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「私たちはこうして「原発大国」を選んだ」武田徹

2011年05月17日 22時39分11秒 | 読書(ノンフィクション)


「私たちはこうして「原発大国」を選んだ」武田徹

いったいどうしてこんなことになったんだろう?
どこでボタンを掛け違えたんだろう?
反対派と推進派は、永久に噛み合いそうにない。
中立の立場で書かれた本を読みたい、と思ってこの本を選んだ。

結論から言うと、明快な解答は書かれていない。
この書籍の元のタイトルは『「核」論』、である。
だから、核に関する一般概論を述べた作品。
編集部が、3.11以降に、タイトルを変えて増補した。
だから、タイトルと内容がマッチしない。
でも、中立の立場で、基本概論が述べられてるからヨシとしよう。

付箋を貼りながら、読んでいったけど、もう付箋だらけ。
すべてを紹介するのは不可能。
ほんの一部・・・「しっぽの先の毛」程度を紹介する。

P43
日本学術会議で原子力研究をいかに行うべきかの議論を繰り広げているときに、国際状況が変わった。1953年の国連総会でアイゼンハウアーが「原子力を平和目的に利用すべし」とぶちあげた。そしてこのスローガンに呼応するように中曽根康弘代議士によって「原子炉築造予算2億3500万円」が国会に提出され、可決されている。
これは伏見康治ら核物理学者を中心とする科学者サイドにしてみれば聖天の霹靂だった。学術会議は科学に関する重要事項を審議し、実現を図るための組織である。ところがその学術会議を飛び越して原子力関係の予算が通過してしまうのだ。

つまり安全や、国民の合意より、アメリカの意向、政治が優先された、ということ?

正力松太郎、って人物がいる。
1955年、原子力利用キャンペーンを行い、原子力委員会を設置し初代委員長に着任、初代科学技術庁長官として入閣も果たした。ところが恥ずかしいことに「核燃料」を「ガイネンリョウ」と読み上げて満場の失笑を買ったそうだ。(のちに社会党委員長となった成田氏から「カクですよね?」と質問されている)
さらに正力を補佐するために経済企画庁計画部長の佐々木義武氏が総理府初代原子力局長に就くが、彼もまたその指名を受けたときに「ハラコリョク局長とは何かね」と尋ねた・・・これが日本原子力政策の始まりなのか?あぁ、おそまつ!(P2-P73)

電源三法について(P159)
①電源開発促進税法
②電源開発促進対策特別会計法
③発電用施設周辺地域整備法
「東京に原発を作れない」原発は実は過疎地にしか作れないものだった。
なぜか?それは原子力損害賠償法に関わる。(P159-164)
アメリカのブルックヘブン国立研究所が原子力施設の事故に関する報告書を提出していた。WASH-740と名付けられたレポートは、アメリカで検討されていた原子力賠償法の参考となるべきもので、大型原子炉内部の核分裂生成物が最悪の気候条件の下で50%大気中に放出された場合を想定して、その被害を理論的に計算していた。(中略)
このレポートの存在は、日本の原子力関係者に衝撃を与えた。(中略)復旧措置のために財源をあらかじめ確保しておく必要がある。そのための体制作りをどうするか―。(中略)
万一の破壊力が想像できないほど強くなりえる核技術の平和利用は、原理的に保険という考え方となじまないのだ。しかしそうした性格についての真剣な検討はなしに、日本では61年6月8日に原子力損害賠償法が成立した。(中略)
原子炉立地審査指針及びその適用に関する判断のめやすについてという資料がある。
①原子炉の周囲は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること。
②原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区域の外側は、低人口地帯であること。
③原子炉敷地は、人口密集地帯からある距離だけ離れていること。
(中略)
人Svの値を下げるために「人」数を減らすしかないからだ。こうして立地条件を限定することで原子力事故の賠償が天井知らずになることを防ごうとした。
これは、しかし、原子力発電所の運転継続を国が望む場合、その地域は過疎であり続けなければならないことにもなる。そうでないと立地指針によれば原発立地に相応しくなくなる。逆に言えば過疎化を前提とせずには、事故の際に現実的な範囲で、賠償可能の域に留めることは出来ない。これが原子力損害賠償法の裏側にあるリアリズムだった。
電源三法交付金は地域振興を本当に目的にすることは出来ない。では、それは何を目的としていたのかといことになる。電源三法交付金は永遠に過疎の運命を強いる事への迷惑料、慰謝料的な性格が強かった。


P174-175
事故の際の被害が見積もられ、そこからのリスク・マネジメントの発想から、原発立地には都市を避けるべきだと考えられていたことが、立地予定地をはじめとして充分に社会全体に知られていたら、歴史はまったく変わっていただろう。(中略)
電源三法を中心とした振興策の明るい面だけが無根拠に謳われる。その意味で日本の原子力を巡る状況を大きくねじれさせた分水嶺となったのは74年なのだ。

【参考リンク】
原子力損害の賠償に関する法律
・・・事故を起こした原子力事業者に対しては、事故の過失・無過失にかかわらず、無制限の賠償責任がある、とある。
・・・ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りでない、と。
原子力安全委員会サイト→http://www.nsc.go.jp/
原子炉立地審査指針及びその適用に関する判断のめやすについて」も原子力安全委員会サイトに資料として保存されている。


ロバート・オッペンハイマー1904/4/22-1967/2/18
J. Robert Oppenheimer,
この時期(1946)、オッペンハイマーはアチソンの紹介でトルーマンに会っている。
自分が作り出した「悪魔の兵器」を、実際に使用する命を下したトルーマン大統領と初めて面会したとき、オッペンハイマーは彼らしい芝居がかったせりふを述べる。
「閣下、私の手は血まみれです」
トルーマンはそれに応えて言った。
「気にしなさんな、洗えば落ちる」
そしてトルーマンはオッペンハイマーが去った後にアチソンにこう語ったという。「あの泣きべそを連れてくるのはもうやめてくれ」。
P120

JohnvonNeumann-LosAlamos.jpg
ジョン・フォン・ノイマン
(ハンガリー名ナイマン・ヤーノシュ、ドイツ名ヨハネス・ルートヴィヒ・
フォン・ノイマン)
日本に対する原爆投下の目標地点を選定する際には「京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっているからこそ殲滅すべき」だとして、京都への投下を進言した。スタンリー・キューブリック『博士の異常な愛情』の登場人物モデルの一人ともされている。
「・・・彼は原爆投下にあたっても、被害者に対する同情の念をほとんどもたなかった。〈徳盲〉が〈悪魔の頭脳〉をもった時、結末は真に〈悪魔的〉なものになる」『二十世紀数学思想』(みすず書房)

【ネット上の紹介】
唯一の被爆国でありながら、「豊かさ」への渇望ゆえに「原発大国」となった日本。「兵器としての核」の傘の下で、平和憲法を制定した日本。このねじれを推進/反対どちらにも寄らない筆致で検証。その視野は政財官から「鉄腕アトム」まで及ぶ。2011年の原発事故論を増補。 
[目次]
一九五四年論 水爆映画としてのゴジラ―中曽根康弘と原子力の黎明期;一九五七年論 ウラン爺の伝説―科学と反科学の間で揺らぐ「信頼」;一九六五年論 鉄腕アトムとオッペンハイマー―自分と自分でないものが出会う;一九七〇年論 大阪万博―未来が輝かしかった頃;一九七四年論 電源三法交付金―過疎と過密と原発と;一九八〇年論 清水幾太郎の「転向」―講和、安保、核武装;一九八六年論 高木仁三郎―科学の論理と運動の論理;一九九九年論 JCO臨界事故―原子力的日光の及ばぬ先の孤独な死;二〇〇二年論 ノイマンから遠く離れて