津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■誤伝が伝えられ続ける怖さ・・・

2023-12-20 07:18:47 | 人物

「續肥後先哲偉蹟」に「佐分利越人」がありその墓地は坪井流長院にある時されている。
先に■肥後墳墓録ー(6)流長院広徳寺を書いたとき、これき気づかず書き加えねばならないのだがいささか躊躇している。
上記「先哲偉蹟」には「名は氏恒、七兵衛と穪し、俳名を越人という、(中略)芭蕉の門人に入り、俳諧を善くせり、元禄十五年三月十四日に歿す、享年未詳」とある。

 発刊から2年後の2010年1月、吉田美和子氏著の「うらやまし猫の恋 越人と芭蕉」という本が出ていると知り、佐分利越人の事だと気づいて即購入 した。
その中には驚愕すべきことが書かれていた。それは私が承知していた熊本藩士・佐分利越人は完全に否定されていたからである。
その本の書き出しには次のようにある。
  尾張十蔵、越人と号す。越路の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日つとめて二日
  遊び、三日つとめて三日あそぶ。性酒をこのみ、酔話する時は平家をうたふ。これ我が友なり。
         二人見し雪は今年もふりけるか  芭蕉    (庭竈集)
 そして越人の没年については、彼の作品が作られた年代から享保21年ころだとされている。大いなる誤差がある。
この小説の主人公・越人は、本の題に切り取られた彼の「羨まし思ひ切る時猫の恋」という句をめぐる、若い女に入り浸りとなった様子を「猫の恋」と自らとらえ、女を取るか俳諧を取るか、師・芭蕉から離れざるを得ない苦悩を切り口とされている。
その中で著者は淡々と、「蕉門諸生全伝」にある「好色人ニテ吉原遊女を請出シ、屋敷二置きがたく改易せらる、羨まし思切時の句あり」を紹介し、さらにこの著にあるという越人の紹介「肥後熊本の出身・細川越中守の近習で佐分利流槍術家佐分利勘左衛門」とする誤伝だと切り捨てられている。

 ふと山崎貞二氏著「熊本文学散歩」を思い出し頁をめくると、まさに先生も頭を抱えながら、数頁にわたり解説をされている。どこでどう間違ったのか、没年が明らかに違うから別人だろうと思われるが、完全否定するにも有力証拠となるものがない。
先生曰く「佐分利越人」と「越智越人」は明らかに別人であろうと・・・

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■肥後墳墓録-(7)往生院無量壽山泰安寺

2023-12-19 07:14:34 | 掃苔

 「往生院」の名前で慣れ親しんでいるが、正式には「往生院無量壽山泰安寺」という。
熊本市西区池田1丁目2-50にある、浄土宗・善導寺末寺である。度々移転を余儀なくされたが現在地に移転したのは享保9年(1724)のことである。

 ■正清院(蒲生秀行室・徳川家康八女振姫)供養塔
 正清院は夫・蒲生秀行没後の元和2年(1616)浅野長晟に再嫁し世子・光晟を出生後死去したため、加藤忠廣夫人である娘の崇法院が
供養のために建立したものとされる。蒲生秀行供養塔は横手の安国寺にある。

 ■井口家 (南東2-1)井口忠三郎家
 初代井口荘左衛門は寛永10年の召し出し、200石。5代荘左衛門は奉行職を勤め800石。宝暦12年自害したが、これは家老松井営之と論争になり、営之が「庄左衛門身柄を下され候様」と藩主・重賢に申し出た。重賢はこれには応ぜずその晩荘左衛門に盃を与えた。これにより荘左衛門は自害したが「乱心」として取り扱われている。 

 ■生駒家 (南東2-11)生駒新太郎家
 祖の次左衛門は尾張国人にして蒲生飛騨守に仕えた後浪人し、京都に於いて細川忠利に召し出された。
天草島原の乱で手疵を負った。その子・新九郎が300石拝領し奉行や鉄炮頭などを勤め、以降明治に至った。

 ■岩崎家 (南東1-6)岩崎直衛家

 ■上村家 (南東30-11)丹後以来 上村甚之助家
 丹後に於いて忠興に召し出された上村孫三を祖とする家が4家あるが、その中の嫡家である。
2代目・甚五左衛門は御暇となったが、天草島原の乱に参加し帰参が許された。

 ■江嶋家 (南東42-5)江嶋 傳家
 大友家浪人にて親族・財津氏を頼った。初代から3代までは坂梨口御番を勤めた。8代傳右衛門は川尻町奉行を勤めた。500石

 ■柏木家 (南東16-19)柏木荘九郎家
 平成肥後国誌には往生院に墓所があると記されているが、実は京町の西方寺にある。

 ■竹原家  (南東22-12)竹原東彌家        
 竹原家は阿蘇家の分流で、上総助宗守は嶋津氏に仕えた。その子市蔵惟成は細川幽齋が薩摩を訪れた際、その才を認められ幽齋がもらい受けて臣となした。玄可と称す。
綿考輯録は次のように記す。
    藤孝君、文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、(中略)
    御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、一日連歌御興
    行の時、幼少成ものを執筆に被出候と、幽斎君御望なされ候間、龍伯其意に応し竹原市蔵とて九
    歳に成候童を被出候、此者才智有之、第一能書なるゆへ、御心に叶ひ頻に御所望にて被召連、御
    帰洛被成候
6代・勘十郎(玄路)は細川重賢に用人として近侍し、宝暦の改革に多大な業績を上げた堀平太左衛門を大奉行となすべく推薦した。

 ■早川家 (南東6-4)早川助作家
 祖は毛利家小早川一族、初代は小早川主膳で黒田家に仕えた後、寛永3年に150石で細川忠興に召し出された。
2代目から姓を早川と改めた。8代十郎兵衛は近習役を勤め650石を拝領した。号鶴隣。

 ■松岡家 (南東36-22)松岡八郎家
 加藤家家臣であったが加藤家没落後は浪人し、初代藤右衛門が細川家に召し出されたのは遅く、元禄11年綱利によってである。
3代目八郎平(八嶽)は養子で、一宮九郎兵衛四男、時習館句読師を勤めた。

 ■真野家(南東37-2)真野冨弥家
 旧中村一氏家臣、同家重臣で細川家に仕えた藪内匠(12,000石)を頼り元和年間に300石で仕官した。
 8代源之助は大奉行職となり、禄高15,000石を拝領した。

 ■横井太平之墓
 横井小楠の兄・時明の二男で、兄左平太とともにアメリカに留学した。帰国後洋学校設立に及び洋学教師ジェーンズの招聘に尽力した。22歳の若さで死去した。

 

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■古文書8「肥後国熊本藩6代藩主細川重賢より松平長孝(越後守)宛書状写」

2023-12-18 08:35:32 | オークション

                古文書8「肥後国熊本藩6代藩主細川重賢より松平長孝(越後守)宛書状写」 

  「重賢君よ里松平越後守様江御返歉之写之由にて府内御近習衆之所持せしを写しよし」とある。
   古文書読み下しの勉強には格好の書歉である。

       

        

       
                                            

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■忠興の眼疾

2023-12-18 07:00:44 | 歴史

 細川忠興の眼疾はよく知られるところだが、豊前入国時にはすでに悩ませられていたらしい。
まずは中津に入った忠興だが、小倉に城普請を始めた際、小さな祠があったので「汚穢を如何」と思し召して「潔清の地」に移した。
ところが此処で眼疾が出たので、周りのものが「これは神の祟りかもしれないので、祠を元の位置に戻しましょう」と言うと忠興は、「この神は邪神だ」と怒り出し、その祠を捨てさせたという。
そうしたら完治したというのである。
しかしながら眼疾は完治しないところを見ると、「神の祟り」があったのかもしれない。

 眼疾が顕著になったのは、元和に入ってからの事らしいが、「此の節御家中ニ而も銘々祈願等仕候由・・・云々」とあり、深刻な状態が窺がわれる。元和二年二月廿九日の書状は「此比御眼病以野外ニ被差発候」として、本文には「我々儀此比目を散々煩候、今之分候は本復可仕か本復仕間敷かと申半ニ候」と失明の心配をしている。それは二月七・八日頃からの事で「両眼共ニひしと見へ不申候事」だとしている。
 「大日本近世史料・細川家史料」を見ていると、医師の名前が度々出てくる。今大路氏や半井氏などの幕府にも仕える名医や、王珍・三官・少峰などの明国人、三盛・分清・玄也などとともに、眼科医の岡平兵衛、真嶋圓房(大坂)等の名前が見える。重病人が出ると早飛脚を立てたり、六十人ほどの加子による早船を仕立てたりして、京の名医を連れに行くということが度々行われている。眼が悪い忠興は、そういう意味でも京・大坂に在りたい気持ちは深かったであろう。
側近の佐方宗佐の元和二年の「眼病平癒」の絵馬奉納をしたらしく、その写しなど残されていて、家臣一同の心配も一方ならぬものであった事が窺がえる。

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■寒さ嫌いの一月生まれ

2023-12-17 20:22:29 | 徒然

 昨日は史談会に出席したが、雨が降り出しそうなぐずついた天気にもかかわらず20度を超える温かさであった。
今日は一転、6~7度まで急降下した。熊本市内でも初雪がふったそうだが、山間地では積雪も見られたらしい。
我が家は我慢比べではないが、まだ暖房を入れていない。というのは室内気温は今日も20度を下らない。
天気が良くて陽が入ると自分の部屋からリビングに移って、日向ぼっこが有難い。
私は1月生まれなのだが、寒さには大いに弱い。
現在室温は21.1度だが、足元がひやひやしている。今日はまだ履いてはいないが登山用の靴下などももっているから、明日は足元対策をしなければならない。
暖房は風が嫌いだからあまり使いたくないが、寒いとそうも言ってはおられない。
通販を利用して赤外線電熱器(?)を購入した。到着は月末になるらしいが、室内温度が20度を下回ったら奥方に所有権が存する洗濯物室内干し用の温風サーキュレーターを借用しようと思っている。
明日も今日同様のお天気らしい。少々着込んで風邪をひかぬようにせねばならぬ。

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■さまようサイトの残骸

2023-12-17 08:57:09 | 徒然

 ある人物のことを調べようとググっていたら、なんと私が作った「大日本近世資料・細川家資料の人名索引」が出てきたのには驚いてしまった。

2007年の年末頃から「大日本近世資料・細川家資料」の巻末にある人名索引を順次17巻分タイピングしてUPしたものだが、掲載記事の番号なども記載していて、多い人では数十項目の記事が存在しているから、それを調べるだけでもその人物の行動の歴史が知れそうだ。
ただし、「大日本近世資料・細川家資料」を手元に所蔵するか、このリストをプリントアウトして図書館で見るしか方法はないが?
私は一人悦に入っていたのだが、数年後東大史料編纂所の当時の所長さんのお名前でメールが入り、著作権の関係で削除を願いたいとの丁寧な文章ながらの勧告を受けた。
すぐさまお詫びのご返事をし、削除した。

 しかしながら当初に書いたごとく、この幽霊サイトの残骸がさまよっていて、今回が2回目の再会だった。
私のサイトは私が死んだらプロバイダーとのご縁が切れることになるから、サイト自身はきえてなくなることになるから、この幽霊現象も亡くなることだろう。
「新・肥後細川藩侍帳」だけは何とか生かしたいと思い、プロバイダーに10年分くらい先払いをして、更新のないサイトをご披露しようかとも思ったりしている。

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■肥後墳墓録ー(6)流長院広徳寺

2023-12-16 06:59:45 | 掃苔

 流長院広徳寺は、熊本市中央区壺川一丁目4-23にある曹洞宗のお寺で、慶長5年伝志麟的和尚の開基により建立された。

 ■下津家(安国寺にも墓地あり)

    ■大河原家
 近江松平氏に仕えていたが浪人し、寛永11年熊本召し出し、代々要職を勤め1,000石を領し明治に至った。

 ■境野家
 妙應院(綱利)時代の召し出し。400石。5代嘉十郎は「犬追物」を復活させて著名である。 

 ■松下家
 初代・市之進の父松下清蔵(壱岐守三綱)は加藤家家臣で、清正女・搖林院の紀伊大納言頼宣輿入の際 附人を勤めた。
初代・市之進一意は春日局の兄・斎藤利宗(清正臣)の女婿で、父没後忠広により跡式知行千石、加藤家没落後牢人、豊前にて忠利に依り召し出し1,000石。
熊本に配流となった春日局の息・稲葉正利の世話役を務めている。(大日本近代史料・細川家史料十五) 

 ■佐々布家

 ■佐分利家

 ■深野家

 ■本庄家(2・3代は柴任氏)

 ■嘉悦家
 加藤肥後守家臣1,500石加藤家没落後、細川家に召し出される。

 ■松山家    松山繁家【丹後以来】(南東(38-4)
 初代は加納曲斎、相国寺の首座であったが田辺城籠城に参加、豊前にて1,500石・町奉行。二代目兵左衛門代から松山姓を名乗る。代々1,000石要職を勤め明治に至る。

 ■蒲池家
 筑後国山下城城代を勤めていたが秀吉の九州征伐により筑前にて麾下となりその後浪人、後細川家召し出し。五代喜左衛門が奉行職を勤め、中老・大奉行職兼職に上り詰めた。

 ■高本家
 家祖・李宗閑は朝鮮王族で文禄の役の折捕虜として日本にいたった。初代慶宅は熊本城内に住して、慶宅坂の名を残している。
5代慶順(号・紫溟)は養子だが藩校時習館の3代目教授を務めた。銀台遺事の著者。

 ■山内家

             (只今書き込み中)
 

 

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■どうする・・・気になる二点

2023-12-15 19:31:24 | オークション

熊本藩年表稿 細川藩政史研究会編 熊本県 熊本大学附属図書館 1974 単行本 郷土本 郷土史 歴史 日本史 年表

                                     

0034572 松井佐渡守 広瀬莞爾 明治44年 松井康之 細川忠興 大分県速見郡

こんな本の存在自体を知りませんでしたから大変興味深いのですが、寄之公?興長公?どちらの事でしょうか?

                                   

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■元禄15年12月15日の細川家

2023-12-15 07:04:31 | 歴史

 「堀内傳右衛門覺書」から 忙しい細川家の一日をたどる。

一浅野内匠頭様御家来十七人御預之節、右之輩請取に被遣候砌、我等迄も被指越候、其後御預中、林兵助・村井源兵衛・我等共三人、
 御附置被成候故、當番之刻、十七人之衆へ、心易物語申候、我等咄合覺之通書附置候間、折々見可被申候、最同名共且又他之衆中
 も、望次第實體之志有之候はゞ、披見に可被入候、惣體今度之一巻、むさと諸人に咄申さぬようにとの事、
一元禄十五年午の十二月十五日、月次 御登城被遊候處、於 御城浅野内匠頭様御家来之内、拾七人御預之旨被 仰渡、芝泉岳寺え、
 御侍中請取に被遣候段、従 御城、藤崎作右衛門上屋敷御使者に被参候、我等折節當番にて、町屋敷え罷出居申候、定て御人數之
 内にて可有之と存、直に同名平八方にて認等いたし、直に罷越、十五日未の刻前、上屋敷に罷出候事、
一三宅藤兵衛・鎌田軍之介・平野九郎右衛門・横山五郎太夫・堀内平八・匂坂平兵衛、右之衆中裏附上下、物頭、御小姓組迄は、羽
 織袴着、芝御屋敷へ被参候、物頭皆共迄は、羽織裁付に而候事、左の人数
    三宅藤兵衛・鎌田軍之介・平野九郎右衛門・横山五郎太夫・志方彌次兵衛・原田十次郎・牧 七右衛門・須佐美九太夫
    匂坂平兵衛・富島伊兵衛・堀内傳右衛門・林 兵助・池永善兵衛・寺川助之丞・本庄喜助・吉田孫五郎・氏家平吉

    澤 庄兵衛・堀内五郎兵衛・竹田平太夫・石川源右衛門・田中隼之介・池辺次郎助・横井儀右衛門・宇野彌右衛門
    下村周伯・原田元澤・木村權右衛門・關 彌右衛門・郡 次太夫・堀内平八・野田小十郎・村井源兵衛・松浦儀右衛門
    塚本藤右衛門・魚住惣右衛門・服部番右衛門
 此外にも有之候儀哉覺不申、歩御小姓も参申候得共、夫々名覺不申候、
一足輕百人余、駕十七挺、外に用心駕五挺、人數都合七百五十四人と承り申候、
一御知行取不残馬にて、御屋敷より罷越被申候、芝御屋敷表御門前にて、芝御屋敷詰に出合申合せ、泉岳寺え参申筈之處に、様子替り、
 仙石伯耆守様御屋敷にて受取申筈に成り、彼御屋敷愛宕下に参候、此方様御人數は愛宕下細川和泉守様御屋敷に参り、御門内には侍
 中斗入候て亥の刻邊に伯耆守様御屋敷に何も参り候事、此方様え之御預衆を、一番に御渡し被成候、三宅・鎌田・堀内三人、御預り
 之面々受取下さるべき旨被仰渡候、則伯耆守御前にて鈴木源吾左衛門様、水野小左衛門様御列座にて被仰渡候、其外は御門外に居申
 候事、
一十七人之輩、伯耆守様被仰渡候者、夫々に書付を御よみきかせ、内蔵之介は御側近く被召寄、十七人は細川越中守え御預被成候間、
 左様に心得候哉、乗物にて被遣候儀、いかゞ思召候とも、老人又は怪我人も有之、指向付添参申候ため旁乗物にて参り候へは、段々
 被為入御念御事忝とたひ/\何れも被申候事
一十七人之衆、何れも駕に乗り、請取人は御門外に各夫々請取揃候て、御紋付の大提灯二ツ宛、自分提灯一ツ宛、駕一挺騎馬一人、歩
 御使番一人宛付、御使番不足分は、歩御小姓相勤、尤手負怪我人も有之駕を静に、細川和泉守様御門前より、松平隠岐守様御屋敷前、
 愛宕横丁に出、三島町筋より通り丁に出、芝伊皿子坂より目黒御門に入、役者間之御玄關より御廣間櫛形之次間より、ニ座敷に被居
 申候、其夜はいつれも、先一つに着座有之候、尤道筋静に参り御屋敷え落付は、丑の刻過に相成申候事、
一右之面々を御渡之刻、乗物の戸窓なと明申者も候はゞ、其通に仕候て不苦被思召候、怪我人も候間、道も静に参り候様にとの事故、
 堀内傳右衛門と申者、付添参候、何ぞ御用も候歟、乗物戸など明け申たく思召候はゞ、被仰聞候へと、歩行之者へ申させ候事、
一太守様早速御出被遊候、受取人數も其儘居申様にとの儀にて、其所に罷在候、扨十七人え御意之趣には、扨各今日之仕方神妙に存候、
 是に大勢之侍共差置候にも不及事何とやらんおこかましく候へ共、公儀に對し差置候間、皆々左様に御心得何ぞ相應の用事承候得と、
 番之御家来共之方を御覧被遊、最早夜更候間、先早く料理を給被申候様にとの仰にて、御入被遊候、いつれも忝奉存られ候體に見え
 候、夜更まで御待被遊、早速御對面被成候事、いつれも後々まて有かたかり被申候事
一其夜其儘御對面被遊候は太守様迄と承り、残御三人御衆は以後に此方様御聞合被成御逢被成候由、

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■今日は「赤穂浪士討ち入り」の記念日・・・?

2023-12-14 10:39:23 | 徒然

 今日は12月14日は「赤穂浪士討ち入り」の記念日とされている。実際「今朝討ち入りは終わったんだよね」と思っておられる方が多いのではないか。実は違う。

 細川家に残る「御預人記録」によると「元禄十五壬午年十二月十五日暁七つ(午前4時)時分、浅野内匠頭殿家来之浪人四十六人、吉良上野介殿本所屋敷え押入、上野殿并出合候家来討果之(以下略)」と記されている。
赤穂浪士が上野介を討ち取って泉岳寺へ引き上げる途中、旧浅野家付近を通っているが、一行は隣接する丹後宮津藩・奥平家藩邸の門前で家臣の桜井惣右衛門から不審に思われ誰何されている。
桜井はその状況を書き残しているが、その冒頭に「旧冬十四日の晩、吉良上野介殿屋敷へ、浅野内匠頭殿家来衆四十七人押込、日頃の本望を遂げ、十五日の朝六ツ過に御門前通り申候」とある。
この一文で分かるように、桜井惣右衛門の感覚では日が変わるのは「明け六つ(午前六時頃)」という認識であったから「討ち入ったのは14日で、引き上げたのは15日」だとしているのだろう。
つまり今日的感覚では、討ち入りは15日未明であり夜明け前に本望を遂げ、午前6時過ぎ頃奥平家門前を通過したということになる。

明日は「12月15日の細川家」を取り上げる。

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■ほどほどが良い

2023-12-14 07:11:13 | 徒然

 私●藤が、〇藤さんと話をしていると、「藤原系といわれる、■藤と名乗る人間は(日本に)どのくらいいるのだろうか」という話になった。
「源平藤橘の内、唯一藤原の名前は臣籍降下じゃなかそうですナ」とも仰る。
〇藤さん曰く、「私は十把一からげのような〇藤という名字はあまり好きでない」と仰る。
「先祖ば遡ろうとしても、行き詰ってしまいました」とのこと。
私が、「我が家の元は磯部だったんで、藤原ではないと思うんですけど」というと「わ~それが良か・・」と我がことのように言われたのが印象深かった。
「磯部でもなかなか遡れません」というと、「あんま遡ると先は本当かどうか判りまっせんばい、何事もほどほどで良かですよ」とも仰った。

 〇藤さんの息子さんは仕事の関係でヨーロッパ住まいが長かったらしく国際結婚をされたらしい。
現在は日本住まいで「嫁さんの血を引いたかわいい女の子ば授かり、いま大学1年生です」とのことで、かわいくて仕方がないらしい。
その孫娘さんが、今はやりの遺伝子検査Hapro2.0を試されたらしいが、なかなか興味深いものであったらしい。
私が「将来お婿さんも又ハーフかクオーターだったりして」というと、〇藤さん「いやもうよか・・我が家の子孫が日本人じゃなかごて成るかと思うと恐ろしか・・・」との答え。
「ほどほどがよかですか」と言うと「そぎゃんですたい」と言いながらも「先のことは判らんばってん」と笑われた。

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■肥後墳墓録-(5)愛染院東長寺

2023-12-13 06:41:39 | 掃苔

 「愛染院」の名で知られる宝聚山 愛染院 東長寺は、高野山真言宗の寺院で、細川忠利が肥後入国に当たり小倉より
宥伝和尚を招聘して開基祈祷所とした。

熊本城から新堀橋を渡るとすぐ左手(熊本市中央区京町1丁目2番36)にある。

 1、国友家           国友儀兵衛家(南東33-9) 
 1、松岡久左衛門之墓   
    右仕寄番之内、或夜余寒甚敷風つよく有之候ニ、松岡久右衛門生膚に甲冑を帯し、
    当番にてふるひ居候を、門司源兵衛是を見て、拙者ことき若者さえ下着を用、寒気
    を防ども堪かたきに、老人のふるまひを見て恥入候也と云けるを、久左衛門聞て甚
    悦ひ、御存之通七十に余り寒気を好、如此の事二ハ無之候、平成高禄を貪、殊に
    大勢の組をもあつかり、何の奉公も不仕候へハ、幸の死時と存候也、今にても城乗
    といわむに各のことき壮勇の輩ハわれ先とすゝミ入らんに、老体中々及かたき事必
    然也、責てハ少にても身をかろくせんため寒気をたへて如此也と云けれハ、門司甚
    感心し、二十七日城乗の時ハ松岡を目当としてすゝミ手に合、松岡ハ組を励し、本
    城の下にて鉄炮に中り死す、此松岡勇名高き事、三斎君被知召、慶長六年豊前にて
    被召出三百石被下、弓足軽廿人忠利君より御預ヶ被成候(綿考輯録・巻四十五)
 

 

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■熊本史談会12月例会のご案内

2023-12-13 06:24:40 | ご挨拶

 令和5年の年もあと半月余りとなりました。熊本史談会では本年も外部招聘講師・会員による講話など充実した一年でした。
そんな中私自身が11月を担当してお話を致しましたところ、少々熱が入りすぎて時間内に終了することができず、今月もその続きをお話しするという羽目になりました。
本来の予定がありました12月例会ですが、1時間ほど時間を頂戴することになり、誠に申し訳なく思っております。お詫び申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                記

期日:令和5年12月16日(第三・土曜日)午前9時45分~11時45分(質問時間を含む)
場所:熊本市電交通局電停前・ウェルパルくまもと(熊本保健所入居ビル)1階「アイポート」
演題:肥後細川藩三代、忠利・光尚・綱利の80年の治世と時代相(第二回)
講師:本会会員 肥後細川藩拾遺・主宰 津々堂

一般参加自由:
    資料準備のため、事前にご電話申し込みをお願いします。電話(  090‐9494‐3190)
    参加費 500円(資料代を含む)を申し受けます。

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■肥後墳墓録ー(4-2)禅定寺・細川家臣

2023-12-12 07:19:10 | 掃苔

 ■槙嶋家
 足利将軍家家臣・槙嶋昭光を祖とする熊本槙嶋家、真木嶋城主で最後の将軍・義昭を迎え入れ信長と戦うも力及ばず、義昭をもって
足利将軍家は絶えた。
細川忠興の豊前入国後召し寄せられ、終生忠興の側近として仕えた。号・云庵。1,000石。
旧段山に槙嶋邸があったあたりに「槙嶋坂」があったが、現在では藤崎台童園敷地となり現在は通れない。
禅定寺住職・最勝林家のご先祖である。

 ■木下家
 豊臣秀吉の正室・高台院の実兄・木下(杉原)家定の三男・日出藩主木下右衛門大夫延俊の末子・木下三郎左衛門を祖とする肥後木下
家歴代の墓所である。
家定嫡男は木下勝俊(長嘯子)二男利俊(足守藩主)四男小早川秀秋)因みに、延俊室は細川忠興妹加賀。
かって屋敷があった場所は木下町と呼ばれていたが、新町3丁目9番にある胃腸外科あたりであった。

 ■田中家
 柳川藩主・田中久兵衛吉政(豊臣秀吉に仕え従五位下)の弟・与左衛門氏次を祖とする肥後田中家の墓所である。
豊前小倉に於いて細川忠興に召し出された。鉄炮頭・番頭などを勤めた。2,000石。

 ■志方家
 播州志方之城主志方左馬介の子孫。初代六兵衛(のち半兵衛)十五歳にて丹後召し出し。
初代半兵衛は、天草島原の乱に際して在京していた細川三斎に、その戦況を報告した「志方半兵衛言上之覚」を著した。

   ■下津家
 熊本城内・棒庵坂に名前を残す下津棒庵は、久我右大将晴通の息で、幼少時には金閣寺の僧となったが、加藤清正に還俗を勧められ
て下津宗可と名乗り、清正家臣となった。2,027石。一方加藤家の「牛方・馬方騒動」の告発人としても知られる。

棒庵の嫡男、初代・将監が細川家に仕えた。1,083石。9代久馬は、実学党の雄として肥後の維新に尽力した。

 ■平野家
 鎌倉幕府最後の得宗、北条時行の後胤。「平野右京■入道万休と申者之養子二而実者船橋二位業賢次男ニ而御座候 右業賢妹者三渕伊賀守様之御内室ニ而御座候 此御由緒御座候故か平野大炊助子孫 御家ニ被 召出候者共多ク御座候」と先祖附にしるす。

                                                        +--仙右衛門
                                |
                                +--弥五右衛門
                                |              細川家家臣・御擬作
                +---長時---源太左衛門---+--茂兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・→五郎家
                |
                | 甚左衛門 九郎右衛門   九郎右衛門              細川家家臣・2,000石
                +---長景-----長之--------+--長是・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→九郎太郎家
                |             | 庄大夫              細川家家臣・200石
                |             +--長直・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→七角家
       万久入道  大炊頭(介)   | 賤ヶ岳七本槍
           賢長===長治---+---長泰------長勝・・・・・・・・・・・・・・・・・→交代寄合衆・明治に入り田原本藩
                |
                +---長重・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→旗本
                |
                | 弥次右衛門  茂左衛門   知行召上               細川家家臣・20人扶持
                +---長知---+--長秀---三郎兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→弥平家
                      |
                      +--弥平太 島原の乱討死
                      | 元右衛門                      細川家家臣・300石
                      +--元弥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→甚兵衛家                                       
清原宣賢---+--業賢---+--枝賢
     |    |
     |    +--長治 平野家養子
     |
     +----女
         ‖-------細川藤孝-------忠興-------忠利
     三渕晴員

 
 ■藪家
 旧姓中村、駿府145,000石の城主・中村一氏の一族で中村家の没落後、藪内匠が細川忠興の客分12,000石で召し寄せられた。
 図書家・市正家からそれぞれニ家、計四家が明治に至った。

        +--大隈   +--右衛門==丹右衛門---兵右衛門---丹右衛門---源太---隼之允----吉三----徳次----九十郎(九十郎家
        |      |
藪伊賀守---内匠--+--図書-------+--図書------三左衛門----右膳----弥次右衛門----内蔵允----庄次郎----三左衛門---- 一(一家)
        |      |                                                                 政純(墓地・四方池)
        +--三左衛門 +--熊之允(御暇)
        | (紀州藪家)
        |      +--丹右衛門(兄・右衛門養子)
        |
        |                     +--源太左衛門(男子なく断絶)
        |                     |                                                                      養子・同姓茂次郎二男     
        +--市正------惣左衛門----+-- 弥次左衛門----久左衛門----+--市太郎----英次===輝吉===藤右衛門---市太郎(市太郎家)
                                                           |         (槙庵)  | (槐堂)                                     養子・実渡邊善右衛門二男
                              |              |
                              |              +--茂次郎---+---泰記----助作----小吉郎(小吉郎家)
                              |                (孤山)   |                              初名・作右衛門                                                                              +--権左衛門(男子なく断絶)        +---輝吉(英次養子)         

 ■上田久兵衛の墓・顕彰碑
 幕末期京都留守居役を勤め幕閣・諸藩重役・公卿間を奔走し公武合体に尽力したが、藩是の変更に伴い離任帰国、後玉名奉行・川尻奉行などを歴任した。西南の役勃発に当たり、川尻町民の乞いに応じて鎮撫隊を形勢して町の安寧に勤めた。
後、西郷隆盛に加担したとして罪を得て斬首刑となった。後名誉回復された。
川尻の町民は久兵衛の徳を偲び、禅定寺境内に顕彰碑を建立した。

 ■雲林院(うじい)弥四郎の墓

 ■久野(くの)家      (南東33-4)久野孤松家
    初代・次郎左衛門は、元佐久間右衛門(信盛)家臣で三斎公代豊前にて召出・三百石(先祖附)町奉行
などを勤めている。
佐久間信盛の嫡男・信栄は剃髪して不干斎と名乗る高名な茶人だが、そののちも次郎左衛門との交流を示す書簡が久野家に残る。

 ■藤村紫朗男爵の墓
 熊本藩士・黒瀬家の二男。菅野家の養子となり、尊王攘夷運動に加わる。明治6年山梨県権令(のち初代知事)となり、葡萄酒の醸造
や開拓事業などを推し進め、特に教育環境などの整備に当たっては疑洋風建築(藤村式建築)を建設したことで知られる。
のち愛知県知事、貴族院議員を勤め男爵を叙爵された。

 ■藤本家
 藤本勘助なる人物を祖とする藤本家が3家存在するが、こちらは藤本吉太郎家(南東39-12)、9代目の直次は奉行職を勤めた。
   名は正心、津志馬と称す。世禄三百石、使番、目附役、奉行副役、奉行、作事頭、中小姓頭等を勤む。明治三年五月廿七日没す、
   年五十七。墓は高麗門禅定寺。
その息・10代目吉太郎の写真が存在している。平成14年6月8日付・熊本日々新聞に掲載された記事が存在する。
「明治4年4月14日、東京浅草通於瓦町寫眞之 藤本吉太郎 熊本藩」と記されている。
大正13年82歳で死去。

   

          (只今書き込み中)

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■熊本は森の都か?

2023-12-11 09:42:07 | 些事奏論

                街路樹が都市をつくる

 私は今、図書館から借りてきた「街路樹が都市をつくる」という本を読んでいる。
一昨年亡くなった史談会会員の畏友・S氏はランドスケープ・デザイナーだったが、熊本は森の都といわれることに私が異議を唱えると、合槌を打ってくれた。
世界各地を回られたS氏は、「ヨーロッパの美しい都市はどこも街路樹がきれいですよ」と熱っぽく語っていた。
上記の本は「東京五輪のマラソンコースを歩いて」という副題がついているが、著者の藤井英二郎氏は千葉大学の名誉教授で環境植栽学・造園学の専門家である。
S氏だったら「あゝ、知っていますよ」と返事が返ってくるかもしれない。

 最近私は熊本駅周辺に何度か出かけた。路面電車であったり、一度は新町から歩いてみたりした。
ふと私は熊本のメインストリートは何処なんだろうかと思ってしまった。
ただ車だけが走る、人通りの少ない活気のない街並みが続いている。
道幅が狭く街路樹も少なく華やいだ景色になっていない。これでは人も歩いてみようとは思わないだろう。
夏目漱石が五高(熊本大学)に赴任してきたとき、池田ステーション(上熊本駅)に降り立ち、新坂を上り詰め「あゝ熊本は森の都だな」と感想を述べたといい、以降「熊本は森の都」と熊本人は思い込んではいないだろうか。
仙台市も「杜の都」だと言われる。写真でしか見たことはないが、比べてみると熊本は見劣りしてしまう。
まさに「街路樹が都市をつくる」の言葉がよく理解できる。

 中古自動車の販売店BMの店舗前の街路樹が切り倒されてしまったことが問題になった。
販売店がよく見えるようにとの考えに唖然とさせられた。

 熊本は細川護熙氏が知事の時代「アートポリス」を提唱されて名建築が誕生した。
漏れ伺うところによると、細川知事は「ヨーロッパの美しい都市」を目指されたと聞いた。
しかしこの事業は「点」にしかすぎず、「線」で街を構成するまでには至らなかった。
熊本市の道路行政に「街路樹で美しい熊本の街づくり」を考える、優秀な人材が出てこないだろうか。
そんなことを考えていると、畏友S氏の死が惜しまれてならないのである。

 今の時期、街路樹に色とりどりの電球が灯り、若い人たちが街に出て景色を楽しむようになると、シャッター街のシャッターが開き、クリスマスソングが流れる街並みになるのではないかと妄想をたくましくしている。
街路樹の豊かな「森の都」になってほしいと爺はせつに望むのである。

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