり、故にしかいへり。
     されど其由来詳ならず、傳説あれども證としがたし。慶長より寛永の頃に至り細川三齋公此地に住せられ、
     その庭中の小池を三齋堀と號くといふ。

             藪小路.JPG 愛宕下藪小路.jpg 
                   図(1)           図(2)

図(1)・左手に藪に囲まれた加藤越中守の屋敷が見える。愛宕山下三斎屋敷があった場所。
図(2)・広重 愛宕下藪小路 右手の薮の中に三斎屋敷があった。

                   

               江戸切絵図「愛宕下之圖」切り抜き 中央部蛇の目紋がある加藤越中守屋敷がかっての三斎屋敷
       中央の通りが現在の愛宕通り、右奥に愛宕神社の森が見える。直進すると東京プリンスホテル前に至る。

熊本藩年表稿によると、元禄十六年九月十九日に宇土支藩2代目の「細川熊次郎(和泉守有孝)愛宕下藪小路之屋敷御用に付差上、この屋敷は忠興以来今年迄持ちつたえたもの」として収公された。

いわゆる三齋公の隠居屋敷であるが、元和八年ころ家作され三齋死去後は宇土支藩の屋敷となった。
北野隆熊本大学名誉教授によると、建物は寛永十年ころ上屋敷・下屋敷その他に移築されたというから、宇土支藩の元に新たに家作されたという事だろうか。

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■人様があまり経験しないトホホな話

2023-09-18 10:31:54 | 徒然

 熊本は藤崎八旛宮の秋の例大祭の神輿行列が昨日行われた。いわゆる随兵の行列と馬追い連・57団体(11,000人とも)がこれに連なり、コロナが一段落して久しぶりに今年は賑わいを見せたようだ。
この時期から熊本は朝夕が涼しくなり、「随兵寒合(ずいびょうがんや)」と呼ばれるが、今朝はまさにその通りで涼しさを通り越して少し寒いほどであった。
昔一度だけ勢子の一人として参加したことがあるが、それ以来見物に出かけたのは数回だけである。

 私はこの時期になると、思い出したくもない痛恨事が頭に浮かんでくる。
小学校一二年の頃ではないかと思うが、母と姉と三人この馬追いを見物しようと外出した。
当時私は大江に住んでいたから、現在の県立劇場前あたりから明五橋を渡り藤崎宮近くへ出たのだと思う。
その県立劇場あたりは、昔は未だ田圃であった。母に連れられて外出するなど私にはあまり記憶にないほどなのだが、余程うれしかったのか私はぴょんぴょん跳ねながら歩いていた。
細い道脇の田圃の際に「肥壷」が埋められていて私はこれに落ちたのだ・・・・
蓋らしいものは何かあったように思うが、腰位迄ドボンとはまり込んだ。ほうほうの態で這い上がったが無残である。
姉が随分怒ったのを覚えているが、我が家まで約1㌔程を引き返して井戸端で何度も水を被り身体を洗い、着替えをして又出かけ直した。
その日のその後の事は全く記憶にない。人様が絶対経験しないような話だが、自慢にはならないトホホな話である。
            肥壷に落ちた想い出秋祭り お粗末・・・

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■元和五年九月十八日、御六(光尚)誕生

2023-09-18 06:15:08 | 細川家譜
細川忠利室・千代姫の輿入れは慶長十四年(1609)だが、六丸誕生までは十年かかっている。
元和五年(1619)の九月十八日に嫡子六丸・後の光尚が誕生した。
実はその間、正室・側室の子が五人誕生しているのだが、細川家家譜は正式な記録には留めていない。
細川忠利の嫡男・光尚の幼名は「六丸」、その名の由来は「第六子」の故と綿考輯録は記す。
    系譜家伝録、光尚多兄弟生在第六故以爲幼名、兄皆夭死、忠利立光尚爲家嫡云々

                                                       
 
 つまり光尚誕生前に5人のお子が誕生していたことになる。細川家家譜は六丸誕生以前の5人のお子については正式に記録していない。編者・小野武次郎は当時の記録の杜撰なことを指摘している。
「其比は万事留書様之事ニ心を用たる人稀なる時代(中略)五人の御子様御誕生の事もしるし伝へたるもの無之(光尚は)唯六人目の御子様と云はかり」と・・・しかし、いろんな記録を辿ると御六誕生以前の五名の御子の様子がうかがえる。
  1,慶長15・6年比千代姫様御腹に御一男御誕生、
  2,元和二年御誕生の御子様御名ニ辰の字を可被用思召之趣、忠利君江戸より豊前に被下御書有 (下津久馬所持)                                  
  3,双子と思える女子(亀・福)の存在が、忠利-三斎の書簡で伺える。妾腹か?
    寛永六年正月忠利君御書「かめふく儀不便なる仕合(死去)可申上様も無御座・・」
    三斎君御書「亀福儀承驚申候・・・右之仕合無是非儀ニ候事」
  4,元和四年五月十一日忠利在府 三斎からの書状に「御姫(千代姫)御懐妊の儀ニ付・・」とある。
    この前に数度にわたり在小倉の忠興は、中津に在る千代姫が不食気味である事を心配し服薬を進めていることを江戸の
               忠利に知らせている。光尚の生年からすると光尚ではない。
               綿考輯録の編者小野武次郎は、六・七月にお産があったのではないかと記している。
               詳しい記録がないところを見ると「死産」「夭折」の可能性も伺える。
  5,元和五年九月十八日、第六子として御六(光尚)誕生

 

 

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■「武家の相続法」と異例の事例の発見

2023-09-17 06:18:15 | 先祖附

 鎌田浩氏の論考「近世武士相續法の特色ー熊本藩を中心としてー」をプリントアウトして読んでいる。
私は細川家に限定はするものの、いわゆる馬乗り衆と言われる家格の代々の相続を見てきたが、上記論考は大原則論であり実際はなかなかそうはいかない現実的な相続が行われていることを実感する。
数代にわたり女子に男系血族ではない聟養子を迎え入れている事例など数多くある。
嫡孫相続・弟への継続・血族男子を養子とする継続などは、筋目優先の原則からするとまだ驚くものではないが、私が発見したS家の場合の事例は専門家も驚くようなものであった。
S氏との出会いはS氏が熊本史談会に入会されてからの事である。10年以上にわたり書道家のお姉さんの協力を得ながら、先祖附の読み下しを行い、遠祖については出身地などを訪ね、豊前の知行地や肥後に於ける任地・知行地やお寺等を訪ね諸資料を交えて立派な冊子を作られていた。
そんな時期に出合ったのだが、私の調査で新しい事実が次々に出てきたので追加記載が度々となり、完成とはならずに来た。そんな中で順当に相続が為されてきた中、6代目は5代目の従兄弟の子(従甥=6親等)が跡目相続しており、3代目の弟が分家しその3代目が一領一疋の身分であったというものだ。
この先祖附の記述に疑問を持った私はいろんな資料をひっくり返して、その裏づけを花岡興輝氏著「領国支配の構造」にしっかり紹介されているのを見つけ出した。某地区の地侍となっており系図が示されていた。
つまりこの相続は、従兄弟の子という一族の者ではあるが、「徒格」の身分から「士分」の家を継いだ訳である。
S氏はこれ等の資料を携えて、ある方にその旨を伝えた処、こういう事例がある事に「例外的だ」と大変驚かれたと報告を受けた。これ等の結果を書き加えられて「S家累代の歴史」という一冊に仕上げられたが完成は一年ほど伸びた。
あとがきには過分の御紹介をいただいたうえ、見事に作り上げられたその冊子をご恵贈いただいた。

ただ、この「異例中の異例とも思われる相続」が、どの様な経過を以てどう決済されて成立を見たのかは査として知れず、未だ闇の中である。


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■勇知之先生の御逝去と残された西郷の書簡

2023-09-16 20:21:49 | 徒然

 丁度一年前■西郷隆盛、京町へ現るを書いたが、今もって西南の役や維新史あたりをうろうろしている。
今年8月21日には、■池邉吉十郎・上田久兵衛宛西郷隆盛書簡etcを書いたが、この書簡を在熊の「西南の役」研究の第一人者・勇知之先生にお手紙と共にお送りし、またの機会に色々お尋ねしたいと思っていたが、なんと9月3日急逝されてしまった。何度かお電話もいただき親しくお話もさせて頂いたが、痛恨の極みである。
先生からお預かりした、西郷の池邉吉十郎宛の書簡がいつの頃のものなのかの「謎解きを一緒にしましょう」と仰っていただいていたが、これも水泡に帰した。
先生からお預かりした西郷の書状二点、先のヤフオクの書状二点をどう扱えばよいのか途方に暮れている。
ご冥福をお祈り申し上げるとともに、西郷書簡の謎解きを頑張らねばと思っている。

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■細川治年公ご命日

2023-09-16 06:08:15 | 歴史

                                                                   

 細川藩九代藩主の治年は天明七年(1787)九月十六日江戸にて死去した。年二十九歳。
父・重賢の嫡男として生まれた。生母は金澤氏(此井=このい)である。
          細川家譜--細川治年譜 ・・ (全)

嫡男・年和、次男應五郎が年若であった為、正室・瑶台院の実弟宇土藩主・立禮を養子として十代藩主とした。
それは当然リリーフ役としてであり、その跡は治年の男子をして継嗣とするとの約があった。

立禮は天明八年宗家に入り齊茲と名を改め正式に家督している。

「度支彙函・寛延より文化迄節儉號令19」七月廿三日付の次の様な文書がのこされている。
     今度入国ニ付家中之者共へ申聞候趣、別紙書付相渡候状、組々えも可申聞者也
 我等儀先代之御不幸ニよつて不慮ニ家相續蒙仰、今度令入國難有儀ニは候得共、領大國候儀當惑感之事ニ候、
 然といへとも應五郎成長迄之内ハ、年寄共を初役人共と相謀り政務之儀心に任すべし、勿論先祖以来代々
 之掟は時勢を以斟酌し、近くは先々代(重賢公)以来之旨を相守候條可得其意事

この文書によると、次の代は治年の二男應五郎に継がせることを示唆している。しかしながら應五郎も死去したため、治年の代まででガラシャの血統が途絶え、齊茲以降は嫡子・齊樹、齊樹に男子がなく再び宇土支藩から齊護が入って宗家を継ぎ以降の細川家は宇土家の血統ということになる。



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■贋金つくりの後始末

2023-09-15 09:47:55 | 歴史

 豊前時代の細川家史料を読むと、領内に採銅所等と言う地名があり銅の採取が行われ、「銭」を作っている記録が見える。
しかし、熊本に移封後においてはこれがあまり見られない。幕末に至り各藩が贋金つくりに励んでいるが、熊本藩に於いては見受けられない。私の勉強不足だろうか。

 勝海舟の話をまとめた「氷川清話」を読むと、明治初頭各藩が作った贋金をつかまされた外国人たちが新政府に換金を求めてきたという。大久保利通(内務卿)が頭を抱え、人を介して海舟に相談に来たので「皆引き換えろ」と返事をした。大久保は海舟の言により決断して外国公館に「引き換え」を通告した。20万円に達したとされるが、海舟は大した金額ではなかったと述壊している。明治初頭のこの金額が現在どのくらいになるのかはよく判らない。

 何と言っても贋金つくりは薩摩が出色であろう。アーネスト・サトウの著「遠い崖」によると、「花倉御殿跡で贋二分金造りをしていた」とある。谷あいの隠れ里のような場所であり、大っぴらとはいかなかったことが伺えて面白い。
万延二分金に似せて、銀台に金メッキを施し通称「天ぷら金」と呼ばれる。
戊辰戦争の軍用貨幣に造られたもので、正貨の1/4で出来たからその益は750億円という試算がある。
さすがに明治二年六月以降大久保は、薩摩の密造を廃絶させたといわれる。

これは薩摩に限ったことではなく、会津・名古屋・薩摩・広島などをはじめ土佐・仙台・加賀・秋月・佐土原等の諸藩も戦費を確保するために同様の「天ぷら金」を作った。
「かます」に入れて温泉に浸して古金のように見せかけたとは加賀藩の記録に在る。

竹下倫一著「龍馬の金策日記ー維新の資金をいかにつくったか」をよむと、龍馬も積極的に贋金つくりを奨励している。
明治維新は「贋金」によって成功したともいえるのではないか、皮肉なことに明治新政府がその尻ぬぐいをした。

前に述べた通り熊本藩ではあまり「贋金」つくりの話は聞こえてこないが、筑前の黒田藩は太政官札を偽造までして汚名を蒙った。
筑前黒田の11代の殿さまは長溥公、薩摩からのご養子である。黒田藩の明治維新は熊本よりも程遠かった。

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